2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(11)
明治以降の日本と戦争(6)
前回最後の〔問題9〕に関する解説を転載します。
『ミニ授業書』によって、日本による朝鮮植民地化の基本知識を学んでいながら、つくづくと自らの日本の近代史への無知ぶりを思い知らされています。そして私は常々、在日朝鮮人へのヘイトスピーチに限らず、そのようは行為を得意顔で行っている人たちの根源的な問題は事実誤認(無恥)であると思ってきました。なので、自分自身の無知も放置しておいてはいけないと思っています。 そこで、この問題(朝鮮の植民地化)について、もう少し詳しい学習をしておこうと思い立ちました。
さて、前回の〔植民地の獲得〕の項に書かれていたように、朝鮮の植民地化は1910年の朝鮮併合から始まります。この併合に至るまでに日本は朝鮮に対して「日韓協約」を強い、三回にわたって改定をしています。 その三つの日韓協約と併合に関する条約を『史料集』から転載します(出典は全て日本外交文書) 。
徐々に国家主権を奪いつつ併合に至っていることがよく分かりますね。少し詳しくたどってみます。
日露戦争に対して韓国政府は中立を宣言していましたが、日本は戦争開始の2週間後の2月23日に「日韓議定書」を強要して、朝鮮における軍事行動の自由を押しつけています。その後、軍事力を背景に第一次日韓協約~第三次日韓条約へと、韓国政府に対する管理・指導の強化をはかっていきました。第二次協約は保護条約と言われていますが、その所以は第一・二条で韓国の外交権を接収し、第三条で漢城に統監府を設置して一切の外交事務を統括することにした点にあります。
1907年6月、韓国皇帝高宗がハーグ平和会議に密使を送り「(保護条約) が日本の強圧による もので無効であることを訴えた事件」がありました。「ハーグ密使事件」と呼ばれています。これに対して政府は高宗を退位させ、7月24日第三次日韓協約を調印させました。この協約では、外交権だけではなく、さらに内政権をも全面的に掌握したことが分かります。統監は韓国政府内に配置した日本人次官・高級官僚を通じて行政権を、日本人判事・検事を通じて司法権(秘密協定)をにぎったのです。そしてさらに、7月31日には韓国軍隊を解散させています。
朝鮮民衆は日本の露骨な侵略政策に反対し、旧軍隊を中心に反日義兵闘争に立ち上がりました。1909年10月には民族主義者安重根がハルビンで前統監の伊藤博文を暗殺する事件も起きました。しかし、日本は予定通り1910年8月に韓国併合条約を強引に調印させました。第一・二条で韓国皇帝があたかも自由意志で日本皇帝に統治権を譲るという形にしていることが分かりますね。
(この項次回に続く。)
明治以降の日本と戦争(6)
日清・日露戦争と植民地問題
前回最後の〔問題9〕に関する解説を転載します。
〔在日朝鮮人の数〕
1910年現在,日本に移住していた朝鮮人の数は4000人ほどで,1920年には,4万人になっています。つまり,当時の〈日本人の朝鮮への移住者数35万人〉と比べると10分の1ほどで,ずっと少ないのです。 1923年に起きた関東大震災のときには,「東京近辺に住む朝鮮人が暴動を起こした」というデマが流れましたが,そのころ日本に住んだ朝鮮人の数はとても少なかったのです。
しかし,この数はその後急速に増えました。そして1930年には42万人に達し,1940年には120万人を突破しました。当時朝鮮に在住した日本人の数の70万人の1.7倍です。朝鮮が<日本人の移民先〉というよりも,日本が朝鮮人の移民先となっていたわけです。
現在,日本に在住している韓国・朝鮮人は67万人で1940年ころの約半分に減っています。
〔植民地の役割〕
植民地の役割には,〈大量の移民を送り出す〉ということのほかに,いくつか考えられます。その一つは,貿易上の有利な地位を確保することです。たとえば,日本からの輸出物だけは関税を安くする」とか,「日本にとって大切なものを輸入しやすくする」ということがあります。
日本が1876年に軍事的な圧力を加えて朝鮮と貿易をはじめたとき,日本の商船は,ヨーロッパから日本に輸入された繊維製品―とくに木綿製品を再輸出したことについては,すでに説明しました。ところが,その後日本にも近代的な機械産業が成長してきました。すると,その輸出産業界の人々にとって,植民地の獲得は魅力のあるものになりました。植民地なら,日本の製品を有利に輸出することができるからです。
当時は,ヨーロッパ諸国が産業の遅れた国々に対する支配力を少しでも強めて,自分たちの国の製品が少しでも有利に売れるように,またその地域の特産物が少しでも有利に買えるように,政治的・経済的に努力していたのです。そして,ときには自分たちの国の利益を守るために軍隊を動かすこともしていたのです。
じつは,日露戦争の4年前の1900年に,清国に排外主義の民衆の反乱が起きて,北京にある各国の公使館が包囲されたことがありました。そのとき,英・米・仏・露・独・伊・オーストリアに日本を加えた8ヵ国は,連合軍を組織して北京に攻め入ったこともあります。この事件を〈北清事変〉というのですが,ロシア軍はそのとき清国の満洲地方にとどまって,その地方を占領してしまったので,日本と対立して日露戦争に発展することになったのです。
日本はヨーロッパ諸国よりもずっと遅れて,産業を機械化しました。そこで,大量生産した製品が国内の需要を超えるようになると,その製品を輸出するところを確保するのが大変でした。そこで朝鮮や清国に少しでも有利な輸出市場を確保しようとして努力して,清国やロシアその他のヨーロッパ諸国とはげしぐ衝突するようになったのです。そして,日本は遅れただけに無理をするようになり,たび重なる戦争をするようになったというわけです。
『ミニ授業書』によって、日本による朝鮮植民地化の基本知識を学んでいながら、つくづくと自らの日本の近代史への無知ぶりを思い知らされています。そして私は常々、在日朝鮮人へのヘイトスピーチに限らず、そのようは行為を得意顔で行っている人たちの根源的な問題は事実誤認(無恥)であると思ってきました。なので、自分自身の無知も放置しておいてはいけないと思っています。 そこで、この問題(朝鮮の植民地化)について、もう少し詳しい学習をしておこうと思い立ちました。
さて、前回の〔植民地の獲得〕の項に書かれていたように、朝鮮の植民地化は1910年の朝鮮併合から始まります。この併合に至るまでに日本は朝鮮に対して「日韓協約」を強い、三回にわたって改定をしています。 その三つの日韓協約と併合に関する条約を『史料集』から転載します(出典は全て日本外交文書) 。
徐々に国家主権を奪いつつ併合に至っていることがよく分かりますね。少し詳しくたどってみます。
日露戦争に対して韓国政府は中立を宣言していましたが、日本は戦争開始の2週間後の2月23日に「日韓議定書」を強要して、朝鮮における軍事行動の自由を押しつけています。その後、軍事力を背景に第一次日韓協約~第三次日韓条約へと、韓国政府に対する管理・指導の強化をはかっていきました。第二次協約は保護条約と言われていますが、その所以は第一・二条で韓国の外交権を接収し、第三条で漢城に統監府を設置して一切の外交事務を統括することにした点にあります。
1907年6月、韓国皇帝高宗がハーグ平和会議に密使を送り「(保護条約) が日本の強圧による もので無効であることを訴えた事件」がありました。「ハーグ密使事件」と呼ばれています。これに対して政府は高宗を退位させ、7月24日第三次日韓協約を調印させました。この協約では、外交権だけではなく、さらに内政権をも全面的に掌握したことが分かります。統監は韓国政府内に配置した日本人次官・高級官僚を通じて行政権を、日本人判事・検事を通じて司法権(秘密協定)をにぎったのです。そしてさらに、7月31日には韓国軍隊を解散させています。
朝鮮民衆は日本の露骨な侵略政策に反対し、旧軍隊を中心に反日義兵闘争に立ち上がりました。1909年10月には民族主義者安重根がハルビンで前統監の伊藤博文を暗殺する事件も起きました。しかし、日本は予定通り1910年8月に韓国併合条約を強引に調印させました。第一・二条で韓国皇帝があたかも自由意志で日本皇帝に統治権を譲るという形にしていることが分かりますね。
(この項次回に続く。)
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