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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(35)

大日本帝国の住民抑圧政策(2)

日本ファシズム論(1)



 前回「日本ファシズム論」を取り上げる予告をしてから、早くも一週間が過ぎてしまいました。参考書に選んだ『岩波講座 日本歴史20 「近代7」』のどの章を紹介しようかと、ファシズムに関連する章を読んできたのですが、随分と時間がかかってしまいました。
 その過程で、日本ファシズムの形成過程がかなり複雑であることを知りました。その形成過程を出来るだけ簡素に纏めてくれている章として第七章を紹介することにしました。章題は「大政翼賛会の成立」で執筆者は木坂順一郎(執筆時、竜谷大学法学部教授)さんです。

 まず、日本ファシズムの特異性を指摘している「はじめに」を読んでおきましょう。

 日本のファシズムは、ドイツやイタリアのファシズムが「下からのファシズム」とよばれているのにたいし、「上からのファシズム」とよばれている。その最大の理由は、日本のファシズム化がドイツやイタリアのようにファッショ政党による擬似革命の成功という形態をとらず、天皇制支配体制内部の軍部を中心とする勢力が政治の主導権をにぎり、既存の国家機構をなしくずしに再編成することによって達成されたからにほかならない。
それだけに日本のファシズムには、極端な排外主義・侵略主義イデオロギーによる武力的対外進出の正当化とその実行、ファシズム以外の思想や運動を抹殺する暴力的専制支配、独占資本の利益の擁護といったファシズムに共通する特徴と同時に、ドイツやイタリアのファシズムとは異った特徴がつきまとっていた。

 言うまでもなく、ドイツ・イタリアのファシズムとは、それぞれ、ヒットラー・ムッソリーニが構築した政治体制である。そのファシズムと日本ファシズムの大きな違いは大政翼賛会の結成に顕著に現れていた。
1940(昭和15)年10月の大政翼賛会の結成は、日本ファシズムが体制として成立したことを示すばかりでなく、そこには日本ファシズムがもつ三つの特異な問題点が集中的に表現されていた。
その
 第一の問題点は人民支配の方式に関する問題であり、
 第二は権力集中の問題であり、
 第三は戦争と国際政治の推移がもたらす衝撃によってつねに上からのファッショ化が促進されたという問題である。

 ところでこのうちの第一と第二の問題は、国家総力戦体制の樹立という当時の支配層にとっての緊急課題と分かちがたく結びついていた。一般に国家総力戦体制とは、一国のすべての構成員と物的資源を有機的かつ有効に組織・統制・動員し、現代戦争を遂行するために必要な一元的戦争指導体制である。
 しかし天皇制支配下の日本でこのような体制を構築するためには、治安立法の強化による人民諸勢力への徹底的弾圧を前提としつつ、国家による人民の直接的把捉をつうじて人民の戦争協力への自発性を喚起することが必要であり、また大日本帝国憲法が定める多元的国家機構を整備統合することを中心に強力な権力集中を実現すること、具体的には国務と統帥の矛盾の解決、官僚制のもつセクショナリズムの打破、支配層内部の対立の一掃などが必要となる。しかも人民支配のあり方をめぐっては、治安対策の強化と人民の自発性喚起という本来矛盾する問題を同時に遂行しなければならないという困難がつきまとい、権力集中に関しては、憲法改正にまで行きつかないことには兵の一元的戦争指導体制が実現できないという困難な問題がふくまれていた。しかもこれらの問題は、いずれも天皇制存立の根本原則にかかわる重大な問題を内包しており、とくに近衛文麿内閣以後の歴代内閣は、これらの問題解決のために苦悶しなければならず、それだけにまたこれらの問題は、大政翼賛会の結成をめぐってもっとも深刻に争われなければならなかったのである。

 また第三の問題についていえば、日本の場合、一五年戦争の全期間をつうじて戦争と国際政治の推移がもたらす強烈な衝撃力によって常に上からのファッショ化が促進されたのであり、そうであればこそ日本ファシズム体制の成立・展開・没落の全過程を分析するにあたり、戦争と国際政治の推移を国内政治の動向と結びつけて考察することをつねに視野のなかにいれておくことが必要となる。

木坂さんはこれ以降の論考の課題について、  『以上のような三つの問題を念頭におきながら、大政翼賛会成立前後の政治過程を分析することにある。』
 と述べている。

 それでは第一節
「国家総力戦体制樹立への指向」
 に進もう。

1 官製国民運動の展開

 日中戦争の勃発(1937年7月7日)により大日本帝国は戦時国家の道を進み始めることになり、人民支配政策に大きな変更を強行した。

   日中戦争の勃発は、人民支配の方式に大きな変化をもたらした。
 それは、治安対策の強化を前提とし、国家による上からの人民の組織化が強行されたことであり、具体的には国家総動員法を根幹とする戦時統制法の乱発と、国民精神総動員運動(以下精動運動と略称)や産業報国運動(以下産報運動と略称)などの官製国民運動の大規模な展開となってあらわれたのである。

 治安対策の面では、治安維持法などの拡大適用のほかに、
 戦時治安法体制への移行を象徴する思想犯保護観察法(1936年5月28日公布)
 不穏文書臨時取締法(同年6月3日公布)の制定
 軍機保護法の改正(1937年8月24日公布)
 防空法の施行(同年10月1日)
などの措置がとられ、
 国家総動員法(1938年4月1日公布)の制定によって、政府は国防目的の達成を大義名分として一切の人的・物的資源にたいする統制権を手中に収めたた。
 そして国家総動員法にもとづき強力な労働力統制が実施され、
 国民徴用令(1938年7月8日公布)の制定によって全般的労働義務制が成立した。

 一方人民運動の側では、日中戦争の勃発を契機に労働争議が激減し、1932(昭和22)年3月の人民戦線事件によって全国的な組織的抵抗運動は不可能となった。
 しかし弾圧と労働力の統制によって人民の自主的組織を壊滅させても、それによってただちに人民の戦争協力への自発性が喚起できるわけではない。これらの措置と並行して各種の官製国民運動が展開された理由は、ここにあった。

人民戦線事件とはどういう事件だったのか。サイト「コトバンク」から「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」を転載しておこう。
1937年 12月 15日および,38年2月1日の2回にわたって,人民戦線派といわれた日本無産党,日本労働組合全国評議会,社会大衆党などの左翼労農派を治安維持法違反で一斉に検挙した事件。1回目の検挙者は約 400人に及び,山川均,猪俣津南雄,荒畑寒村,鈴木茂三郎,向坂逸郎,加藤勘十,江田三郎,黒田寿男,稲村順三らが含まれていた (第1次人民戦線事件) 。2回目も全国に及び,有沢広巳,大内兵衛,美濃部亮吉,脇村義太郎ら教授グループを中心として,佐々木更三を含む 38人が検挙された (第2次人民戦線事件) 。

 次回は、精動運動と産報運動の大規模な展開が大政翼賛会成立の前提条件を形成していった経緯をたどっていきます。
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