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明治150年、何がめでたい(21)

大日本帝国の植民地(4)

戦時下の植民地(1)


 ここで言う「戦時」とは言うまでもなく「昭和の15年戦争」であり、その時の「植民地」とは朝鮮・満州・台湾です。
 カテゴリ『昭和の15年戦争史』 などの記事と重複する事項もあるかと思いますが、まずは15年戦争の総力戦体制とそのための植民地対策をめぐって次々と制定されていった法整備を追っていくことにします。
(『岩波講座 日本歴史21』第5章「戦時下の植民地」の「はじめに」を参考書として用います。この章の著者は執筆時・徳島大学教授の鈴木隆史さんです。)

 1936年8月 「国策の基準」策定
  軍部の政治的発言力を一挙に増大させ、軍部を中心に日本の総力戦体制の準備が本格的に開始される重要な画期となったのがあの2・26事件(1936年)だった。
  事件直後に成立した広田内閣が、同年8月の五相会議で南北併進と軍備拡充を基本とする「国策の基準」を策定し、これによって総力戦体制の準備を国策とする方針が確定した。

 同年6月 「帝国国防方針・用兵綱領」改訂
  これによって、大規模な軍備拡充計画が実施に移されることになった。
  これは満州事変後の戦争政策の拡大が生み出した国際的孤立化やソ連極東軍備の増強などに危惧を強めた軍部がつよく求めた結果だった。
  こうして確立した一元的な戦争指導体制のもとで戦争遂行するためには、それを支える軍需資源の確保が絶対的な要件であった。

満州への対応

  これまで重要資源をほとんど海外に依存してきた日本にとっては、長期の戦争に備える軍需資源の確保のためにはそれを日本の独占下にある植民地にもとめるほかはなかった。 そこで軍部は、日本の総力戦体制準備の一環として、国内政治体制のファッショ化を促進する一方、総力戦体制に不可欠な軍需資源の開発と確保を日本の植民地――主に満州(現在の中国東北)・朝鮮・台湾――における人的物的資源の戦争への動員体制強化をつよく求めたのだった。その植民地の中でも軍部は満州を重視した。満州を重視した理由は満州における軍部の次のような経緯があった。

 1931年の満州侵略と傀儡国家「満州国」の設立によって日本の独占的支配下におかれた満州は、陸軍の対ソ戦略のための前進基地としての重要性とならんで、鉄・石炭などの豊富な原料資源の供給地としてとくに軍部によって重視されてきた。そのため「満州国」の発足以来その実権をにぎる関東軍は、反満抗日勢力に対する治安強化に全力を注ぐ一方、1933年3月の「満州国経済建設基本綱領」によって軍事的必要を最優先させた満州の経済開発を強力に推進した。しかしまもなく当初期待された自足的な「日満経済ブロック」の限界が明らかになるや、軍部は35年から華北の軍事的制圧にのりだし、「日満経済ブロック」は新たに「日満支経済ブロック」に拡大されるが、同ブロックに占める満州の中核的位置は変らなかった。


 1937年1月 「満州産業開発五ヵ年計画」の策定
 そして、1936年から軍部を中心に日・満を一体とする総力戦準備計画が本格的に具体化されると、満州に対する軍部の要求は急速に増大し、たとえば同年7月参謀本部は、
「対蘇戦争準備の為戦争持久に必要なる産業は昭和16年迄を期間とし日・満・北支を範囲として之を完成し特に満州国に於で之が急速なる開発を断行すること」
を要望した。このような軍部の要求に応えて日本の総力戦準備の一環として策定されたのが、満州産業開発五ヵ年計画であった。37年1月関東軍司令部が策定した五ヵ年計画の綱要によれば、その主な内容は、
「有事の際必要なる資源の現地開発に重点を置き、併て成し得る限り国内の自給自足と日本不足資源の供給とを図」
ることが目的とされ、鉱工業、農畜産、交通の各部門ごとに具体的な開発目標を示すとともに、所要資金として総額25億7800万円が計上された。

朝鮮への対応

 満州とならんで、古くからの直轄植民地であった朝鮮も日本の総力戦準備に不可欠の存在であった。種々の地下鉱物資源に恵まれた朝鮮では、すでに満州事変以降北朝鮮の電力開発を基軸とする工業化政策が日本資本の進出によって推進されていたが、日本の総力戦準備の進行と満州の五ヵ年計画の策定は、はやくから満州と不可分の関係にあった朝鮮にも大きな影響をあたえた。

1936年10月朝鮮の「大陸兵站基地」化
 字垣一成に代って朝鮮総督に就任した南次郎(前関東軍司令官)は、着任と同時に「我国の目下の重点は満州国との不可分関係を愈々増加することに根底がある」と声明し、10月下旬に朝鮮産業経済調査会を開き、日本の総力戦準備に即応するあらたな産業政策を諮問した。同調査会の答申は、
「農工併進ヲ旨トシ……殊ニ揺籃時代ニ在ル鉱工業ニ付テハ、其ノ飛躍的振興ヲ期スルト共ニ内地及満州トノ連絡ヲ密ニシ、朝鮮ノ地理的且資源的特質ニ鑑ミ帝国全般ノ需要充足ニ十分寄与スル用意ナカルへカラス」
と指摘し、朝鮮の「大陸兵站基地」化の方向を明らかにした。さらに南総督は、10月29日図們(ともん 中国と朝鮮の国境にある都市)で植田謙吉関東軍司令官と会見し、満州と朝鮮の協力について協議した。そしてその結果は、翌37年3月の鴨緑江・図們江国際架橋協定、同年8月の両江売電事業協定の締結に具体化された。

台湾への対応

 また台湾は、さきの「国策の基準」において海軍の要求した南進政策が国策にとりいれられたことから、「南進基地」としての役割が改めて重視された。そのため1936年2月には台湾および華南・南洋の拓殖事業の促進と資源開発を目的とした台湾拓殖会社が国策会社として創設され、南進政策への布石となった。また同年9月に台湾総督が中川健蔵から予備海軍大将小林躋造(せいぞう)に代り、第八代の田健治郎(でんけんじろう)総督(1919年10月~23年9月)以来17年にわたる文官総督時代に終止符がうたれたことも台湾の「南進基地」としての重要性に海軍が注目したことの結果であった。

 以上のように、新たに戦争への協力体制を要求された各植民地は、さらに37年7月の日中全面戦争の勃発を契機として、確立を急ぐ日本の総力戦体制の不可分の一環に急速にくみこまれるにいたる。すなわち日中戦争の勃発とともに、日本国内では国民を戦争へ動員するためのファッショ的支配の強化と国家総動員体制の整備が進行するが、その一環として植民地においても戦争遂行に必要な人的物的資源の戦争への動員体制が急速に強化される。そしてさらに戦争の長期化と拡大にともなって日本の総力戦体制の矛盾と困難が露呈されるとその打開の方向はつねに植民地収奪のいっそうの強化にもとめられ、植民地人民に対するファッショ的支配と民族抑圧政策は文字通りその極限にまでおしすすめられるのだった。

 (次回からは、「日中全面戦争の開始から日本帝国主義の崩壊にいたるまでの満州、朝鮮、台湾の植民地支配の実態と、戦時支配の下で累積された諸矛盾がいかに植民地支配を日本帝国主義との同時崩壊にみちぴいたか」 という問題を読み進めていくことになります。)
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