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明治150年、何がめでたい(26)

大日本帝国の植民地(9)

戦時下の植民地(6)


第二章の表題は
植民地におけるファッショ的人民支配と戦争動員
です。

 ファッショ的人民支配政策は満州と朝鮮・台湾では異なる方法が執られていました。
 満州における人民支配の特質は協和会の「建国」イデオロギーにもとづく人民のファッショ的組織化と人民総服役制の完成にありましたが、これに対して、朝鮮、台湾における人民支配と戦争への動員体制は徹底した「皇民化」政策によって推進さました。
(「協和会」は前回で満州国の治安機構の一つとして取り上げられましたが、今回ではその実態が詳説されています。)

 では、満州での人民支配の実態を詳説している第一節
 「満州国の人民総服役制」
を読んでいきます。

 日本帝国主義の戦時植民地支配は、戦争遂行に必要な植民地資源の収奪にとどまらず、さらに植民地人民の戦争への動員体制の全面的な強化をもたらした。

 植民地人民の戦争への動員は主として人民のファッショ的組織化とイデオロギー的統合を通じて推進された。
 まず植民地人民のファッショ的組織化がもっとも先行したのは「満州国」においてであった。満州では、すでに満州事変前から満鉄中堅社員を中心とする満州青年連盟が満蒙権益擁護の活動を展開し、事変後は関東軍に協力して「建国」工作に従事する一方、山口重次、小沢開策らの幹部は関東軍参謀の石原莞爾らと結託して独自に満州協和党の設立を準備し、一国一党的政治組織による「満州国」統治を構想した。
 しかしその構想は中央集権的官僚支配による「満州国」統治を基本とする日系官僚のつよい反発にあって挫折した。

1932年7月 「満州国」協和会の結成
 この協和会は満州青年連盟が事実上の母体であったが、いわゆる「王道主義・五族協和」の「建国」イデオロギーを指導理念とし、執政薄儀(1934から皇帝)を名誉総裁に、関東軍首脳部と政府官僚を役員に配した官製団体である。

「満州国」の設立後まもなく協和会のような官製国民組織が結成されたのは、中国の国民革命に対決しつつ複雑な民族的構成と人口三千数百万におよぶ満州社会を「満州国」に統合するためには、満州各地の土着支配層を基盤とした協和会のごとき組織が必要とされたからである。したがって結成後の協和会の主な役割は、関東軍の治安工作に協力する一方、土着の中国人地主・商人層を組織した末端の分会活動を通じて民衆にたいする治安宣撫工作と行政の浸透をはかることにあった。

1936年7月 協和会の改組
 その後「満州国」の中央地方の官僚的支配機構が整備されるとともに、協和会に対する日系官僚の指導権は強化され、おりから日本の総力戦準備に即応する「満州国」の戦争準備体制の一環として、協和会は満州人民を戦争政策に動員するための画一的なファッショ的国民組織に改編された。

 また同時に会員の大衆化方針により住民の入会が積極的に奨励された。その結果、36年9月に約44万人であった会員数は、38年2月に100万人をこえ、さらに41年6月には200万人を突破し、急速な膨脹を示した。
 しかしその反面、精鋭会員の後退による協和会の指導力の弱体化を招き、これ以後協和会は会の大衆的拡大と指導性の弱化の相克に終始苦悩しなければならなかった。

37年4月 青年訓練の実施開始
 改組後の協和会は「挙国一致ノ実践組織体」(綱領)として国民動員を工作目標の一つに掲げ、青年訓練を実施した。
 青年訓練は、
 「青年の心身を陶冶して健全なる国民を育成し、警備並びに国防の維持能力の増強に資する」
ことを目的とし、16~19歳の青年を対象に青年訓練所において「建国」イデオロギーの注入と軍事訓練を施し、青年層の戦時動員への組織化の基礎となった。

 日中戦争勃発後、協和会は国家総動員の要請に応えて青年訓練をさらに発展させ、青少年の全国的動員組織としての協和青少年団の結成に着手した。

1938年6月 「青少年組織大綱」を発表
 この「大綱」は、
 「全国青年に建国精神を継承体得せしめ、……国礎の強化、国力の発展に資」
するため、16~19歳の青年を協和青年団に、10~15歳の少年を協和少年団に組織する方針を明らかにした。
 これによって協和会は指定された全国各市・街・村の行政区域ごとに当該協和会分会を基礎に協和青少年の組織化をすすめ、翌39年3月全国一斉に結成式を行った。
 その後、協和青少年団は結成時の概数3000団・60万人から42年1月には6800団・235万人に急速に組織を拡大するとともに、各種の国策事業に勤労奉仕として大量に動員されていった。

1938年12月 協和義勇奉公隊の結成
 最初に主要都市に結成された同奉公隊は、協和青少年団とならんで、「満州国」の戦時動員組織として重要な役割を担った。
 この奉公隊はさきに制定された国家防衛法を基盤として、
 「協和会組織と有機的関連において民族一体の協和義勇奉公心に基く警備動員並訓練組織」
とされ、20~35歳の青壮年男子を組織対象とし、その構成は総隊の下に地域区隊・分隊と特設区隊(官庁・会社等)をおき、その他特殊警備隊・消防隊・自動車隊等の特殊隊を設け、平戦両時に即応する民間警備活動を重要な任務とした。
 また奉公隊は協和会の総括的指導下におかれて隊勢をしだいに拡大し、40年2月には64総隊・25万人となり、43年には80総隊・52万人にたっした。

 こうして「満州国」における戦時動員組織の結成を推進した協和会は、その過程で政府の官僚支配との癒着をいっそう強めていった。

 協和会ではすでに1934年以来、中央地方の連合協議会を開催し、分会代表として参加した地方の土着支配者層を通じて「満州国」の施策の一般民衆への浸透をはかる一方、日本の植民地支配が生み出す満州の民衆との摩擦対立をある程度まで濾過吸収することに努めてきたが、35年から連合協議会の議決方式を当初の多数決制から満場一致制にきりかえて政府と協和会との形式的一体制の確保をはかった。
 しかし日中戦争開始後の戦時統制政策の強化は民衆の不満を反映する地方分会代表と政府との軋轢を増大させ、もはや満場一致制による連合協議会の運営は不可能となった。そのため協和会は、39年の第7次全国連合協議会から政府との一体的関係をさらに強化するための新たな議決方式として衆議統裁制を採用した。
 衆議統裁制とは、
 「議長において構成員の意見動向を達観しつつ国家並びに国民を貫く建設的目的意識の下に統裁帰一」
するものとされたが、このような全体主義的指導者原理による衆議統裁制の採用によって連合協議会は協和会による民衆支配のためのファッショ的機関に転化するとともに、政府の完全な翼賛組織になったのである。

1940年12月 「国民隣保組織確立要綱」を策定
   連合協議会の翼賛化につづいて、「満州国」政府は、戦時行政を末端の民衆レベルにまで浸透させるため農村における屯・牌、市街地における班・組を国民隣保組織として編成し、その指導に協和会員を当らせることとして「…要綱」を策定し、翌41年2月から実施した。

 さらに協和会では、同年4月の改組を通じて協和会の省・市・県・旗各級本部長と当該行政機関の長との兼務を制度化し、いわゆる政府との二位一体制を確立した。

 このような官僚組織としての政府と国民動員組織としての協和会の二位一体的指導体制によって「満州国」におけるファッショ的人民支配はいちじるしく強化されたが、それは同時に満州の植民地人民の戦争への総動員体制、いわゆる人民総服役制実施の前提であった。そして、その人民総服役制は次の様な経緯を経て実施された。

 「満州国」における兵力動員は、すでに「満州国」の設立と同時に関東軍の指導下に募兵方式による「満州国」軍が編成され、日中戦争には一部部隊の出動も実施されたが、戦争の長期化はさらに満州人民の兵力としての強制動員(徴兵制)を必要とした。

1940年4月 国兵法が公布実施される
 これは人民総服役制の一つの柱とされた法である。
 同法の骨子は兵役期間を3年とし、満19歳に達した青年に壮丁検査をうけさせて入営させ、また戸長に対しては壮丁適令者の本籍地市街村長への届出義務を課すことなどを規定した。そして第一回国兵検査は41年2月より4月にかけて全国的に実施された。

 しかし「満州国」における徴兵制の実施は容易ではなかった。たとえば佳木斯市では壮丁適齢者784名のうち、指定された3月末までに届出た者はわずかに24名にすぎず、満州人民の中に徴兵を忌避する傾向が強くみられたのである。

 もう一つ、「満州国」における労務動員政策上の問題もあった。
 日中戦争の勃発による華北からの出稼中国人労働者の激減に対処するための労働力の需給統制機関としての満州労工協会の設立(38年1月)、労働力移動防止のための「労働票発票規則」の制定(同6月)につづき、39年2月に新たに労働統制法が制定され、緊急時には平時においても行政機関を通じて割当募集による労働力の強制動員を可能にする道がひらかれたが、満州における中国人労働者の極端な低賃金と劣悪な労働条件は労働者の移動率を増大させたばかりでなく、さらに40年6月為替管理法の改正により円資金の国外流出を防止するため華北中国人労働者の送金額を最高50円に制限した措置は、40年下期に中国人労働者の入満数の激減、離満者の急増を招き、労働力不足に拍車をかけた。
 その上、41年7月、関東軍が対ソ戦準備のための、いわゆる「関特演」の実施に当って要求した莫大な労働力の緊急供出に応えるためにも、従来の「満州国」の労務動員政策はすでに限界に達していた。このため1941年9月「満州国」政府は、「労務新体制要綱」にもとづいて従来の労工協会を労務興国会に改組拡大する一方、労働統制法の改正によって新たに民生部大臣に人民徴用の強力な権限を与えた。

1942年10月 国民勤労奉公法・国民勤労奉公隊編成令の制定
   この制度は太平洋戦争開戦後の臨戦体制下で急増する労働力需要を充たすために制定された。
 その骨子は20~23歳の満州青年のうち健康で兵服に服さないすべての青年に通算12ヵ月以内勤労奉公隊に入隊し、軍事施設・鉄道道路の建設その他政府の指定する労働に服役する義務を課し、学生にも「学生勤労法」による毎年30~40日の労働を強制した。また勤労奉公隊の編成に際しても、各行政区域ごとの協和青年団が母体となって隊員の動員編成がおこなわれた。

 この頃既に、大日本帝国はミッドウェー海戦敗北(1942年6月)・本土初空襲(同年4月18日)…と降伏寸前の状況にあった。にもかかわらず、満州国の人民支配と人的搾取の強引な政策がなお続けられた。

 こうして先に実施された国兵法とならんで、「満州国」の人民総服役制の双璧をなす国民勤労奉公制は、43年に一部省市で、44年から全国的に実施され、43年に協和会の指導で勤労奉公隊に動員された青年は10万人におよび、44年には24万人の動員が計画された。また勤労奉公隊による動員に行政供出・一般募集を加えた労働力の総動員は、中央地方の労務動員計画にもとづいて各省に割当てられ、44年の動員数は延べ250~260万人にもおよんだ。

 かくて全国的国民組織である協和会を基盤とし、国兵法と国民勤労奉公制を二本の柱とする人民総服役制の実施によって、「満州国」における植民地人民の戦争への全面的な動員体制が完成されたのだった。
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