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400 天皇制の基盤を撃つ ― 真説・古代史(52)
激動の朝鮮半島(4)―「七支刀」(2)
2005年11月11日(金)


 「七支刀」の銘文についての古田さんの読解をかいつまんでまとめてみよ う。

<1> 「泰和四年」
 前回紹介したように岩波版口語訳は「369年」としている。480年説・468年説などあるよ うだが「369年」が定説になっている。「東晋」の「泰和4年(369)」とする説 である。これに対して異論はこれを「北魏」の「太和4年」とする。古田さんは 詳しい論証の結果、定説の方を採っている。それは『この七支刀が当時の「東 晋-百済-倭」関係を証言する貴重な金石文であること』を示している。

<2> 「侯王」(「侯」は原文では「危」の「厂」の中が「矢」という字)
 この銘文が「東晋」の年号から書き始められているということが重要なポイン トとなる。「侯王」とは東晋の天子の配下の侯王ということになる。年号の使い 方から見ても、この銘文の文章の原点は中国の天子ということになる。つまり この文面では、「百濾(百済)王」と「倭王」は同格である。両者とも中国の天 子の配下の侯王ということである。
 侯王を百済王の配下と見なし、この七支刀を「百済王が倭王に下賜した刀」 であるとする説を退ける理由を、古田さんは次のように述べている。

これは無理だ。なぜなら、もしそうなら、冒頭が「百済王、誰々の何年」と いった形で書きはじめられねばならぬ。ところが事実はさに非ず。東晋の年号 からはじまっている。これに対し「今は亡われた百済年号に、泰和があったの だろう」などというのは、不当だ。なぜなら、金氏がそういうアイデアをい だくのはよい。ならば、それを実証すること、それが学問に肝要だ。それなし に、〝このアイデアにわたしは立つ。だから……″というのでは、立論の根本 を臆測にゆだねることとなりはしまいか。
 もし、それも〝仮説に立つ学問として当然の方法″と称するとしよう。 ならば『三国史記』の百済本紀を見よう。そこには「百済王(君)-倭国 (臣)」といった関係は、全く書かれていないではないか。百済王は倭国へ しばしば人質を送っている。君主国が臣従国に人質を送る、そんな話がありえよ うか。聞いたことがない。百済王は、高句麗や新羅と対抗する上で、倭王側 の支援を必要とした。そのための苦肉の策だったのではあるまいか(高句麗 にも人質が送られたことがある)。
 百済本紀は、統一新羅が滅ぼした百済の遺存史料によって編集したものだ (それを高句麗がうけついだ)。そこにさえ現われていない新関係を、後代 の歴史家が造作することそれは許されるところではない。

 また古田さんは当時の東アジア世界の大勢を俯瞰しながら、次のように論述し ている。
(その一)倭王が「使持節・都督・倭・百済、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」といった類のユニークな称号を創作し、結 局(百済を除いて)中国側に承認させたことは有名だ。
 これに対し、百済王の場合、たとえば「使持節・都督、百済諸軍事、鎮東 将軍・百済王」(余映)のごとくであって、めずらしくはない。
 もしこれで、倭王の将軍号の方が百済王より上だったら、完全に「倭王-百 済王」の順となろう。
 中国側は、いわば巧みにバランスをとって授号していたのではあるまいか。 そこに授号によって東夷の諸王をあやつる妙味が存在したのではあるまいか。

(その二)『南斉書』によると、百済王牟大も倭王武も、共に「鎮東大将軍」と なり、将軍号においては、完全に並んだ。

(その三)しかし『梁書』によると、百済王余大は「征東大将軍」、倭王武は 「征東将軍」となって、ふたたび旧に復した。しかし倭国伝によれば、南斉代 以来の、例の「六国諸軍事」称号は継続しているように見える(削除記事なし)。
 その後の梁・陳朝では、倭国記事が遺存していないため、序列問題は判明 しない。おそらく、中国側の授号による東夷の諸王操縦術は継続していた。そ のように見なして、おおよそ大異はないのではあるまいか。

 状況は以上のようだ。ともあれ確実なこと、それは百済王と倭王は、東夷の 諸王として同列であり、支配(主)と被支配(従)の関係ではないという、こ の一点だ。そのような主従関係は、『宋書』『南斉書』からも、一切うかがえ ぬ問題だ。


 七支刀の銘文読解の第三のポイントは

<3> 「供供」
 この七支刀を東晋の天子から、百済王を介して倭王に下賜した刀と説がある。 古田さんは、「供供」と動詞を二重に重ねる語法が中国語には存 在しないことから、この説も退ける。

 これらの論者が二重動詞を中国の文例から提示され得ないならば、やはり 百済製と見なす他ないであろう。百漆王問題(後述)も、これを裏づける。
 また「供供」自体の意味も重要だ。これは下賜でもなく、献上でもない。 通常の対等者間の丁重の詞として適切だからである。

  供、進なり。(『広雅』釈詁)
  供 - すすめる (諸橋『大漢和辞典』)

といった義であろう。
 もちろん、この動詞自体には、年号や侯王問題ほどの、鋭利な論理性はない けれど、同列者間の丁寧語としてふさわしいとは、いいうるであろう。


<4>「百済王・世子」(「済」は原文では慈にサンズイをつけた字)
 この文字(慈にサンズイをつけた字)を古田さんは「佳字」と解している。 高句麗の好太王碑では百済のことを「百残」と記しているのと対比している。

『「残」は「残賊」(『孟子』)。大義名分に反する者の意』

「音(おん)」と共に「意」を加えることができる漢字の特性が利用されてい る。この用字に関連して古田さんは「「百済王が倭王に献上した」とする説を 否定する。

 音も近いのだろうけれど、それと共に慈悲の慈にサンズイをつけた字を使って いる。水辺の国の意か。ともあれ、夷蛮名に卑字を用いるを好んだ中国側の用 字とは思われない。やはり、百済王側の用字、そのように見るべきではあるま いか(またこれが「百済」の字形であったとしても、「済」はすくうの意である から、やはり佳字の部類に属しよう)。
 しかも、倭国に贈る七支刀にこの文字を使っているのだ。とても、「倭王 (上位)-百済王(下位)」どころではない。この点、下賜説の非と同じく、 「百済王が倭王に献上した」という献上説(戦前からの定説派の立場)など、 とんでもないのである。
 倭王にこれほどの異形の刀を特鋳(「先世以来、此の刃有らず」)して贈る こと自体、いかに百済王が倭王の助力を必要とし、切望していたか、その証拠 だ。だが反面、百済王は確固として自国の誇りを明らかに顕示しているのであ る。文字使用の妙だ。

<5>「聖晋」
 岩波文庫版は「聖音」としている。榧本杜人という学者(中国の学者か) の詳細な字形研究によって、「晋」が提起されたという。古田さんの見解。
もしこれが非であったとして(聖音などであったとして)も、冒頭の年号を 東晋の泰和と見なす限り、大筋に変化はない。
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