2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(14)

明治以降の日本と戦争(9)

大東亜戦争[=太平洋戦争](1)


 〔問題13〕の答えは
「《大東亜》戦争は、《1941年》年に始まった。」
でしたが、始まったのは年月日で詳しく言うと《1941年12月8日》です。この日に宣戦布告の勅語が発布されたのです。この大東亜戦争の宣戦布告を読んでみます。(日露戦争の時の宣戦布告と同じ文言についてはふりがな・意味の付記は省きました。)

宣戦布告の勅語――大東亜戦争

 <天祐を保有し万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇〉は,昭(あきらかに)に忠誠勇武なる汝有衆に示す。朕,ここに米国および英国に対して戦を宣す。
 朕が陸海将兵は全力を奮って交戦に従事し,朕が百僚有司は励精(れいせい)職務を奉行(ほうこう)し,朕が衆庶は各々(おのおの)その本分を尽(つ)くし,億兆一心,国家の総力を挙(あ)げて征戦の目的を達成するに遺算なからしむことを期せよ。
 そもそも東亜の安定を確保しもって世界の平和に寄与するは丕顕顕〔ひけん=大いに明らか〕なる皇祖考丕承〔こうそこうひしょう=偉大な継承〕なる皇考〔こうこう=先代の天皇〕の作述せる遠猷〔えんゆう=遠謀〕にして,朕が拳々措(けんけんお)かざるところ,而(しか)して列国との交誼(こうぎ)を篤(あつ)くし,万邦共栄の楽(たのしみ)を偕(とも)にするはこれまた帝国がつねに国交の要義となすところなり。いまや不幸にして米英両国と釁端〔きんたん=不和のいとぐち〕を開くに至る。洵(まこと)にやむをえざるものあり。あに朕が志ならんや。
 中華民国政府,さきに帝国の真意を解せず,みだりに事を構えて東亜の平和を撹乱(こうらん)し,ついに帝国をして干戈〔かんか=武器〕を執るに至らしめ,ここに四年有余をへたり。さいわいに国民政府更新するあり。帝国はこれと善隣の誼(よしみ)を結び相提携(あいていけい)するに至れるも,重慶(じゅうけい)に残存する政権は米英の庇蔭〔ひいん=助け〕を恃(た)みて,兄弟(けいてい)なおいまだ牆(かき)に相鬩ぐ〔あいせめ=うちわもめ〕を悛〔あらた=改める〕めず。米英両国は残存政権を支援して東亜の禍乱〔からん=騒動〕を助長し,平和の美名に匿(かく)れて東洋制覇の非望を逞(たくま)しうせんとす。剰え〔あまつさえ=そのうえ〕与国〔=同盟国〕を誘(いざな)い,帝国の周辺において武備を増強して我に挑戦し,さらに帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え,ついに経済断交をあえてし,帝国の生存に重大なる脅威を加う。朕は,政府をして事態を平和の裡(うち)に回復せしめんとし,隠忍久(いんにんひさ)しきにわたりたるも,彼は毫(ごう)も交譲(こうじょう)の精神なく,徒(いたずら)に時局の解を遷延(せんえん)せしめて,この間かえって益々経済上・軍事上の脅威を増大し,もつて我を屈従せしめんとす。
 かくの如くにして推移せんか。東亜安定に関する帝国積年の努力はことごとく水泡に帰し,帝国の存立また正に危殆〔きたい=非常に危ない状態〕に瀕(ひん)せり。
 事すでここに至る。帝国は今や自存自衛のため蹶然起って〔けつぜんたって=勢いよく事を起こす〕一切の障礙〔しょうがい=障害〕を破砕(はさい)するのほかなきなり。
 皇祖皇宗〔こうそこうそう=天皇の歴代の祖先〕の神霊上(かみ)に在り。朕は,汝有衆の忠誠勇武に信倚〔しんい=信頼〕し,祖宗(そそう)の遺業を恢弘〔かいこう=広める〕し,速やかに禍根〔かこん=禍の元〕を芟除〔さんじょ=刈り除く〕して,東亜永遠の平和を確立し,もって帝国の光栄を保全せんことを期す。
 御名御璽
     昭和16年12月8日

 この勅語について、板倉さんは次のように解説している。

 さて,どうでしたか。
 日本はこれより先,<満洲事変―支那事変〉と称して,中国=中華民国政府と戦争して,親日本派に傀儡(かいらい)政権を作らせていたのでしたが,
「米英両国は,日本に抵抗している政府〔重慶政府〕を応援して日本の邪魔をし,平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞しくしている」
と言って攻撃し,さらに
「日本の通商に妨害を加えて,ついに経済断交をした」
ということを戦争の理由にあげているのです。

 ところで,日清・日露の戦争のときの勅語では,「いやしくも国際法にもとらざる限り」とか,「凡そ国際条規の範囲に於いて一切の手段を尽くし」などと,とくに国際的な問題に注意を払っていました。ところが,この勅語にはそういう文章がまったく入っていません。これは注目すべきことと言えるでしょう。日清・日露の戦争のときは,国際世論を味方につけようと懸命だったのに,今度は国際世論が味方につかないことを承知の上で,戦争をはじめたというわけです。そういう意味でも,日清・日露の戦争と大東亜戦争とでは違っていたのです。

 この国際世論に対する離反の背景を『近代4』第5章「朝鮮併合」の最後のまとめ文が次のように指摘しているので、紹介しておきます。
 なお、日本による植民地化は朝鮮とともに台湾でも行われていました。朝鮮と台湾の植民地化の違いから書き始められています。

 このように台湾がいちはやく資本主義的開発のなかにおかれていくのに対して、朝鮮は日本資本主義の安価な食糧・原料供給地とすることに統治の主眼がおかれ、その資本主義的植民地経済への体制的な再編成は、第一次大戦後のこととなる。

 以上みてきたとおり、日露戦争後日本はアジア諸民族の解放運動の新たな高まりに敵対し、帝国主義的支配秩序の憲兵として、帝国主義的再分割競争に主体的に加わることによって、一大植民帝国に成長した。第一次世界大戦にむかう国際的諸条件がそれを一時的に可能にした。しかし日本が主要な植民地とした台湾・朝鮮・「関東州」などの諸地域は高度な文明をもつ諸民族の地域であった。当然のことながら強固な民族的抵抗に対抗せずにはこの植民地支配はありえなかった。ここにはその支配は軍事・警察的支配以外になく、権力の末端に至るまで日本人による直接的な掌握の方法以外にありようもなかった。かくて生来の軍事的・政治的目的による海外領土の獲得・支配は一層倍加され、同時に植民帝国の形成は軍部を巨大な政治勢力に成長せしめる大きな要因の一つともなった。

 だが第一次世界大戦とともにこれらの諸条件は大きく変化していく。日本は帝国主義列強間の対立のなかで孤立していくとともに、植民地における新たな民族解放運動の高まりに直面し、植民帝国は動揺する。日本は成長した独占資本とその軍事力を背景に新たな侵略と戦争のなかにその解決の方途を見出さんとする。

 『ミニ授業書』に戻ります。

〔問題14〕
 現在の次の国々は,太平洋戦争当時,独立国だったでしょうか。それともどこかの国の植民地だったでしょうか。《 》内に、独立国には○をつけ,植民地には×をつけて、《×》の場合は( )内にその地域を支配していた国の名を書いてみて下さい。

 1.《 》ベトナム………(      )
 2.《 》ミャンマー〔=ビルマ〕…(      )
 3.《 》タイ………(      )
 4.《 》マレーシア………(      )
 5.《 》フィリピン………(      )
 6.《 》インドネシア………(      )
 7.《 》グアム島………(      )
 8.《 》サイパン島………(      )
 9.《 》シンガポール………(      )

『ミニ授業書』は〔問題14〕の関連資料として「1940年の東アジアの国々」という地図を掲載していますが、2ページにわたる地図で鮮明な複写ができず、転載することをあきらめました。そに代わりに、1940年頃のではなく現代の地図になりますが、外務省の「ASEAN(東南アジア諸国連合)地図」を転載します。

ajia2.jpg


(フィリピンの東方に〈〉〈〉のようなしるしを記入しておきましたが、そこがサイパン島・グアム島です。)
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