2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(23)

大日本帝国の植民地(6)

戦時下の植民地(3)


植民地の戦時的収奪

 前回概観した「植民地経済の戦時的再編」は、日本の植民地資源の収奪を著しく強化したばかりでなく、それが軍事部門と 偏ったため、植民地経済の矛盾をいっそう拡大していった。その矛盾を工業と農業の二分野分けて紹介していこう概観していこう。

[工業面での収奪]

「満州国」の場合

 前回見たように満州における戦時経済建設の要であった5ヵ年計画に必要な膨大な所要資金(60億円以上と言われている)に必要な国内費金の調達分は主として「満州国」政府・満州興業銀行・満州中央銀行による膨大な国家資金の撒布によってまかなわれた。
 その結果、「満州国」財政において、一般会計の歳出額は1937年度の2億6700万円から41年度には7億300万円に急増した。
 また満州中央銀行の通貨発行高も同期間に3億3000万円から13億1700万円へと急増し、満州経済に深刻な悪性インフレをもたらした。

 このようなインフレ政策の下で推進された5ヵ年計画は、前述の如く生産用資材の大部分を日本に依存し、その資材は日本戦時経済の一環として主として軍需産業の原材料として供給された。それはその資材に関連する満州の民間産業の犠牲の上に強行されたのだった。

 このような政策の結果、5ヵ年計画の進行とともに消費材の生産は抑制され、その上日本の統制経済から逃れて満州に流入する日本商品の高騰がインフレの昂進に拍車をかけ、民衆の経済生活を極度に圧迫することになった。

朝鮮の場合

 朝鮮では「大陸前進兵站基地」化政策にもとづく軍事工業化が、とくに豊富な地下鉱物資源の開発を中心に本格的に展開された。
 その結果朝鮮の工業生産額は1936年の7億3000万円から41年には17億2000万円に急増し、この間39年には鉱工業生産額が農業生産額をわずかながら上まわった。

 朝鮮の工業化は同時に日窒系資本をはじめとする日本独占資本の朝鮮民族資本の制圧過程でもあった。すでに38年末朝鮮工業会社の全払込資本金に占める日本人会社の比率は87.6%と圧倒的地位を占め、それにたいして朝鮮人会社は社数では47.9%を占めたが、払込資本金ではわずかに12.4%にすぎなかつた。

  台湾の場合

 台湾でも「南進基地」化政策による工業化が本格的に推進され、工業生産額は1937年の3億6380万円から40年には6億2914万円に倍増し、39年には農産額をわずかにこえた。

 従来から台湾工業の中心は、食料品工業(1940年の工産額の65%)特に中でも製糖業にあったが、その状況は当時もほとんど変らなかったが、38年から実施された生産力拡充5ヵ年計画によって新たに化学工業・金属工業を中心とする軍需部門が急速に伸び、これらの部門をはじめとする日本資本の台湾投資額は1937年から40年までに5億2140万円から8億8411万円に増加し、台湾工業の支配的地位に上った。


 以上のような植民地の工業化による軍需資源の確保収奪とならんで、日本の戦争政策の拡大は植民地の農業と農にも新たな収奪をもたらした。

[農業面での収奪]

「満州国」の場合

 満州農民から農産物を収奪する体制が次のように整備されていった。

   日中戦争開始後の食塩需給の逼迫にともなって、満州では1938年11月米穀の国内自給を目標とする米穀管理法の制定と満州糧穀会社の設立により米穀に対する一元的統制が実施された。

 39年11月からは第三国貿易の不振打開のため、輸出品の代表である大豆に対して、新設の特産専管公社による大豆の強制収買が実施され、この強制収買翌年2月には豆粕・豆油にも適用された。

 この結果、大豆三品は市場相場をはるかに下まわる価格で生産者農民から強制的に買上げられ、農民に大きな打撃を与えた。

 さらに「満州国」では農産物の集荷を促進するため40年4月に従来の金融合作社( 1933年設立)と農事合作社(36年発足)を統合した興農合作社を新設し、その下に農民統制の末端組織として村落ごとの輿農会を設け、その会員数は同年末に全満農家戸数の約6割をこえたと言う。
 またこれにともなって同年6月の中央行政機構改革による興農部(産業部の改組)の新設と翌年7月の農産公社(特産専管公社・満州糧穀会社・満州穀粉会社の統合)の創立による農産物の増産・集荷・配給の一元的統制のもとで、満州農民から農産物を収奪する体制が整備された。

 さらに満州農民を圧迫したのは、1937年から実施された20年100万戸移民計画(第一期5年10万戸)にもとづく日本人農業移民政策であった。
 この計画は日本国内の農村問題の解決とあわせて、主として軍事上の必要から東・北満国境地帯への日本人の移殖を企画したのだった。
 このため38年から日本国内では分郷分村計画による満州移民の送出が奨励され、また同年には満蒙開拓青少年義勇軍(満州入殖後は義勇隊と改称)が創設され、その募集と訓練もはじまった。

 こうして1941年には開拓団4万2636戸、義勇隊員5万4394人におよび、さらに45年5月には開拓団は6万9822戸、19万2492人にたっした。

 しかしこれらの開拓団の用地はすべて満州拓殖公社(37年8月創立)と「満州国」政府による強権的な土地収奪政策にたよって確保された。
 1939年3月の「満州開拓政策基本要綱」によれば、開拓用地の整備は、「原則としで未利用地開発主義」(『満州開拓年鑑 康徳7(1940)年版』10 頁) によるとされたが、40年末までに満拓公社と政府が取得した1068万ヘクタールにおよぶ土地の約二割は熟地(既耕地)であり、さらにこれを満拓公社取得地について地域的にみると、く南満三省では熟地が全体の九割をこえ、興安東・南二省でも四割以上におよんだ。しかもこれらの農民の耕作地は地方官憲の権力を背景に不当に買いたたかれ、農民に大きな犠牲を強要したのである。

朝鮮の場合

 一方、朝鮮農業にたいしても日本の戦時食糧確保のため新たに米穀の対日供給増が要求された。
 とくに1939年の大干害による朝鮮米産の激減は産米増殖を緊急の課題とした。このため総督府は1934年以降中止していた産米増殖計画を再検討し、40年度から新たな増殖計画を実施した。それは耕種法の改善と土地改良によって680万石を増産し、50年度の総生産量3500万石を目標とした。
 また総督府は対日移出米を確保するため40年4月から米穀生産の割当制を実施する一方、朝鮮米穀配給調整令(40年2月)にもとづいて朝鮮農民に米穀の供出を強制し、さらに41米穀年度からは輸移出米に加えて朝鮮内消費米についても配給に必要な米を各道に割当て供出制を実施した。

 このような全面的供出制による朝鮮米の強権的収奪によって対日移出が強行される一方、朝鮮人の米消費量は42年以降年々減少した。そのため朝鮮民衆は不足分を満州からの雑穀輸入でかろうじて生活を維持したのである。

 朝鮮と同じく、台湾もまた日本戦時経済の主要な食糧供給地であった。1939年5月台湾総督府は対日移出米確保のため台湾米穀移出管理令(いわゆる「米管」)を制定し、総督府による移出米の強制買上制度を実施した。
 この制度によって総督府は市場価格よりも不当に低い価格で農民から米穀を強権的に収買したばかりでなく、移出米たる蓮来米を島内消費米(在来米)より相対的に高く買上げることによって対日移出米の優先的確保をはかったのである。
 またこれと同時に総督府は産米増殖計画をも実施したが、土着農民を犠牲にする「米管」の実施によってむしろ台湾米産は減退し、38年の約981万石をピークとして、その後は停滞に向った。
 しかしそれにもかかわらず、37~39年の年平均対日米穀移出量は約460万石を確保し、それは同期間の年平均米産高のほぼ半ばにも達したのであった。

   _______________

 大日本帝国による満州・朝鮮・台湾への暴虐な収奪を知れば知るほど、『明治150年、何がめでたい!!』という思いが、さらに強く沸き上がってきます。

 さて、次回からは大日本帝国による暴虐な収奪に対して植民地の人たち示した抵抗と、それに対する大日本帝国の対応を取り上げることになります。第一章の最終節「抗日民族運動の展開」です。
 
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