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 朝鮮、台湾における人民支配と戦争への動員体制は徹底した「皇民化」政策によって推進されたということでした。
 今回は、朝鮮・台湾での人民支配の実態を詳説している第二節
 「朝鮮、台湾における「皇民化」政策の展開
を読んでいきます。

[「朝鮮での皇民化」政策]

 朝鮮では、日中戦争が開始されると、朝鮮総督府はただちに精神総動員運動にのりだし、37年8月から朝鮮各地で時局巡回講演や時局座談会を開催し、朝鮮人にたいする戦争宣伝の吹聴に全力をあげた。
 さらに10月には「皇国臣民の誓詞」(一般用と児童用の二種)を制定し、児童には、
「一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス。一、私共ハ心ヲ合セテ天皇陛下ニ忠義ヲツクシマス。一、私共ハ忍苦鍛錬シテ立派ナ国民ニナリマス。」
という文句を学校の朝会などで斉唱させ、一般の朝鮮人にたいしても同趣旨の「誓詞」を官庁・会社・職場その他のあらゆる集会で斉唱するよう強要した。

 一方、「皇民化」政策の一環として、朝鮮人を兵力として動員するため38年2月朝鮮人にたいする陸軍特別志願兵令が勅令で公布され、翌年4月から実施された。
 この実施にあたって末端では地方官憲による半強制的な動員が行われた結果、のちに1943年朝鮮に徴兵制が施行されるまでに志願者総数は80万2047人に、うち訓練所入所者は1万7664人におよんだ。

 志願兵制度の実施と関連して、同年3月には朝鮮教育令が改訂された。朝鮮語は随意科目に入れられ、学校での朝鮮語の使用は事実上禁止された。また各教科の重点ももっぱら天皇崇拝思想の注入におかれ、一切の民族教育は剥奪された。

 このほか総督府は国家神道によって朝鮮人に「国体観念」を浸透させることを目的として、改正神社規則(1936年8月)による一面(村)一神詞設置を強行するとともに、すべての朝鮮人に神社参拝を強制した。
 またキリスト者から信仰の自由を奪い、38年9月には全朝鮮キリスト者の6割を占める長老会の平壌総会に神社参拝支持の声明を出させた。

 このような一連の形式的画一的な「皇民化」政策の強行に加えて、さらに朝鮮人民にはかり知れない苦痛を強いたのは、総督府が「内鮮一体」の名の下に断行した、いわゆる「創氏改名」であった。

(「創氏改名」は『戦争意志とは何か』『昭和の15年戦争史』で取り上げていますが、ここではより詳しく解説されているので、重複を厭わず全文転載しておきます。)

 すなわち1939年2月の改正朝鮮民事令(制令一九号)は、朝鮮人の姓名制を廃止し、氏名の称呼を使用することを命ずるとともに、
「氏ハ戸主之ヲ定ム」「朝鮮人戸主ハ本令施行6月以内二新二氏ヲ定メ之ヲ府尹又ハ邑面長ニ届出ルコトヲ要ス」
と定め、その一方で天皇の
「御歴代御諱又ハ御名ハ之ヲ氏又ハ名ニ用フルコトヲ得ス」(制令二〇号)
と指示し、さらに総督府の通牒をもって「創氏改名」に具体的な制限を加えた。

 これにもとづいて翌40年2月から実施された「創氏改名」は、朝鮮人の家系伝統を根柢からくつがえし朝鮮人の民族性を抹殺するものとして朝鮮人民の怨嗟の的となった。
 しかし総督府は警察行政権力のすべてを動員して期限内の「創氏改名」を強要し、申告しない者には子弟の入・進学の拒否、就職の不採用・解雇などのあらゆる迫害と差別を加えた。

 その結果、期間内の創氏届出は317万戸(総戸数の75%)にたっしたというが、その一方、「創氏改名」を断固として拒否したり、激しく抵抗した朝鮮人も少くなかった。
 その一人、李甲基は
「氏ノ創設慫慂(しょうよう)ハ率直ニ云へハ朝鮮人ノ大ナル恥辱ニシテ朝鮮ノ旧習ニ従へハ姓ヲ変更スルコトハ自己の親ヲ更フルニ等シ、誰カ喜ンテ姓ヲ更フルモノカアラウ」
と批判し、また創氏を届出た者でも、たとえば田柄夏は「天皇陛下」をもじって「田農丙下」と改名し、文人の金文輯は「犬糞食衛」という氏名を届出て官憲の激しい問責をうけた。
 また詩人として知られた金素雲は、「鉄甚平」(自己の姓である金を失っても甚だ平気なりの意という)と創氏改名し、なかには全羅北道の中地主薛鎮泳や同南道の柳健永のように死をもって抗議した朝鮮人もいた。

 以上のような、おどろくべき無法かつ非合理な「皇民化」政策を中心的に推進するための官製ファッショ団体として、すでに38年7月に総督府学務局(局長塩原時三郎)を中心に国民精神総動員朝鮮連盟が発足していた。同連盟は下部組織に道・府郡島・邑面・町洞里部落の行政区域ごとの地方連盟と、官公署・学校・会社その他団体別の各種連盟を設け、その基底組織として愛国班(約10戸をもって構成)をおいた。愛国班は宮城遙拝・勤労貯蓄を必行事項とし、毎月一日を「愛国日」と定め、国旗掲揚、神社参拝、日本語常用、「皇国臣民の誓詞」斉唱、勤労奉仕などを通じて日常生活の末端レベルで「皇民化」運動に朝鮮人を動員した。

 1940年10月、朝鮮連盟は日本の大政翼賛会の成立にあわせて国民総力朝鮮連盟(以下、総力連盟と略す)と改称し、運動目標に挙国一致・堅忍持久・尽忠報国・皇国臣民化を掲げるとともに、1932年以来の農村振興運動をもくみ入れ、国民運動の一元的組織体制をととのえた。そして運動の眼目は、
「朝鮮同胞に皇国臣民たるの自覚を向上せしめ、道義の確立を期する奉仕的実践運動とし、内地に於けるが如き政治運動たる色彩を包合せざること」
とされる一方、その組織は中央から末端にいたるまで総督府の各級行政機構との表裏一体化を実現した。また総力連盟への改組時の愛国班数は約38万、班員は各世帯主たる代表班員のみで約530万余を算え、全愛国班員の「実数は半島住民の全部を包含して余す所がない」といわれた。

 かくて総力連盟への改組は、「満州国」の場合と同じく、朝鮮においても総督府と総力連盟の二位一体による一元的指導体制の下に朝鮮の全人民にたいするファッショ的支配がいちじるしく強化されたことを意味したのである。

[「台湾での皇民化」政策]

 植民地人民を戦争へ動員するための「皇民化」政策は、台湾においてもまた強力に推進された。
 すでに1936年7月台湾の軍官民有力者によって開催された民風作興協議会の答申は、
 「国体観念ヲ明徴ニシ国民精神ノ作興ヲ期スルト共ニ同化ノ実ヲ徹底セシムル為」
の民風作興が「刻下ノ急務」であるとし、国民教化の具体策として
 「敬神思想の普及」・「皇室尊崇」・「国語(日本語)の普及常用」・「国防思想の涵養」
などをあげ、台湾における「皇民化」政策の基本方向をうちだしていたが、日中戦争の勃発はその政策が本格的に開始される契機となった。

 まず37年7月17日台湾総督府は「時局ニ対処スル為精神動員ノ徹底ニ関スル件」を地方長官に通達し、ついで9月には中央に国民精神総動員本部を、各州庁に支部、市郡に支会、街庄に分会を設置して、
「国民精神総動員週間」(37年10月)・「経済戦強調週間」(38年12月)・「日本精神発揚週間」(39年2月)
などの各種の週間行事にあわせて勤労奉仕作業などに台湾人民を大量に動員した。

 台湾人民の「皇民化」のためにとくに重視された日本語普及運動は、すでに1931年から10ヵ年計画として実施されていたが、37年からは国語講習所・簡易国語講習所などの増設によってさらに促進され、日本語普及率は形式的には37年の37.8%から42年には約60%に達したといわれた。

 また台湾でも国家神道に対する信仰が強要されたが、そのために台湾人の土着信仰の対象たる寺廟整理が強行され、代って神社増設による神社参拝が強制されたところに特徴があった。

 さらに朝鮮の「創氏改名」と時を同じくして、40年2月台湾の戸口規則が改正され、台湾人から民族固有の姓名を奪い日本式の氏名に改めさせるための「改姓名」が実施された。ただし画一的強制によって強行された朝鮮の「創氏改名」と異なる台湾の「改姓名」の特色は、
「一、国語常用ノ家庭デアルコト、二、皇国民トシテノ資源涵養ニ努ムルノ念厚ク且公共的精神ニ富メル者タルコト」
の二要件を充たす者に「改姓名」を認めたことである。

 こうして「改姓名」運動は台湾人の「皇民化」促進の手段として実施され、改姓名者は1941年末までに9547戸、7万1785人におよんだが、その数は当時の台湾人総戸数・総人口の約1%にすぎなかった。ここには中国民族の一部たる台湾人民の「改姓名」にたいするかくれた抵抗をみることができよう。

 「皇民化」運動を推進する全国組織の結成も台湾ではやや遅れ、ようやく日本の大政翼賛会成立から半年後の1942年4月に皇民奉公会として発足した。皇民奉公会は朝鮮の総力連盟と同じく、最初から一切の政治性を否定された精神総動員組織とされ、総督府の行政機構との完全な表裏一体のもとに組織された。総裁には総督(長谷川清海軍大将・1940年11月就任)が、中央本部長には総務長官(斎藤樹)が任じ、各級地方行政組織に一致した下部組織(州庁支部・市郡市会・街庄分会)の長には当該行政機関の長が就任した。また市支会・街庄分会の下にそれぞれ区会・部落会をおき、その下に区域居住者を網羅する末端組織として奉公班をおいた。
 このほか奉公会の傘下団体として台湾連合青少年団・産業奉公団・商業奉公団などが結成され、さらに台湾人を南方進出の人的要員として養成するため奉公会によって拓南農業戦士訓練所(各州7ヵ所)・拓商工業戦士訓練所(台北)・海洋訓練隊が設置された。

 皇民奉公会結成直後の第二回地方長官会議で長谷川総督は奉公会についてのべ、
「本運動は島民各々その職分に奉公し、挙国一致臣道を全うし国防国家体制の確立東亜新秩序の建設を目的とする」
と語ったが、この方針にそって奉公会は、青年訓練の実施、指導者の養成のほか、各傘下団体を通じて生産増強や物資配給等の戦時行政に台湾人民を組織的に動員する体制となった。
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