2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(25)

大日本帝国の植民地(8)

戦時下の植民地(5)


抗日民族運動の展開(前回の続き)

 前回に確認したように、東北における抗日運動は持続的に展開されていた。これは日本の「満州国」支配の最大の桎梏となったが、これに対する日・「満」当局の対応は次のようであった。

 1937年以降も治安対策に最重点をおき、「満州国」の一般会計歳出額でも治安費は毎年総額の30~40%と最高の比重を占めた。このような厖大な予算を投入してあらゆる治安工作が試みられ、とくに「匪民分離」のための集団部落の建設はその数・規模ともに拡大され、39年末には累計1万3451ヵ所におよんだ。

 さらに日・「満」側は、39年10月から吉林・間島・通化三省の抗日勢力を一掃するために「東南部治安粛正工作」を実施した。
 以後二年半にわたるこの工作には、3000万円の予算と20万以上の兵力が投入され、三省討伐司令部(司令官野副昌徳少将)の下に日満軍警・司法行政機関・協和会など「満州国」の全治安機構が動員された。

 すでに日本の各種の治安工作によって困難な闘争を強いられていた抗日連軍は、この工作によってさらに大きな損失をうけた。

1940年2月
 第一路軍総指揮の楊靖宇が吉林省濠江県の山林中に包囲されて戦死し、各軍も多数の幹部と兵士を失った。その結果、抗日連軍の結成時には約2万6000人と推算された全満の抗日勢力は40年5月末にはわずか2000人までに減少したともいわれた。

1940年3月
 抗日連軍第一路軍は吉林省樺甸県頭道溜河で軍長会議を開き、今後の方針として民衆工作に主力を注ぎ党組織を整備するとともに、軍を小部隊に分散し、北上して第二・三路軍との合流を図る政策などを決議した。

 また、さきの 「東南部治安粛正工作」によっても日本側がついに捕捉しえなかった朝鮮人民革命軍が安図県大馬鹿溝で「満州国」警察討伐隊を襲撃し、前田武市中隊長以下56名を全滅させるなど、依然として活発な遊撃活動を展開していたが、日本側の治安強化に対処するため同年8月敦化県小哈爾巴嶺での軍政幹部会議から小部隊編成による地下工作に移り、ひきつづき間島省一帯と朝鮮内に潜入して抗日闘争を不断に継続した。

1941年1月
 前年3月の軍長会議後に第三路軍は各支隊に改編されたが、そのうち第一支隊(隊長徐沢民)は浜江省の肇州・肇東・肇原の平原地区で地下活動に従事していた。
 ハルビン郊外王崗の「満州国」軍第三飛行隊における84名の兵士の反乱事件(王崗事件)は、同支隊の工作によるもので日・「満」当局を震撼させた。

 以上は満州国での抗日運動のあらましでした。それには朝鮮人民革命軍も加わっていますが、朝鮮内での抗日運動はどうだったのでしょうか。

 朝鮮での抗日運動

 朝鮮内では組織的な民族抵抗運動はほとんど不可能にされていた。

1936年12月
 朝鮮総督府は新たに朝鮮思想犯保護観察令を制定し、日中戦争開始後は治安体制を全面的に強化していた。

 それにもかかわらず日本帝国主義の支配と収奪に対する朝鮮人民の抵抗を排除することはできなかった。
 朝鮮人労働者の争議…小作争議は、軍の資料によっても、
 1937年 79件・参加人員9148人…24件・2234人
 1938年 90件・参加人員6929人…30件・1338人
、1939年 146件・参加人員1万128人…28件・1401
 と、労働者の争議はむしろ漸増し、小作争議もほぼ持続的に展開された。

 また日本官憲による朝鮮人思想犯罪検挙数は、
 1937年~40年間に134件(1637人)・145件(1348人)・95件(1042人)・103件(1193件)を記録しているが、これらの数は、日本の徹底した取締りにもかかわらず、むしろ朝鮮人民の間で民族思想運動がたゆまず続けられていたことを示すものといえよう。

 さらに朝鮮の独立を求める一般民衆の民族意識も消えることはなかった。たとえば当時平壌駅構内の便所に、
「日本人ヨ殺サルル前ニ日本ニ帰レ、来ル暁ニ見エルハ朝鮮独立ダ」
と落書され、またソウルのある下請工場の脱衣場に、
「若イ青年ヨ、少年ニ独立ノ道ヲ教へヨ」
との落書が発見されたのは、それを示すわずかな例にすぎない。

台湾での抗日運動

 一方、台湾では日中戦争が自民族に対する新たな侵略戦争として台湾人民に大きな衝撃をあたえた。

 台湾では、日中戦争開始直後の台湾地方自治連盟の解散を最後に公然たる民族運動は不可能とされた。しかし日中戦争に対しては、1937年7月からわずか半年間に1000件以上の「流言蜚語」事件が日本官憲によって探知され、さらにその後一時台湾南方の枋寮地方に上陸した日本軍を中国軍の台湾進攻と誤認する流言が発生し、またたく間に全島に伝播した。

 これらの流言に示された台湾住民の民族意識の動きにつよい不安と衝撃をうけた日本当局は、台湾人民の抵抗を未然に弾圧するため、いわゆる「東港事件」を捏造した。
 この事件は、1941年前後に、かつての台湾独立運動の指導者であった欧清石、郭国基、呉海水らが澎湖・高尾・東港地方で多くの漁船を集め、また住民から資金を徴募し、東港・枋寮方面の海岸で国民政府軍の上陸作戦に合流を企てたという全く架空の理由で、欧清石、郭国基らをはじめ1000人以上の住民を逮捕し、欧の死刑をはじめ多くの住民を重刑に処した事件である。

 このとき中国大陸では、台湾出身の中国人による民族運動が積極的に展開されていた。台北州出身の李友邦(李肇基)は、日中戦争勃発後、新江省金華で在中台湾人を主体とする台湾独立革命党を組織し、さらに38年1月には福建省崇安で在中台湾人400人からなる台湾義勇隊と台湾少年団を結成し、みずからその指導にあたった。また日中開戦後に台湾を脱出した謝南光は重慶その他で抗日団体を組織して活動を展開した。

1940年には国民政府の援助によって在中台湾人抗日団体が統合され、重慶において謝南光を主席とする台湾革命大同盟が結成され、太平洋戦争の開始後、日本の戦局の悪化にともなって在中台湾人民の民族運動はあらたな高揚をむかえるのである。

(以上で「抗日民族運動の展開」を終わります。次回から著者が第二の課題に挙げていた「戦時体制下の植民地人民に対するファッショ的支配と戦争動員の特質」を取り上げます。)
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