FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(30)

大日本帝国の植民地(13)

戦時下の植民地(10)


 今回から、『戦時下の植民地』の最終章に入ります。

『植民地支配の崩壊』(1)

戦時植民地支配の破綻

1941年12月 太平洋戦争勃発
 この戦争のあらたな拡大は、植民地に対たいする日本の軍事的要求をさらに増大させたが、すでにそのとき各植民地の戦時体制はあらゆる面で行詰りつつあった。
 この状況に対応する植民地政策は次の様に進められた。

[満州国の場合]

 12月22日 「満州国」政府は「戦時緊急経済方策要綱」を発表。
  「日本における戦時緊急需要の応急充足に対処」するために石炭・鉄・非鉄金属など重要物資の対日増送を最重点とする経済再編の緊急方策を明らかにした。

  すでに41年9月に策定された満州産業開発第二次五ヵ年計画原案でも主力を石炭と農産物の増産におく極端な重点主義の方針が確認されていたが、開戦による日本の軍需の急増は計画の確定を困難にし、さらに必要な資金・資材の調達の見通しもなく、結局第二次計画は、第一次計画における満州産業の「開発」主義からもっぱら日本の軍事的必要に即応する生産拡充主義にその性格を一変させていた。
  そして、上記のような戦略物資の増産と対日増送のみを追求する経済政策の強行は、満州戦時経済の矛盾と偏頗性を、次のようにさらに拡大した。

 生産力拡充資金調達のため満業は、41年6月満州投資証券株式会社(「満州国」特殊法人)を設立する一方、同年9月に自社資本を6億7500万円に増資し、45年には関係会社への投融資額は41億円をこえた。
 また42~45年の日本の対満投資総額も25億9300万円にのぼったが、日本からの資材供給は41年をピークとして減少し、さらに不足する資材の政府による配給も不均衡となった。たとえば42年度の昭和製鋼所の各種割当資材の実績配給率は平均約七割にとどまり、満州炭鉱でも平均約六割にすぎなかった。したがって膨大な投資にもかかわらず満州の生産拡充計画は破綻を免かれなかった。
 たとえば石炭生産の43年度実績は2650万トンで計画の90%にも充たず、家庭炭、一般産業用炭を極度に制約した。また同年度の銑鉄・鋼材の生産実績もそれぞれ計画目標の57%、44%にすぎなかった。その上、44年7月にはじまる米軍機の鞍山・大連地区の空襲は軍需産業に甚大な打撃を与え、満州戦時経済を混乱させた。

 このように、生産拡充と戦時行政の拡大は巨額の国家資金の撒布を要求した。そのため満州中銀券の発行高は41年から急激な膨脹を示し、戦時インフレの深刻化は民衆生活を破滅に追いこんだ。

 このような植民地の戦時インフレーションは朝鮮・台湾でも例外なく昂進した。朝鮮では膨大な臨時軍事費の撒布と総督府財政の膨脹、生産力拡充資金の放出等によって朝鮮銀行の通貨発行高は累増し、台湾でも軍資金が台湾銀行券の形で撒布され、生産力の減退による物的裏付を欠いたまま悪性インフレを昂進させ、物価の急騰を招いた。植民地の戦時経済における通貨の膨脹と物価の上昇は日本本国に此してはるかに急激であり、植民地人民が戦時インフレによっていかに激しい収奪にさらされていたことが分かる。

 さらに満州では、上述のようなインフレに加えて消費物資の絶対的不足により41年8月から実施された日常生活必需品の配給切符制は、43年6月の通帳切符配給統制規則の制定によって全面的に強化された。しかし戦時統制経済が広汎かつ複雑になるにつれ、経済の混乱とヤミ市場の拡大を招き日本当局者でさえヤミ市場で重要物資の収買に当る有様で、戦争末期には満州の統制経済は完全な行詰りに逢着した。

[朝鮮の場合]

 また朝鮮でも太平洋戦争開戦後の日本の要求は鉄鋼・石炭・軽金属などの重要地下資源に向けられた。しかし朝鮮の生産力拡充計画は、満州の場合と同じく資材・労働力の不足に阻まれ、その実績は41年度84%、42年度75%、43年度90%といずれも目標に達しなかった。
 そのため総督府では、44年4月から生産責任量を指示し、併せて総督府の行政機関、総力連盟をあげての責任完遂総決起運動を展開し、生産増強に狂奔した。
 また44年から生産力拡充計画を重点主義に移すとともに「企業整備」を実施し、その結果、朝鮮の中小民族資本は日本独占資本にほとんど吸収され、同年の朝鮮産業会社に占める朝鮮民族資本の比率はわずか2.9%にすぎなかった。

[台湾の場合]

 台湾では太平洋戦争勃発後の「南進基地」としての役割の増大に即応して、42年4月から先の臨時台湾経済審議会の答申にもとづいて生産力拡充第二次五ヵ年計画を実施した。
 この計画は主として台湾の重化学工業化に重点をおき、石炭・鉄鋼・軽金属などの鉱物資源の増産がはかられた。しかし戦局の悪化と船舶の絶対的不足による海上輸送力の減退は、必要な資源・資材の供給を困難にし、台湾の生産計画そのものを破綻にみちびいた。
 たとえば第二次五ヵ年計画の一環として42年から着手された出力46万キロワットの大甲渓電源開発事業も日本からの必要資材の供給不能によって翌年にははやくも計画はうちきられた。
 さらに44年7月のサイパン島の日本軍全滅、10月の米軍のフィリピン上陸作戦による戦局の破局化は日本との海上連絡をほとんど杜絶させ、また同年10月から開始された米軍機の台湾空襲は台湾工業に重大な損害を与え、44年度の生産実績は計画の65.4%にとどまった。

[植民地農業の荒廃]

 太平洋開戦後の植民地の臨時体制は、鉱土業資源とともに農産物にたいする日本の収奪をさらに強化し、植民地農業を荒廃にみちびいた。「満州国」では累増する食糧需要を充たすため、1942年2月「戦時農産物集荷対策要綱」を策定し、軍・政府・協和会・合作社などの関係機関に総力をあげて農産物集荷を促進するように命じた。すでに41年度から実施された農産物の計画的集荷は年度初に中央から省別の出荷量が指定され、それによって県・村・屯に順次供出割当が通告される仕組みであったが、農民に対する供出割当は全国集荷目標の累増によって加重されたばかりでなく、収買価格も日本で一方的に決定され、インフレによって増大する生産費コストを大幅に下まわり、農民に大きな犠牲を強要した。
 その上、出産物の出荷奨励のため42年から実施された綿布の特配(出荷量トン当り綿布15平方ヤール)も、43年にはトン当り10平方ヤールに、44年には7平方ヤールに減少されたばかりでなく、45年から新たに 「報恩出荷」の名目で当初割当の15%増の供出が強制された。
 こうして、満州農民に対する苛酷な収奪の結果、農産物の集荷実績は、42年度678万トン、43年度783万トン、44年度890万トンと累増し、45年度には950万トンが目標とされた。しかしこれらの農産物も44年以降の戦局の悪化による輸送力の激減によって朝鮮の諸港や産地駅頭に山積放置され、戦争末期における満州戦時経済の破綻の一面をするどく露呈したのである。
 その上、太平洋戦争開始後にとくに強化された農産物の掠奪的収奪は、すでに述べたような人民総服役制による労働力の強制動員、日常生活必需物資の不足と経済統制の強化、さらには主食等の配給における民族的差別(たとえば日本人には白米を主とし、満州の民衆には高梁米・粟・玉蜀黍粉を当てた)やインフレの深刻化とあいまって、満州人民の日本にたいする不満と反感を増大させた。それは政府にたいする民衆の不信をつのらせ、戦争末期の満州では、 「建国以来未だかつて見られなかった険悪な様相が、次々に点滅するようになった」。

 朝鮮でも日本の戦時食糧需要の逼迫にともなって、1940年度の新産米増殖計画は、はやくも42年度に改定されたが、すでに39年以来の米産は天候不順と労働力・資材の不足などの悪化する条件の下で連年不作を続けた。
 しかし日本の食糧需要を充たすための強制供出は年ごとに加重され、43年からは供出米の事前割当制が実施され、44年には農業にも生産責任制が導入された。
 しかしこのような苛酷な農民収奪は、労働力の強制動員やインフレによる経済生活の悪化と重なって朝鮮農民に強い反日感情をうえつけるとともに、様々の抵抗をよびおこしたのは当然であった。前引の朝鮮総督府の報告(『第八四回帝国議会説明資料』)をみても、
「食塩供出ノ朝鮮農村ニ加へツツアル重圧ハ蓋シ深刻ナルモノアリテ最近農民大衆層ハ時局ノ重圧、統制経済ノ強化ト相俟テ、殊ニ自家食塩ノ窮屈化ハ農民ノ不平不満トナリテ日ト共二深刻化シ逐ニ大拳増配陳情、供出関係職員トノ暴力的魔擦事案悪質ナル供出忌避事案多発ノ傾向ヲ示シ延テ厭農、反官思想スラ醸成セラレツツアリ」
として、総督府が食糧供出問題を治安上もっとも重大視していたことが分る。

 日本の戦時植民地収奪に対する民衆の反日感情の弥漫は戦争末期の台湾にも共通してみとめられた。前述のごとく台湾では44年から工業生産が急速に低下する一方、農業生産も衰退し、米穀は38年の約982万石から44年には747万石に減じ、甘蔗も39年の222億8000万斤から44年には138億斤に減産した。それに加えでインフレの深刻化による物価の急騰は台湾経済を急速に悪化させ、総督府の経済統制力も失われていった。
 しかも台湾の統制経済の破綻を促進したのは軍部であった。軍部は公定価格をはるかにこえる「調弁価格」で軍需物資と労力を買いあさり、経済の混乱に拍車をかけたのである。そのため総督府の権威は衰退し、台湾住民の中から租税の滞納、脱税などがあらわれた。
 さらに45年3月ごろから米軍機の空襲に備えて全島の都市住民の疎開が開始されると、社会生活も混乱の度を深め、総督府の支配力は戦争末期には急速に弱体化の方向をたどったのである。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2414-36ec8043
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック