2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(12)

明治以降の日本と戦争(7)

日本による朝鮮統治の実態


 まず前回の復習を一つ。日韓協約で知ったように日本は朝鮮に統監府をおき、統監による支配を行っていた。これを「統監政治」と呼んでいる。

 ところで、『岩波講座 日本歴史』の「近代 4」の第4章の表題は「朝鮮併合」(筆者:井口和起さん、現在、福知山公立大学学長)です。これを教科書として、「朝鮮の植民地化」問題についの詳しいを学習もう少し続けようと思います。まずは、第3節「朝鮮併合」を用いて、朝鮮併合の時の日本政府の強引な手法と、日本国内の民意の動きを改めて確認しておきます。


 統監府の朝鮮支配は、朝鮮の旧来の支配機構を利用して遂行されるというよりは、その一つ一つを破壊ないし再編成しつつ、権力の末端に至るまで日本人官吏を就任させて直接に日本が掌握していくかたちで進められた。朝鮮の旧来の封建官僚群を全体として植民地支配のための官僚に再編成することなどはできず、わずかに李完用内閣の如く一握りの買弁官僚によって形式的に内閣を組織させたにすぎない。「一進会」(下の注を参照して下さい)なども幹部自らが「味方会員の為めにも亦身を危ふくせざるを得ざる形勢」でしかなかった。したがって朝鮮人による植民地軍隊の育成などはありうべくもなかった。

注:「一進会」(ウィキペディアから転載しました)
宮廷での権力闘争に幻滅し、次第に外国の力を借りてでも大韓帝国の近代化を目指す方向に傾きつつあった開化派の人々が設立した団体。中でも日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった大日本帝国に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。日本と大韓帝国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。


 かくて「統監政治」のむかうところは、朝鮮支配の最も確実なる方法として朝鮮の併合を強行する以外になかった。

 1909年7月、閣議は朝鮮併合の断行を基本方針として確定し、1910年8月22日、日本はついに朝鮮を併合した。

 日本はこの「併合」を朝鮮の国王が申し出、天皇がこれを受けいれたという形式をとらせ、一進会をつかってこの「併合」が朝鮮民族の希望であったかのようにみせかけようとした。だが事実は全く逆であった。条約は寺内統監のもとで極秘のうちに準備され、調印は軍隊による厳戒体制のなかでクーデターにも似たやり方で行なわれた。

 「併合」条約の公表された8月29日、東京市では軒並みに日の丸が掲げられ、記念の花電車に喜々として乗りこむ市民の姿があちこちでみられた。諸新聞は連日社説で朝鮮問題を論じ「併合」を祝した。それらはいずれもこれが両国の合意の下で成立したものだと強調し、朝鮮は「大日本帝国」という世界の「一等国」にくみいれられたのだから、朝鮮人こそ「併合」を喜ぶべきであり、日本人は朝鮮を「指導啓発」する責任を自覚せよと主張した。日露戦争前後から朝鮮併合に至る間に日本の新聞・雑誌はしばしば朝鮮問題を論じたが、その大半は日本の朝鮮支配を当然のこととするばかりか、政府や統監のやり方が手ぬるいとしてより強硬な朝鮮支配の遂行を要求するのが常であった。内政については藩閥元老政治を批判して民本主義的論調を展開した『東洋経済新報』のような場合でも、朝鮮政策を論じたときには、きわめて積極的な朝鮮支配を主張した。わずかに日露戦争に際して反戦論を展開した一群の社会主義者たちが、『週刊平民新聞』『大阪平民新聞』『週刊社会新聞』『熊本評論』等々で、日本の朝鮮侵略を批判し、朝鮮人民の反日運動を紹介してこれに同情を寄せる主張を掲げた。だが、それも「大逆事件」と社会主義者への弾圧の重なるなかで、「併合」当時には全く行動をおこしえなかった。唯一発行を維持していた片山潜らの『社会新聞』が、「併合」直後の9月15日号に「日韓合併と我責任」と題する所感を掲げたが、それは「日韓併合は事実となった。之が可否を云々する時ではない。今日の急務は我新朝鮮を治むるに当り高妙なる手段方法を用ゐることである」として「高妙なる」統治と同化を主張するものでしかなかった。

 朝鮮併合を反帝国主義・反侵略主義の立場から批判する主張はついに現われなかった。

 併合後の日本による朝鮮統治はどのように行われたのでしょうか。その併合後の統治は「憲兵政治」と呼ばれる露骨な軍事的支配でした。第三章「植民帝国」の第2節「朝鮮統治」にその収奪の実態が、統計上の詳しい数値を挙げながら詳細に論述されていますが、その冒頭の「憲兵政治」の実態を述べている部分だけを転載しておきます。

2 朝鮮統治

 日本の朝鮮統治の大きな特徴の一つは、周知のとおりその露骨な軍事的支配にあった。統監府の時代から朝鮮には一個師団ないし一個師団半の兵力が配備されていたが、「併合」後もこの軍隊は常駐し、のちに軍部の二個師団増設要求が実現すると、その兵力は二個師団に増強される。この軍隊は朝鮮の民族運動を鎮圧するために分散配置されていたが、同時に竜山・羅南・平壌と北部に重点配置され、中国侵略の先鋒的役割もになっていた。

 これとならんでいわゆる憲兵警察が組織され、朝鮮統治の中核にすえられていた。この制度は義兵運動(朝鮮 民衆による反日武装闘争)の鎮圧過程で創設されていったものであるが、朝鮮に駐屯する日本軍憲兵隊の司令官が警務総長を兼ね、各道に配置された憲兵隊の隊長が警務部長、将校が警視、下士官が警部を兼ねるという、憲兵と警察の一体化した治安機構であった。1911(明治44)年憲兵・警察機関は1613ヵ所、人員1万3756人であったが、その後さらに増強され、1919(大正8)年の三・一運動(朝鮮人による独立運動)当時には1826ヵ所、1万4518人に達した。この憲兵は普通警察事務のほかに、「日本語ノ普及」「殖林農事ノ改良」「副業ノ奨励」「法令ノ普及」「納税義務ノ諭示」等々、一般行政にわたる広範な権限を有していた。日本の朝鮮支配が憲兵政治といわれる所以である。

 「併合」にともなって設置された総督府の朝鮮統治は、この軍事的支配に基礎をおいていた。総督は武官に限られ、天皇に直隷して在朝鮮軍を使用する権限を持ち、「必要ニ応シテハ朝鮮駐屯ノ軍人軍属ヲ満洲北清露領沿海州ニ派遣スル」ことも認められていた。総督の下に政務総監がおかれ、その行政系統と警務総監を頂点とする警察系統が末端に至るまで並立していたが、あらゆる面で後者が優位にたち、政務総監に警察権はなかった。この点で台湾の民政長官が警察権を握り、民政から守備軍の干渉を排除していたのと著しく異なる。

 この憲兵政治の下で、朝鮮人民の言論・出版・集会・結社等の諸権利はことごとく奪われた。大韓協会、西北学会などの民族的団体は勿論、一進会さえも解散させられ、3人以上の集会はそれが社交上の目的であるにせよ憲兵警察の糾問監視を受けねばならなかったという。新聞・雑誌はあいついで発刊停止にあい、残されたのは官有の『京城日報』『毎日申報』、若干の日本語地方紙、雑誌『朝鮮』『朝鮮公論』のみであった。そのうえで、1911年、天皇制日本の「忠良ナル国民」となることを要求した「朝鮮教育令」が出され、いわゆる同化教育が強制されるとともに、「私立学校令」や「書堂規則」によって、朝鮮人の自主的教育活動は抑圧される。

 日本による朝鮮に対する独立国家収奪(植民地化)の凄まじさに心が痛むばかりです。

 『ミニ授業書』に戻ります。

〔問題10〕
 日露戦争のあと,
① 日本が最初に戦争したのは,どこの国とで,
② それは日露戦争から何年ぐらい後のことだと思いますか。また,その戦争のことを
③ 当時のひとは何と呼んでいたと思いますか。

予想①
 ア. 清国(中国)
 イ. ロシア(ソ連)
 ウ. アメリカ(米国)
 エ. その他(      )

予想②
 ア. 日露戦争から10年くらいあと。
 イ. 日露戦争から20年くらいあと。
 ウ.その他。

 どうしてそう思いますか。
 知っていることを出しあってから,次の話を読みましょう。


 (この問題に対する解説は次回で。)
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