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明治150年、何がめでたい(36)

大日本帝国の住民抑圧政策(3)

日本ファシズム論(2)



(勝手なおことわり……前回で木坂(執筆者)さんは「国民精神総動員運動」・「産業報国運動」をそれぞれ「精神運動」・「産報運動」と略称すると提示していましたが、その後の論説を読んでいて、私にはその略称はとても不便でした。以下、略称ではなく、本来の表記を用いることにしました。)

 国民精神総動員運動は、天皇制イデオロギーによる人民の思想的統合と団結をはかり、人民を自発的に戦争体制に動員することを目的とした、政府主導による上からの精神運動でした。それがあたかも人民による自発的な精神運動であるように偽称されていった経緯を追ってみます。

 林銑十郎内閣時代(1937年2月2日~6月4日)に内閣情報委員会が立案していた「国民教化運動方策」がその運動の出発点でした。
1937年6月24日
 各省次官会議が「国民教化運動に関する宣伝実施基本計画」を策定。
8月14日
第一次近衛文麿内閣、日中戦争の全面化に踏み切り、「国民的思想運動」を起こすことを決定。
8月24日
 「国民精神総動員計画実施要綱」を閣議で決定。
9月2日
 政府主催で国民精神総動員大演説会を東京の日比谷公会堂で開催。

 これが国民精神総動員運動の開始でした。その後は次のように進展していった。
10月12日
 馬場鍈一内相と安井英二文相の指導のもとに、運動の推進団体として国民精神総動員中央連盟が結成される

 この連盟は、民間から盛上がる自発的運動であるとの外観を国民精神総動員運動に与えるためにつくられた政府の外郭団体であり、、会長に有馬良橘海軍大将、役員には政界・官界・財界の代表者が就任。同時に政府は、民間団体に連盟への参加を要請しました。その結果、加盟団体は1938年3月31日現在で74団体に達しています。
 その後の進展については論考をそのまま転載します。


 国民精神総動員運動は、日本主義精神による精神教化運動と国策協力運動を二本柱として全国的に展開されたが、運動の熱心な推進団体は
帝国在郷軍人会・海軍協会・海軍有終会などの軍人団体、
国体擁護連合会・時局協議会などの「観念」右翼団体、
愛国婦人会などの婦人団体、
壮年団中央協会・大日本連合青年団などの青壮年団体、
全国神職会・仏教止連合会その他の教化団体
などであり、それらの団体役員の多くは小工場主・小売商店主・小地主・教員・神官・僧侶などのいわゆる地域の有力者=名望家であった。

 国民精神総動員運動の地方組織は、道府県単位の国民精神総動員地方実行委員会が中心となり、これに地方官庁が協力するという形でつくられた。実行委員会は、精動中央連盟よりもひと足早く10月6日までに結成され、全国で2845名の委員が任命されたが、そのうちわけは貴衆両院議員203名、道府県会議員198名、団体代表625名、通信報道機関代表者220名、教育家238名、宗教家76名、社会事業家79名、実業家139名、その他の有力者103名(以上民間人)、官吏588名、待遇官吏41名、市町村吏員325名(以上官僚)であり、民間人1891名(66%)にたいし官僚954名(34%)というように、民間人中心の運動いう外観をあたえるように配慮されていた。しかし市町村単位の組織をもたない実行委員会は、内務省の統轄下にある市町村役場とその指導下にある町内会・部落会に依存しなければ事実上運動ができないという限界を、発足の最初からもっていた。

 国民精神総動員運動の表面的な華々しさにもかかわらず、1938年になると早くも公然たる批判の声があげられるにいたった。
 第一の批判は、下部組織の弱さを克服するために部落会・町内会などを整備して利用せよというもので、内務官僚出身の産報中央連盟理事松井茂の意見がそれを代表していたが、それはすでに農山漁村経済更生運動や選挙粛清運動を通じて部落会や町内会の整備に着手しはじめていた内務官僚の意向を示すものであった。
 第二の批判は、運動の天降り的官僚主義や形式主義にたいするもので、1938年7月11日の『大阪朝日新聞』社説「精神総動員当面の目標」は、。
「地方実践網を命令一本で作れるように考えたり、散発的講師の派遣や講習済みの弁士の巡回で実効があるように思う安易な官僚風を修正せよ」。
と指摘した。

 その約一ヵ月まえの6月25日、大本営は徐州作戦につづいて武漢・広東両作戦の実施を決定し、6月23日には政府が物資総動員計画を発表するなど、さらに大規模な人民動員が必要となっていたにもかかわらず、精神運動中央連盟は上のような批判にたいする適応能力を欠いており、政府による強力な指導を要望する意見が連盟の内外から高まってきた。
 そこで政府は、7月29日、内政会議(首相・蔵相・内相・文相で構成)に精神運動にたいする企画と指導の権限をあたえるという措置をとり、ここに国民精神総動員運動は、民間人主導の外観を放棄し、政府とりわけ内務官僚と警察主導の方向にすすむことになった。
 ところがこのような動きと並行して、7月2日、有馬頼寧農相が「下からの盛り上がる国民運動」を推進するための「国民総動員の再組織」=国民再組織論を提唱したことは、きわめて重大な意味をふくんでいた。というのは、「精動方式か、国民の自発性尊重か」という論争は、実は天皇制下における人民支配の基本原理とその方式をめぐる深刻な論争であったからである。すなわち、国民精神総動員運動の指導理念は、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」という三大スローガンにみられるように、明治以来の伝統的な天皇制イデオロギー=日本主義精神であり、きわめて抽象的かつ精神主義的性格をもち、実社会の生活と直結したものではなかった。そのためこれらのスローガンを実社会の生活と結びつけて機能させようとすれば、スローガンの内容を具体的に確定することは困難となり、結局主観的かつ恣意的な基準(多くは政府の国策)によって異端者と判定されたものを「国賊」「非国民」などのレッテルをはって排余するという消極的対応しかできなくなる。つまり天皇制が政治権力=権力的絶対者であると同時に精神的権威=倫理的価値内容の独占的決定者として社会に君臨している戦前の日本にあっては、「倫理の内面化が行われぬために、それは絶えず権力化への衝動を持っている。倫理は個性の奥深き底から呼びかけずして却って直ちに外的な運動として押し迫る」ことになる。したがって国民精神総動員という方式こそ、天皇制支配下における「国民運動」方式による人民支配の基本的形態なのである。そしてまた「精動方式か、国民の自発性尊重か」という問題が、戦時下のあらゆる官製国民運動のあり方が議論されたときにかならず深刻な論争となった理由は、それが官製国民運動のもつ警察取締り的性格と人民の自発性喚起との矛盾を示すものであったからにほかならない。


 この後、日中戦争の戦局の変化が国民精神総動員運動にも大きな影響を及ぼしていく。


 1938年10月の広東・武漢両作戦終了を契機に戦局が持久戦段階にはいり、11月3日に「東亜新秩序建設」声明を発表したのち、近衛内閣は戦争解決のめどを完全に失って総辞職した。
 1939年1月5日に成立した平沼騏一郎内閣は、首相の「観念」右巽的体質を反映して国民再組織論には冷淡であり、木戸幸一内相は、1月9日、「「国民再組織」という言葉は国民を侮辱するようにおもえる」と語った。平沼内閣は、国民精神総動員運動に対する政府主導の方向を強化し、3月28日、荒木貞夫文相を委員長とする国民精神総動員委員会を設置し、内政会議が持っていた精神運動に対する企画と指導の権限を委員会に委譲した。ここに国民精神総動員運動は、精神運動委員会の企画と指導のもとに精神運動中央連盟がその実行にあたるという体制で推進されることになった。これにともない精神運動委員会は、4月7日、「国民精神総動員新展開の基本方針」を決定し、そのなかで「(一)肇国の大理想を顕揚し東亜新秩序の建設を期す、(二)大に国民精神を昂揚し国家総力の充実発揮を期す、(三)一億一心各々其の業務に精励し奉公の誠を効さむことを期す」との三大綱領を決定したが、そこには初期の三大スローガンにかわり、「東亜新秩序建設」声明以後における内外情勢が反映されていた。

 この時期の動きで重要なことがらは、地方組織の整備が急速にすすめられたことである。地方組織については、内務省が指導して道府県庁内に精勤運動の主務課(名称は総動員課・総動員事務局・地方課・事変課・時局課などさまざまであった)を新設する一方、4月28日、精神運動中央連盟理事会は、(一)道府県連盟の設置とそれによる郡市連盟支部の指導および郡市所在の各種団体との連絡強化、(二)町村における町村分会の設置と分会による隣保組織(部落会または五人組・一〇人組あるいは隣保班など)の指導、の二点を決定し、講演会・座談会・講習会などの開催と興亜奉公日(9月1日より毎月1日と決定)の行事を通じて実践網の整備にのりだした。その結果、1939年10月31日現在の道府県内実践網設置状況は、大きく伸びた。しかし、この実践網の整備は、表面的には精神運動中央連盟がおこなった形をとったが、実質的には内務官僚と警察の手によって推進され、のちの大政翼賛運動における内務官僚と警察の指導力の強さを保証する源泉となった。同時に世親運動中央連盟は、道府県庁あてに通牒を発し、各道府県ごとに1~6名の実践網優良指導者を上申させた。それによると、優良指導者の職業別構成には市町村長など内務大臣の統轄下にある地方官僚主導型の体質がはっきりと示されていたのである。

 その後1940年4月24日、米内光政内閣は、ついに精神運動委員会と精神中央連盟を廃止して新たに国民精神総動員本部を設置し、米内首相を本部会長、児玉秀雄内相と堀切善次郎(本部理事長兼任)を副会長とする一元的指導体制を確立した。同時に地方組織については、道府県知事を本部長とする地方本部が設置され、内務省はみずから「新機構に進んで参画し、中央地方共にその運動の主体となる」との考えのもとに、部落会・町内会などを国民精神総動員運動の下部組織として整備する方針を全面的に打ちだした。この内務省の方針は、新体制運動が展開中の9月11日にだされた内務省訓令「部落会町内会等整備要綱」にうけつがれてゆくのである。

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