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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(29)

大日本帝国の植民地(12)

戦時下の植民地(9)


 前回予告した通り、今回は第二章第三節を読んでいきます。

「労働力・兵力動員と強制連行」

朝鮮における戦争への人民動員

 日中戦争勃発後の朝鮮における工業化政策の展開は労働力の需要を急速に増大させた。
 そのため朝鮮では、38年5月の国家総動員法の適用後、同法にもとづく一連の労働統制立法の制定適用によって労務統制はいちじるしく強化されたが、さらに注目すべきことは1939年から日本の企画院の労務動員計画にもとづいて日本国内の労働力不足を補うための「朝鮮人労働者の日本への強制連行が開始されたことである。

 同年7月の内務・厚生両次官の依命通牒「朝鮮人労務者内地移住に関する件」により39年度には8万5000人の朝鮮人労働者の送出が計画された。これは従来の募集許可による朝鮮人の個別的渡航とは異なり、新たに朝鮮総督府を通じて日本国内の雇用者に朝鮮人の集団的連行を認めるものであった。
 こうして39年度には5万3000人にのぼる朝鮮人労働者が日本に強制渡航させられ、以後連行数は年を追って累増の一途を辿った。

 日本に連行された朝鮮人労働者の大部分は鉱山や土建部門のもっとも危険な作業所に配置され、極端な低貸金とあらゆる民族的差別の下で苛酷な労働を強制された。
 またこれらの移住朝鮮人はかれらの生活と思想を監視するために1939年6月に設立された官製団体の協和会への加入を強要された。

 しかしこのような強制連行は朝鮮人の種々の抵抗によってけっして容易に行われたわけではなかった。39年以降の連行数はつねに計画数を下まわったばかりでなく、連行労働者の逃亡もあとをたたなかった。たとえば39月10日から三年間に石炭鉱業の移入朝鮮人労働者中三分の一以上が逃亡した。

 1941年12月太平洋戦争の勃発とともに国内労働力はさらに逼迫し、朝鮮人労働者を「常備労力」として確保することがいっそう必要なこととなった。
 そのため42年2月朝鮮総督府は日本政府の方針にしたがって「鮮人内地移入斡旋要綱」を策定し、従来の募集方法に代って朝鮮人労働者の供出および輸送事務を一元化し、いわゆる「官斡旋」による強制連行策を実施した。これによって募集主体は総督府内の朝鮮労務協会(41年6月設立)とされ、募集の許可をうけた雇用主に対して同協会は総督府の指示する募集地域の道支部を通じて郡分会に労働者の強制徴募を指令し、部分会は所定の期日に労働者を徴募選考し、一定の訓練を経て隊組織に編成して雇用主に引きつぐ方式がとられた。
 このような「官斡旋」方式によって総督府権力による朝鮮人の強制連行は全面的に強化されたのである。

 さらに1939年11月以来、軍要員に限って朝鮮に通用されていた国民徴用令が、44年9月から全面的に適用されるにおよんで朝鮮内での労務動員と日本への強制連行を合せた労働力動員数は急増し、44年の動員数は実に284万8224人にのぼったのである。

 このほか太平洋戦争中に、日本・中国・満州・南方方面に軍要員として送出された朝鮮人も多数にのぼり、その中には「軍属」の名目で実際には「慰安婦」として中国・南方の戦地に送出された多数の朝鮮女性が存在していたことも見逃がすことはできない。

 しかし以上のような朝鮮人労働者の強権的徴発の強行は、朝鮮人の中に種々の反感と抵抗をよびおこさずにはおかなかった。それは総督府自身が『第八四回帝国議会説明資料』(44年8月作成)において、朝鮮人の反骨的気運の増高、労務供出にたいする集団忌避、輸迭途次における逃亡、関係官公吏にたいする暴行脅迫などの事件が多発しつつあることを認めざるをえなかったことでも明らかであった。

台湾における戦争への人民動員

 台湾でも1939年から本格的な労務動員計画が実施されたが、台湾の労務動員政策に決定的な影饗を与えたのは、39年10月高雄州で起工された海軍特殊工事への労働力動員であった。このため高雄州に労務協会が設立され、労働者の幹旋管理にあたったが、工事拡張にともない必要稼働労働者は当初の1日300人程度から6000人にもおよんだため、協会の動員業務は総督府に移され、40年8月殖産局商工課内に台湾中央労務協会が設置され、その下部組織として市郡に支会、街庄に分会が置かれ、総督府行政機構と一体化した労務動員体制が確立した。同10月には各州に労務協会が設置され、その下部組織として市郡に支会、街庄に分会がおかれ、総督府行政機構と一体化した労務動員体制が確立した。
 なお労務協会は、のちに1943年2月産業奉公会と改称し、皇民奉公会の傘下団体となった。

 さらに同年10月、台湾軍は総督府に南方兵砧労務要員の供出を要求した。これに対して総督府は20~30歳の台湾青年による「台湾特設労務奉仕団」を編成し、翌年10月までに六次にわたる奉仕団を送出した。これらの奉仕団は主としてマレー半鳥とフィリピンで弾薬兵器糧秣(りょうまつ 兵糧とまぐさ)の運搬や飛行場・道路の建設整備などの軍役に従事させられた。また同じく台湾軍の要求により高砂族青年による「高砂義勇隊」も軍要員として南方に送り出された。
 これら軍関係労働者の動員数は、43年末までに約15万人にのぼり、また労務動員計画にもとづく台湾人労働者の動員数も毎年数万人をかぞえた。


 以上のような植民地労働力の強制動員に加えて、戦争の長期化と戦局の悪化は、戦争遂行のためにさらに植民地人民の兵力としての強制動員を必要とした。すでに朝鮮では38年度から陸軍特別志願兵制度が実施されていたが、その実績の上に、1942年5月8日、日本政府は閣議で44年度からの朝鮮における徴兵制の施行を決定した。

 この決定は内外に大きな反響をよんだ。日本人の中には長い民族独立運動の伝統をもつ朝鮮人に武器をもたせることは時期尚早であり、徴兵に際しては思想関係に充分注意すべきだとの意見が多く、また朝鮮人の中には、徴兵制を実施する以上は義務教育の実現、参政権の付与、日本への渡航制限の撤廃など一切の民族的差別を撒廃せよとの主張がみられ、さらに在日朝鮮人の中には、
 「一般に朝鮮人が兵隊になったら米国のフィリピン兵に対する如く又英国の印度兵に対する様な差別観念を以て臨み、或は弾除けにされるのではないか」
と危惧する者も多かった。

 こうした動向に対して、植民地人民を戦争に動員するためには、日本は朝鮮(台湾も同じ)に対する一定の「処遇改善」にふみきらねばならなかった。

 1942年11月太平洋戦局の進展にともなって、いわゆる「大東亜」地域の政務施行の一元的機関として大東亜省が新設され従来植民地行政を統轄していた拓務省は廃止され、朝鮮、台湾、樺太に関する事務の統理は内務省の所管に移されたが、この機構改革による「内外地一体化」は、予定された朝鮮、台湾における徴兵・徴用制実施の一布石でもあった。
 また朝鮮では同年2月に46年度から初等普通教育の義務制を施行する方針を決定し、台湾では43年度から義務教育制が実施された。

 一方、参政権については戦争末期の45年1月貴族院令・衆議院議員選拳法改正法律案が第86帝国議会を通過し、4月1日に公布され、朝鮮、台湾での選挙法の施行と貴族院議員の勅選が決められたが、選挙制度は有権者を直接国税15円以上の納税者に限るなど日本本国と極端に差別された上、選挙法の施行期日も勅令によって別に定めるとされ、結局日本の敗戦によって実現しなかった。ただし貴族院には4月に朝鮮から6名、台湾から3名の勅選議員が送りこまれた。

 このような朝鮮、台湾に対する見せかけの「宥和」政策とひきかえに現実に進行したのは、植民地人民にたいする収奪の一層の強化であり、前述の労働力の強制動員の強化につづく徴兵制の実施であった。
 徴兵制の朝鮮施行が決定された直後の42年、南次郎に替って朝鮮総督に就任した小磯川昭(元朝鮮軍司令官)は、
 「聖戦目的完遂の為必須不可欠の要件たる国体の本義の透徹に至りては朝鮮尚末だ十分ならざるの憾あり」
と諭告し、朝鮮統治の重点をなによりも朝鮮人の「皇国臣民としての錬成」においた。

 朝鮮人の「錬成」を中心とする徴兵制の準備は総力連盟の日本語普及常用運動にはじまり、官公立中等学校以上の学校では現役の配属将校による軍事訓練が行われ、国民学校卒業者に対しては青年訓練所で、未修了者には42年11月施行の朝鮮青年特別錬成令によって設置された青年特別錬成所でそれぞれ訓練が実施された。

 こうした「錬成」政策の下に43年8月改正兵役法が朝鮮に施行され10月から朝鮮全土で徴兵適令届出が実施された。徴兵を忌避するものに対しては当局の「強力なる指導と啓蒙」が加えられた結果、予定人員の96%にあたる約25万5000人の届出があった。ついで44年5月から徴兵検査が実施され、敗戦までに陸海軍に動員された朝鮮青年は約21万人にのぼったという。

 一方、台湾では朝鮮に遅れて、1942年4月から陸軍特別志願兵制度が実施され、ついで43年8月から朝鮮と同時に海軍特別志願兵制度も実施に移された。これをうけて同年9月に台湾においても45年度から徴兵制施行の方針が決定された。このため台湾総督府は、朝鮮と同様、44年4月台湾青年特別錬成令(律令)を公布し、全島18ヵ所に錬成所を設置して約3万6000人の青年の錬成訓練にあたった。
 こうして45年1月に全島一斉に徴兵検査が実施され、受検者の約半数にあたる2万2000人の台湾青年が現役兵として召集され、日本の激戦までに兵役に動員された台湾人は約3万6000人に達したという。

 以上のように日中戦争から太平洋戦争への戦争の長期化と拡大は、満州、朝鮮、台湾の各人民の徹底的な戦争動員をともなって遂行されたのである。
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