2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(31)

大日本帝国の植民地(14)

戦時下の植民地(11)


『植民地支配の崩壊』(2)

 前回見たように、戦時下の大日本帝国による植民地支配は、戦争末期には総力戦体制を支えるための徹底的な植民地収奪によって植民地経済は生産力拡充、農産物の増産集荷、労働力動員、物資の配給統制などすべての面でほとんど破綻していました。
 この状況をさらに植民地支配の内部からの崩壊へと推し進めたのは、各植民地でたえまなく続けられた抗日民族運動と植民地人民の様々な抵抗でした。今回はその「植民地支配の崩壊」に至る経緯を取り上げます。

[満州国の場合]

1941年12月末 治安維持法を公布施行
 治安維持が終始最大の課題であった「満州国」では、太平洋戦争勃発後、従来の暫行懲治叛徒法・暫行懲治盗匪法を改正統合して新たに治安維持法を公布施行した。この法に、すべての反満抗日勢力を「国体ヲ変革スルコトヲ目的」とするものとして極刑に処すという規定を設けて、治安体制の強化をはかったであった。

   しかしなお、国内の抗日勢力の一掃は不可能であった。
 前回に取り上げたように、1940年から小部隊編成に移った満州の東北抗日連軍は、その後も引き続き各地で遊撃活動を展開した。
 たとえば42年初には第三路軍系の王明貴部隊は黒河省に進出し、ついで北安・竜光・興安東省に遊撃戦線を拡大した。
 また1938年から熱河省に進出した八路軍部隊と抗日連軍の冀察熱(地名)挺身隊はその後も遊撃地区をしだいに拡大し「満州国」支配を側面から脅かした。
このため日本は、41年10月から「西南地区治安粛正工作」を実施し、熱河地方の抗日勢力の一掃をはかったが、日本の敗戦にいたるまでその目的は達せられなかった。

[朝鮮の場合]

 一方、朝鮮人民革命軍も1940年8月以来小部隊編成の下に間島省一帯と朝鮮内に深く潜入して活動をつづけ、これに呼応して朝鮮各地に祖国光復会をはじめとする地下抗日組織が拡大していった。

 このような人民革命軍の活動は朝鮮人労働者に強い影響を与えた。1942年7月には朝鮮窒素興南工場、片倉製糸咸興工場などでストライキがおこり、43~44年にはソウル・平壌の電気部門労働者が反日秘密結社を組織して強制徴用反対の闘争を行い、日本製鉄清津製鉄所の労働者はサボタージュ闘争を展開する一方、大規模な反日暴動の準備のため人民革命軍との連絡をはかった。また平壌の鉄工労働者もひそかに武器をつくり、人民革命軍に合流して祖国解放の武装闘争への参加を計画した。労働者の抵抗とならんで、一般民衆の中にも民族的抵抗は根づよく続いた。

1941年2月 総督府、朝鮮思想犯予防拘禁令(制令八号)を施行
   朝鮮人の反日思想を極度におそれた総督府は、この政令施行で抗日朝鮮人の取締りの徹底を期した。
 また42年10月には『ハングル大辞典』の編纂をすすめていた朝鮮語学会を治安維持法によって弾圧し、李允宰、李克魯ら多数の朝鮮人を検挙し、起訴した12名のうち李允宰と韓澄を獄死させ、他の者を二年から六年の刑に処した。
 しかしこれでもって朝鮮人民の反日思想を抑えられるはずはなかった。たとえば日本官憲によって検挙された思想事件数だけをみても、42年の183件から43年には322件に、さらに44年は上半期のみで132件に達している。

 さらに日本の敗戦が近づくと、国外の朝鮮民族の独立運動もあらたな高揚を迎えた。中国本土では1942年秋、国民政府の要請によって金元鳳派の朝鮮義勇隊が韓国光複軍に合流し、朝鮮民族革命党も臨時政府支援を表明した。また中国共産党の援助下にあった華北朝鮮青年連合会は、朝鮮義勇隊の参加をえて43年8月に華北朝鮮独立同盟と改称し朝鮮独立の闘争に参加した。

 1943年11月 米・英・中三国によるカイロ宣言採択
  この宣言で
 「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ(やがて)朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシメルノ決意」
  を表明したことは朝鮮の独立運動をつよく刺激した。翌年3月韓国光複軍は朝鮮独立に備えて国内工作委員会(委員長金九)を設置した。また朝鮮でも44年8月呂運享らが建国同盟を結成し、下部に農民同盟、軍事委員会などを組織するとともに、海外の独立運動と連絡をとりつつ朝鮮解放の日に備えた。

[台湾の場合]

 この間、台湾人の民族運動も絶えることはなかった。
 前回に取り上げたように、1940年に在中台湾人の抗日民族団体を糾合して重慶に台湾革命大同盟(翌年台湾革命同盟会と改称)が結成されたが、1942年国民政府は台湾回収に備えて革命同盟会を母体とする軍事委員会直属の台湾工作用団と国民党台湾省党部準備処を設立した。
 さらに43年のカイロ宣言により台湾の中国返還が約されると、国民政府は中央設計局に台湾調査委員会を設け、台湾の実情調査と行政経済幹部の養成にあたった。
 また台湾島内では日本の徹底的弾圧によって人民の組織的抵抗はほとんどみられなかつたが、戦争末期に日本の台湾統治の動揺が深まると、台湾人民の反抗をおそれた総督府官憲は、蘇澳スパイ事件(10人以上の台湾人漁民が軍法会議にかけられて処刑された)を捏造して台湾住民に激しい弾圧を加えた。

 このように各植民地の内外における抗日民族運動と人民の抵抗が日本の植民地支配に重大な脅威を与えていたとき、太平洋戦争における日本の破局化は、さらに日本の植民地支配を最終的に支えてきた日本帝国主義の軍事力を急速に衰退させるにいたった。

 まず「満州国」支配の軍事的支柱をなした関東軍は、1943年以降南方作戦のためた相次いで基幹兵力を抽出され、43年の兵力保有量(実質九箇師団程度)は42年の半分以下に減少した。
 このため43年8月大本営は関東軍の任務を根本的に変更し、
 「概ネ京図線(新京・図椚間)以南、連京線(大連・新京間)以東ノ要地ヲ確保シテ持久ヲ策シ以テ全般ノ作戦ヲ有利ナラシム」
 こととし、対ソ戦に備え「満州国」全土の防衛に当るとされた関東軍の従来の任務は完全に放棄された。
 関東軍からの兵力抽出はその後もつづき、45年3月には陸海軍の本土決戦計画にもとづいて七箇師団が日本と朝鮮南部に送出された。

 このような兵力の激減を補うため関東軍はいわゆる「根こそぎ動員」を計画し、同年7月から在満日本人適齢男子約40万人のうち必要最少限の要員を除く約25万人の臨時召集を実施した。
 しかしすでに関東軍の装備は絶対的不足を示し、あらたに動員された部隊の兵器も国境守備隊の全面的撤退と「満州国」軍の改編整理によって浮いた兵器を流用するほか、「尚足らざるは竹槍装備をするも可なり」といった有様で、関東軍を主力とする「満州国」の軍事体制は、ソ連の参戦を目前にしてすでに解体寸前の状態に陥っていたのである。

 また朝鮮では、44年10月のアメリカ軍のフィリピン上陸作戦後に戦場化の危険性が急速に高まると、45年2月朝鮮軍は本土決戦準備にあわせて第一七方面軍(司令官上月良夫)に改編され、3月には大本営の指示によって済州島と南朝鮮の兵力増強が行われ、とくにアメリカ軍の攻略が予想された済州島は全力をあげて要塞化された。また済州島以外の南朝鮮の兵力不足は、在朝鮮日本在郷軍人の最大限召集と多数の朝鮮人兵士の編入によって補われたが、その戦闘能力の劣勢は覆うべくもなかった。

 一方、総督府では、6月の日本における国民義勇隊の組織化にならって、翌月総力連盟を解散させ、新たに朝鮮国民義勇隊を編成し、朝鮮人を軍隊的に組織して戦争への総動員をはかった。

 さらに台湾では、44年7月サイパン島の日本軍全滅を契機とする戦局の急激な悪化によって台湾の戦場化は不可避とみられた。そのため同年8月5日総督府は「台湾戦場態勢整備要綱」を発表し、
 「台湾戦場化必至の情勢に鑑み陸海軍の作戦に即応して台湾の有する人的物的総力の戦功的切替を断行」(『台湾時報』1944年8月号、4頁)
する台湾防衛の方針を明らかにし、軍事・行政・経済・民生の全般にわたる臨戦体制化を実施し、総督府に防衛本部・経済動員本部・運輸通信本部の三臨時機構を創設し、戦時行政を一元化した。
 また9月には台湾軍が第一〇方面軍に改編され、12月末同方面軍司令官安藤利吉陸軍大将が長谷川清に替って総督を兼務し、軍と行政の一体化を実現した。

 このような台湾の臨戦体制の下で台湾人民の戦争への動員はさらに強化された。すでに44年7月から国民徴用令が全面的に発動されたほか、45年2月産業奉公会は台湾護国勤労団に改編され、勤労隊編成によって軍特殊工事などに従事する台湾人労働者は一日当り27~30万人におよんだ。
 また6月には台湾でも皇民奉公会と保甲制度(行政機関の最末端組織。10戸で「甲」を、10甲で「保」を編成。)をともに解消し、これらを基盤として本島防衛の実践組織としての国民義勇隊が中央・地方に結成され、台湾人民の決戦体制への動員が計画された。

 しかし、このときすでに台湾の植民地支配は事実上麻痺していた。
 45年4月アメリカ軍の沖縄上陸作戦の開始によって日木本土との海上連絡は完全に杜絶し、5月末の米軍機の台北大空襲によって軍=総督府の統治機能は半身不随の状態におちいった。
 こうして日本の敗色が濃厚になると、前述のように台湾住民の日本支配からの離反傾向は様々な形で表面化したのである。

1945年8月15日 大日本帝国、無条件降伏。
 敗戦による日本帝国主義の崩壊は、すでに戦争末期にあらゆる面で崩壊に瀕しつつあった日本帝国主義の植民地支配の解体を最終的に決定づけた。

 8月9日未明、ソ連極東軍がソ満国境の三正面から一斉に進攻を開始すると、すでに決定的に空洞化していた関東軍は一挙に潰走した。8月13日「満州国」皇帝と政府首脳は関東軍総司令部とともに通化省臨江県大栗子まで後退し、日本降伏後の8月17日最後の重臣会議は皇帝の退位と「満州国」の「解散」を決定した。これが「満州国」の最後であった。
 また朝鮮、台湾では、日本降伏後もしばらくは各総督府の機構が形式上残存したが、植民地支配権力としての実質が日本帝国主義の敗北と同時に喪失したことはいうまでもない。

 かくて満州、朝鮮、台湾をはじめ日本帝国主義の全植民地支配体制は、戦時体制の下で埴民地支配のあらゆる矛盾を露呈しつつ、日本帝国主義の敗北と同時に瓦解した。それはまた、各植民地で長年にわたって絶えることなく続けられた各民族の抗日と独立と解放の闘いの歴史的結実だったのである。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2415-2a19ff89
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック