2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(24)
大日本帝国の植民地(7)
抗日民族運動の展開
前回で取り上げたように、大日本帝国は総力戦体制の一環として植民地支配を全面的に強化した。
当然のことながら、その結果として植民地各地で強力な抗日民族運動が展開され、日本はそれに対する対応に苦慮することになった。
まずは満州国での展開を時系列に追って見ることにする。
(ちなみに、私は「ここ読んで」というソフトを使って資料の原文をブログ用文章に変換していますが、今回の原文は地名・人名などで正しく変換できない常用漢字外の漢字が多く使われています。漢和辞書などを調べて復元して何とか読めても、私の知らない地名・人名が多くなんとも厄介な記事です。しかし全体の概略がつかめればよいとして、そうした人名・地名にはこだわらずにそのまま転載することにしました。)
日本が満州占領し「満州国」を樹立(1932年3月)して以来、「満州国」支配の最大の課題は反満抗日勢力に対する治安対策の強化であった。「満州国」政府によるその政策の変遷はおおよそ次のようである。
1932年9月
暫行懲治叛徒法、暫行懲治盗匪法、治安警察法などを制定し、治安法体系を整備する。
1933年12月
住民の相互監視と連座制を義務づけた暫行保甲法を制定して治安体制を強化した。
このような法的規制を強める一方、関東軍による武力討伐も間断なく実施している。その結果、抗日勢力のうけた打撃は大きく、李杜、王徳林らの旧東北軍は1933年頃までに衰退していった。
しかしこの間、吉林・間島地方を中心に主として共産主義者の指導の下に結成された各種の赤色遊撃隊はひきつづき反満抗日の闘いをつづけた。
これらの抗日遊撃隊は33年以降しだいに民衆との結合をつよめて統一戦線を拡大しつつ東北人民革命軍に改編され、さらに35年からは、より広汎な抗日勢力を結集して東北抗日連軍に成長していった。
1936年1月
黒竜江省湯原県で開かれた連軍幹部と民衆団体代表による東北抗日連軍軍政拡大会議で東北抗日連軍の正式成立を宜言。
11箇軍からなる連軍の総司令に第三軍長趙尚志が就任。
抗日連軍の成立によって各軍の出身構成もいちじるしく改善され、従来多数を占めた兵士出身者に代わって労働者・漁民・知識分子が多数を占め、東北民衆との結合が強化された。漁民・知識分子が多数を占め、東北民衆との結合が強化された。
また抗日連軍には当時間島地方を中心に抗日武装闘争を展開していた多くの朝鮮人も参加していた。なかでも金日成らの抗日遊撃隊は抗日連軍第二軍に属して遊撃活動を続けた。
(金日成というなじみの名前だ出てきた。念のためネットで調べたら、朝鮮民主主義人民共和国 の初代国家主席を務めた金日成と同一人物だった。)
1936年2月
この抗日遊撃隊は寧安県南湖頭での幹部会議で朝鮮人民革命軍と改称するとともに、白頭山一帯の国境地帯に遊撃根拠地をつくり朝鮮解放のための武装闘争を国内に拡大する方針を決定した。
1936年5月
祖国光復会を結成
1937年1月
朴達・朴金喆らが朝鮮民族解放同盟を組織化。
1937年6月
朝鮮人民革命軍による普天堡(咸鏡南道甲山)攻撃が軍事的成功を果たし、朝鮮の民族解放勢力は大きく前進した。
1937年7月
大日本帝国主義が中国に対して全面戦争を開始。
東北抗日連軍はこの新たな局面に対処するため、中国共産党中央の指示により二個軍を三路軍編成に改編し、
第一路軍(第一、二軍・総指揮楊靖宇)は奉天省東部山地一帯を、
第二路軍(第四、五、七、八、一〇、一一軍・総指揮周保中)は吉林省東部山地と松下江下流、ウスリー江左岸を、
第三路軍(第三、六、九軍・総指揮張寿?[竹冠に銭という漢字で手元の漢和辞典にはなかった])は黒竜江省の山地平原一帯を
それぞれ活動区域として果敢な遊撃活動を展開した。
中でも第一路軍の楊靖宇部隊約500人は、38年3月通化県一二道溝附近のトンネル工事場を襲い、7月には同県七道溝の満州鉱山会社を襲撃したが、当時日本は東辺道地区(通化・安東両省とこれに隣接する地域を指す)の開発に主力を注いでいただけに、日本当局のうけた衝撃は大きかった。
これらの例は当時の東北抗日連軍の活動の一端を示すにすぎないが、当時の日本側の資料によっても、「匪賊」現出回数は
1937年2万5487回、
1938年1万3110回、
1939年6547回
と記録され、その回数は日本の治安強化によって激減しているとはいえ、当時の抗日遊撃活動のはげしさを自ら物語っている。
(次回に続く)
大日本帝国の植民地(7)
戦時下の植民地(4)
抗日民族運動の展開
前回で取り上げたように、大日本帝国は総力戦体制の一環として植民地支配を全面的に強化した。
当然のことながら、その結果として植民地各地で強力な抗日民族運動が展開され、日本はそれに対する対応に苦慮することになった。
まずは満州国での展開を時系列に追って見ることにする。
(ちなみに、私は「ここ読んで」というソフトを使って資料の原文をブログ用文章に変換していますが、今回の原文は地名・人名などで正しく変換できない常用漢字外の漢字が多く使われています。漢和辞書などを調べて復元して何とか読めても、私の知らない地名・人名が多くなんとも厄介な記事です。しかし全体の概略がつかめればよいとして、そうした人名・地名にはこだわらずにそのまま転載することにしました。)
日本が満州占領し「満州国」を樹立(1932年3月)して以来、「満州国」支配の最大の課題は反満抗日勢力に対する治安対策の強化であった。「満州国」政府によるその政策の変遷はおおよそ次のようである。
1932年9月
暫行懲治叛徒法、暫行懲治盗匪法、治安警察法などを制定し、治安法体系を整備する。
1933年12月
住民の相互監視と連座制を義務づけた暫行保甲法を制定して治安体制を強化した。
このような法的規制を強める一方、関東軍による武力討伐も間断なく実施している。その結果、抗日勢力のうけた打撃は大きく、李杜、王徳林らの旧東北軍は1933年頃までに衰退していった。
しかしこの間、吉林・間島地方を中心に主として共産主義者の指導の下に結成された各種の赤色遊撃隊はひきつづき反満抗日の闘いをつづけた。
これらの抗日遊撃隊は33年以降しだいに民衆との結合をつよめて統一戦線を拡大しつつ東北人民革命軍に改編され、さらに35年からは、より広汎な抗日勢力を結集して東北抗日連軍に成長していった。
1936年1月
黒竜江省湯原県で開かれた連軍幹部と民衆団体代表による東北抗日連軍軍政拡大会議で東北抗日連軍の正式成立を宜言。
11箇軍からなる連軍の総司令に第三軍長趙尚志が就任。
抗日連軍の成立によって各軍の出身構成もいちじるしく改善され、従来多数を占めた兵士出身者に代わって労働者・漁民・知識分子が多数を占め、東北民衆との結合が強化された。漁民・知識分子が多数を占め、東北民衆との結合が強化された。
また抗日連軍には当時間島地方を中心に抗日武装闘争を展開していた多くの朝鮮人も参加していた。なかでも金日成らの抗日遊撃隊は抗日連軍第二軍に属して遊撃活動を続けた。
(金日成というなじみの名前だ出てきた。念のためネットで調べたら、朝鮮民主主義人民共和国 の初代国家主席を務めた金日成と同一人物だった。)
1936年2月
この抗日遊撃隊は寧安県南湖頭での幹部会議で朝鮮人民革命軍と改称するとともに、白頭山一帯の国境地帯に遊撃根拠地をつくり朝鮮解放のための武装闘争を国内に拡大する方針を決定した。
1936年5月
祖国光復会を結成
1937年1月
朴達・朴金喆らが朝鮮民族解放同盟を組織化。
1937年6月
朝鮮人民革命軍による普天堡(咸鏡南道甲山)攻撃が軍事的成功を果たし、朝鮮の民族解放勢力は大きく前進した。
1937年7月
大日本帝国主義が中国に対して全面戦争を開始。
東北抗日連軍はこの新たな局面に対処するため、中国共産党中央の指示により二個軍を三路軍編成に改編し、
第一路軍(第一、二軍・総指揮楊靖宇)は奉天省東部山地一帯を、
第二路軍(第四、五、七、八、一〇、一一軍・総指揮周保中)は吉林省東部山地と松下江下流、ウスリー江左岸を、
第三路軍(第三、六、九軍・総指揮張寿?[竹冠に銭という漢字で手元の漢和辞典にはなかった])は黒竜江省の山地平原一帯を
それぞれ活動区域として果敢な遊撃活動を展開した。
中でも第一路軍の楊靖宇部隊約500人は、38年3月通化県一二道溝附近のトンネル工事場を襲い、7月には同県七道溝の満州鉱山会社を襲撃したが、当時日本は東辺道地区(通化・安東両省とこれに隣接する地域を指す)の開発に主力を注いでいただけに、日本当局のうけた衝撃は大きかった。
これらの例は当時の東北抗日連軍の活動の一端を示すにすぎないが、当時の日本側の資料によっても、「匪賊」現出回数は
1937年2万5487回、
1938年1万3110回、
1939年6547回
と記録され、その回数は日本の治安強化によって激減しているとはいえ、当時の抗日遊撃活動のはげしさを自ら物語っている。
(次回に続く)
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