2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(15)
明治以降の日本と戦争(10)
前回最後に掲載した〔問題14〕に対する解説を転載します。
上の解説によれば、〔問題14〕の解答は次のようになります。
1.《×》ベトナム………(フランス)
2.《×》ミャンマー〔=ビルマ〕…(イギリス)
3.《 》タイ………( )
4.《×》マレーシア………(イギリス)
5.《×》フィリピン………(アメリカ)
6.《×》インドネシア………(オランダ)
7.《×》グアム島………(アメリカ)
8.《 》サイパン島………(日本の信託統治領)
9.《×》シンガポール………(イギリス)
上の解説にはタイ国がありませんが、これが次の〔問題15〕の第一問
「前のアジア地図に描かれている地域には,日本と中国のほかにも,独立国といえる国が一つありました。その国の名は何でしょう。」
の答えです。〔問題15〕の第二問はそのタイ国について次のように問いかけています。
板倉さんはこの問いの解答を次のように解説しています。
日本が宣戦布告をしたのは米英両国だけでしたが、東南アジアのフランスやオランダの植民地にも侵攻しています。このことについての問いが次の〔問題16〕です。
この問題では大東亜戦争だけではなく、ヨーロッパの戦争の動向も視野に入れる必要があります。解説はまずその問題を取り上げています。
日本はヨーロッパでの独英中心の戦争と結び付くことによって、大東亜戦争→第二次世界戦争への道を進むことになったのでした。
この問題についての解説は次の通りです。
連合国の参戦により、大東亜戦争は激変します。(次回で)
明治以降の日本と戦争(10)
大東亜戦争[=太平洋戦争](2)
前回最後に掲載した〔問題14〕に対する解説を転載します。
〔東アジアの植民地〕
東アジアには,米国・英国・フランス・オランダの植民地がありました。そして,ドイツ・イタリア・スペインの植民地はありませんでした。
前ページの地図の範囲の国々でいうと,
① いまのインドネシアは,当時「蘭(=オランダ)領東インド」と呼ばれていて,オランダの植民地で,
② いまのベトナム・ラオス・カンボジアの3国は,当時「フランス領インドシナ〔仏印〕」と呼ばれていて,フランスの植民地でした。
そして,
③ インド・ミャンマー〔=ビルマ〕・マレーシア・シンガポール・ホンコンとパプアニューギニアその他の小さな島々は,英国の植民地,
④ フィリピンとグアム島は,アメリカの植民地で,
そのほかに,
⑤ 台湾と朝鮮とサハリンと「満洲国」が日本の植民地で,サイパン島などの南太平洋の島じまは,日本の〈国際連盟信託統治領〉でした。
上の解説によれば、〔問題14〕の解答は次のようになります。
1.《×》ベトナム………(フランス)
2.《×》ミャンマー〔=ビルマ〕…(イギリス)
3.《 》タイ………( )
4.《×》マレーシア………(イギリス)
5.《×》フィリピン………(アメリカ)
6.《×》インドネシア………(オランダ)
7.《×》グアム島………(アメリカ)
8.《 》サイパン島………(日本の信託統治領)
9.《×》シンガポール………(イギリス)
上の解説にはタイ国がありませんが、これが次の〔問題15〕の第一問
「前のアジア地図に描かれている地域には,日本と中国のほかにも,独立国といえる国が一つありました。その国の名は何でしょう。」
の答えです。〔問題15〕の第二問はそのタイ国について次のように問いかけています。
板倉さんはこの問いの解答を次のように解説しています。
〔タイ国と日本との関係〕
「大東亜戦争」当時,東アジアで独立を保っていた国は,日本と中国のほかにタイ王国〔シャム〕がありました。そのタイ王国はフランス領インドシナと英国領ビルマ〔=ミャンマー〕の間にはさまれていたために,英仏両国の植民地にされずに済んだのでした。
太平洋戦争が始まると,タイ国政府は仏領インドシナとの国際紛争を有利に解決するために日本の援助を求めて,日本軍をタイ領内に入れ,その年の12月21日には〈日タイ軍事同盟〉を調印しています。そして,翌年1月25日にはタイ国政府は,日本にならって,米英両国に宣戦布告するまでになっています。
つまり,タイ王国は日本と同盟を結んで米英両国と戦ったのです。しかし,日本が戦争に負けはじめた1944年7月にはタイ国にも政変がおき,1945年8月には対米英宣戦を撤回しています。
日本が宣戦布告をしたのは米英両国だけでしたが、東南アジアのフランスやオランダの植民地にも侵攻しています。このことについての問いが次の〔問題16〕です。
この問題では大東亜戦争だけではなく、ヨーロッパの戦争の動向も視野に入れる必要があります。解説はまずその問題を取り上げています。
〔ヨーロッパの戦争と日本の戦争との関係〕
フランスとオランダはヨーロッパの国ですから,それらの国々との関係を知るためには,当時のヨーロッパでの戦争のことを知らなければなりません。
じつは,ヨーロッパでは,日本が「大東亜戦争」をはじめた1941年12月よりも1年半ほど前の1939年9月に,英仏両国がドイツに宣戦を布告して,第二の欧州戦争―第二次世界大戦がはじまっていたのです。
ところが,フランスは,1940年6月にドイツ軍に首都パリを占領されて降伏してしまいました。そこで,日本軍はその弱みにつけこんで,〈大東亜戦争〉のはじまる少し前の1941年7月に,仏領インドシナに軍隊を進駐させたのです。この日本の侵略的な動きはとくに米国の強い反発を買うことになりました。そして,その年の8月1日には米国から,石油の輸出禁止を通告されて,対米英戦争の道を早めたのです。
オランダについては,日本は最初,米英蘭の3ヵ国に宣戦を布告する計画でした。日本の軍部にとってはアメリカの石油輸出禁止に対抗するために,蘭領東インドでとれる石油その他の軍需物資を手にいれる道を確保することが重要だったからです。ところが,オランダはそれより前,ドイツと英仏の戦争に中立を宣言してしたにもかかわらず,1940年の5月にドイツ軍に侵入されて降伏してしまっていました。
それに,1941年12月11日にはドイツとイタリアが米国に宣戦を布告しました。そこで,東アジアでの日米中心の戦争と,ヨーロッパでの独英中心の戦争とが結びつくことになりました。そこで,日本はオランダに対して宣戦布告をすることもなく,大軍をオランダ領東インドに上陸させて, 1942年3月にはもうジャワ島の蘭領東インド軍を無条件降伏させたのです。
日本はヨーロッパでの独英中心の戦争と結び付くことによって、大東亜戦争→第二次世界戦争への道を進むことになったのでした。
この問題についての解説は次の通りです。
〔連合国の参戦〕
「大東亜戦争」が始まってひと月もたたない1942年1月1日,アメリカ・イギリス・ソ連など26ヵ国代表は米国のワシントンに集まり,〈連合国共同宣言〉に調印しました。「民主主義の擁護」のために日本やドイツとの戦争を行って,日本やドイツと単独に講和を結ばないことなどの原則を確認したのです。そこでそれ以後,これらの国ぐにのことを〈連合国=United Nations〉と呼び,日独伊の軍事同盟を中心とした国々のことを〈枢軸国=Axis Powers〉と呼んで区別するようになりました。(…枢軸というのは車の心棒のことです。)
連合国の参戦により、大東亜戦争は激変します。(次回で)
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