2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(19)

大日本帝国の植民地(2)

アイヌシモリへの侵略と略取(1)


 大日本帝国による沖縄琉球への侵略の始まりは、1879年3月27日に断行された琉球処分でした。それでは、アイヌシモリへの侵略はいつどのように行われたのでしょうか。

 以下は、前回紹介した平田さんの論説『「松浦武四郎とアイヌモシリ侵略」 「北海道命名150年祝賀」に漂うコロニアリズム』を教科書として話を進めますが、私の勝手な判断で、論述を分かり易くする観点から、平田さんが書き進めている順序を変えて紹介していくことにします。

 平田さんはまず前書きとして、次のような問題提起をしています。


 日本政府は1869(明治2)年、それまで蝦夷地などと呼んでいた大島に「北海道」と命名して、植民地化した。先住民族アイヌにとっては「日本政府による歴史的不正義の始まり」なのに、いま北海道庁が展開する祝賀事業に、自省の色はない。


 まず、本文の欄外に参考資料として掲載されている日本政府によるアイヌモシリの植民地化政策の年表を転載しておきます。


日本政府による主な対アイヌ政策

1869(明治2)年
 日本政府が「土人」(アイヌ)を「教導」すると宣言。蝦夷地・北蝦夷地を内国化してそれぞれ北海道・樺太州と改称。

1871 (明治4)年
 戸籍法公布。アイヌを「日本国民」へ編入。アイヌ語を禁止。女性の入れ墨、男性のイヤリングを禁止。死者の出た家屋を燃やす儀礼を禁止。

1872(明治5)年
 官有地の売り渡し先からアイヌを除外。

1875(明治8)年
 アイヌのシカ猟を規制。樺太州在住のアイヌ840名あまりを北海道へ強制移送。

1876(明治9)年
アイヌに和人風の姓名を強要。

1878(明治11)年
アイヌの公式呼称を 「旧土人」に統一。


 さて本文は、「アイヌモシリを北海道と名付けた」とされている松浦武四郎という探検家の業績を検討することから始めています。

北海道150年のキーパーソン?

 筆者が暮らす北海道で、このところ松浦武四郎の名前を目にする機会が増えている。「幕末の探検家」「北海道の名付け親」といった肩書きつきで紹介されることの多い歴史上の人物である。

 といっても、坂本龍馬や西郷隆盛あたりの同時代人に比べると知名度は低い。それがいま、にわかに露出し始めたのは、来年2019年が「北海道命名150周年」の節目にあたり、たぶん中央政府の「明治150年記念」(2018年)にムリヤリ同期させたのだろう、北海道庁がプロデューサー、電通北海道(随意契約)がディレクターになって、この人を「北海道150年事業のキーパーソン」に起用しているせいだ。

 でも、まったく解せない。松浦武四郎って、官製の祝賀行事なんかに召還されるタイプの人だっけ? それに厳密には彼は「北海道の名付け親」ではなかったはずだ。

80~90年代の武四郎イメージ

 筆者がその人となりに初めて触れたのは、ちょうど30年前、花崎皋平(こうへい)『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』(岩波書店、1988年)を介してだった。
 〈松浦武四郎をできるだけ簡潔に紹介しようとすると、二つの、裏と表といってもよいほど角度のちがう見方がある〉
と書き起こされている。

 ひとつ目の見方は、最初に記した肩書きどおりで、同書出版時の『広辞苑第3版』(1983年発行)に
「まつうら・たけしろう 幕末・維新期の北方探検家。伊勢の郷士の子。幕府の御用掛として蝦夷・樺太を調査。維新後は開拓使大主典となり、蝦夷を北海道と改称すべきことを提案。著『三航蝦夷日誌」「東蝦夷日誌」「西蝦夷日誌』(1816一1888)」
とあるから、こちらがオモテということだろう。

(管理人:余計な注ですが『広辞苑』に人名が掲載されていることを私は知りませんでした。念のため手元の『広辞苑第2版』(1970年発行)を調べてみたら、坂本竜馬と西郷隆盛は取り上げられていましたが、松井武四郎はまだ取り上げられていませんでした。辞典に取り上げられるようになったのは30年ほど前くらいからなのですね)

 対するウラの見方はこうだ。
 〈(松浦は)明治2年には開拓判官に任ぜられ開拓大主典(官名)の職に就いている。いまでいえば北海道開発庁の次官級の職である。……しかし彼は、半年ほどその席を暖めただけで、明治3年3月、慰留をふりきって一切の官職を辞し、位階(従五位)も返上してしまう。〉
 〈彼は、そのまま放置すればアイヌ民族を絶滅させかねない松前藩と場所請負人の搾取と虐待、それに蝦夷地資源の略奪を、新政府の政策によって終止符を打つことに、幕末期蝦夷地における自分の活動のしめくくりを置いていた。〉(前掲書)

 この本を書いた花崎は、「ウラの見方」に傾斜しつつ、〈彼の生涯は、おのれの立身出世のために権力者に媚びたり、民衆を踏み台にしたものではなく、むしろ、民衆の側に立って権力と資本の搾取・抑圧を告発したもの〉と書いている。

 1971年に国立大学教員の職を辞して、アイヌの人権回復活動をはじめとする市民運動に軸足を置きながら執筆活動を続けていた花崎は、松浦の生きざまに自身を投影したかったのかもしれない。それはともかく、花崎の造形する「権力者に媚びたり」せず「民衆の側に立って権力と資本の搾取・抑圧を告発」するヒロイックな――けっきょく黙殺されてヒーローにはなれなかったが――松浦像が、こうして新たに印象づけられた。

 少し遅れて1993年に出た本多勝一『アイヌ民族』(朝日新聞社)の視線も、花崎に近い。
 本多はこの本で松浦を
〈アイヌモシリを徹底的にさぐり、近代西欧の探検家たちも及ばぬほどの傑出した記録精神によって膨大な探険記を書いた。(略)アイヌに対するシサム(日本人のこと=引用者注)の残酷きわまる仕打ち、働き手を次々と強制連行されたあとのアイヌ社会の惨状、それに対する松前藩や幕府の無策ぶりも詳細に記録されているため、そのままのかたちで刊行することが体制側から許されず、当時は抄録的なものが出版されていた〉
と、プロファイルした。

 やっぱり読者は「弱者に共感を寄せ、権力にあらがった反骨の人」というイージを松浦に重ねただろう。
 「オモテ」の見方では「蝦夷を北海道と改称すべきことを提案」となっているが、本当に名付け親だったのだろうか。この問題の真相を平田さんは,榎森進著『アイヌ民族の歴史』(草風館)の一節(アイヌモシリの改名の経緯:次の段落の太文字部分)を引用して次のようにまとめています。

〈「北海道」という呼称は、古代天皇制国家の「五畿七道」、すなわち都に近い大和(奈良)・山城(京都)・河内(大阪)・摂津(大阪・兵庫)・和泉(大阪)の五国を「畿内」とし、他の諸国を山陰道・山陽道・南海道・西海道・東海道・北陸道・東山道の七道に分けた行政区画にならつたもので〉
〈「北海道」と改称された地域が名実共に日本の領土・天皇制国家の支配領域になったことを意味するものであった。〉


 このとき松浦が新政府に提出した新しい改名案は、日高見道(ひだかみどう)・北加伊道(ほっかいどう)・海北道(かいほくどう)・海島道(かいとうどう)・東北道(とうほくどう)・千島道(ちしまどう)の6つ。「北海道」はない。

 松浦自身の解説によれば、候補のうち北加伊道は、アイヌ同士が互いを呼び合う「カイノー」というアイヌ語にちなんだ名前だった(松浦武四郎『北海道々国郡名撰 定上書』1869年)。ところが政府は、原案者が込めた「アイヌのくに」の意味をばっさり切り捨て、「加伊」の2文字を本州島の行政区画名に合わせて「海」と入れ 替えた。スタート時から先住民族同化政策を掲げた政府にふさわしい植民地改名エピソードではある。

(次回に続く)
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2397-a90bb90e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック