2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(10)

明治以降の日本と戦争(5)

第二の戦争[日露戦争](2)


 日露戦争の宣戦布告の勅語についての板倉さんの解説は次の通りです。

 さて,これもやっぱり難しい文章ですね。昔の人々はこんな文章も理解できたのでしょうか。
 そんなはずはありません。このころの国民の大部分は4年制の小学校を卒業していれば,もっとも学力があったほうなのですから。

 ここでは,「日本の安全と利益を守るためには,韓国や満洲を守る必要がある」という論理が前面に出ています。「韓国の存亡はじつに帝国〔日本帝国の〕安危〔安全と危険〕の繋る〔かかる=つなぐ〕所」だというのです。

 本文の方に戻ります。

〔問題6〕
 日露戦争のとき、主要な戦場となったのは、どの国の領土だったと思いますか。
 ア.日本の領土
 イ.ロシアの領土
 ウ.日本でもロシアでもない【   の領土】

 どうしてそう思いますか。
みんなの考えを出しあってから、次の話を読みましょう。


「問題6」についての解説は通りです。

〔日露戦争の戦場〕

 日露戦争のときも,日本の国土はまったく戦場となりませんでした。ロシアの本土のうち,ウラジオストック港や樺太は戦場になりました。しかし,もっとも主要な戦場となったのは,日本でもロシアでもない清国〔と韓国〕の領土でした。
 とくに激しい戦闘が行われたのは旅順です。その旅順は,ロシアが1898(明治31)年に清国から「租借」していましたが,もとはといえば清国の領土で,日清戦争のときも戦場となったところです。また,最後の大戦争が行われた奉天〔瀋陽一シェンヤン〕も清国の東北部の大都会で,日露戦争の始まる前の年にロシア軍が清国から奪っていたところでした。このように,大部分の戦闘は,清国の領土で行われたのです。

日露戦争の戦地

〔問題7〕
 日露戦争のとき,清国や韓国は,日本とロシアのどちらに味方したのでしょうか。

予想
 ア.日本に味方した。
 イ.ロシアに味方した。
 ウ.中立を保った。


 「問題7」の解説を転載します。


〔中立を宣言した清・韓両国〕

 日本とロシアが戦争をはじめる気配が見えたとき,韓国と清国は,早めに「中立宣言」をしていました。1904年2月4日,つまり日露戦争が始まる6日前の『大阪朝日新聞』の「天声人語」欄には,そのことをこう書いてあります〔一部の漢字はかなになおした〕。

 朝鮮の中立宣言は,じつに近来の滑稽だが,駐フランス朝鮮公使は,ヨーロッパの真中でなおこの滑稽を繰り返し,念入りにかたって曰く―
〈日露開戦の場合,朝鮮は厳正中立を守るつもりだから,断じて両国の会戦地たるを許さぬ。もしこれがため朝鮮の主権を侵害されるようなことがあらば,列国に愁訴〔=なげき訴える〕するつもりだ〉
と。滑稽もここに至ると少々気の毒になる。

 そこになると支那はさすがにエライ。形式上列国に対して〈厳正中立〉を宣言したことだ。〈日露開戦のあかつきにはとても中立などは云うべくして行われぬ〉ということはチャンと知っている。日本と一緒には元よりなれないが,自ら干戈〔かんか=武器〕を取って主権をまもるだけの用意は十分できているらしい。時宜(じぎ)によっては露兵を満洲から追い払うという計画もあるらしい

というのです。

 「中立」を宣言しても、〈自分でその中立を実現できなければ,それは滑稽なだけだ〉というわけです。この戦争のとき,日本軍は大軍を韓国に上陸させて,そこからロシアの大軍がいる清国東北部一満洲に向かったのでした。世界の国々が弱い者いじめをしていた当時は,中立を宣言しても,それを守ることは大変なことだったのです。

 こうして,日清戦争も日露戦争も,戦争国のいずれの国も主戦場とはならずに,第三国の領土が主戦場となりました。いまから考えると不思議な話とも言えます。どうしてそんなことになったのでしょうか。これは,どちらの戦争ともが,「植民地をめぐる争い」として起きたことを物語っています。

 この後、『ミニ授業書』は日本による朝鮮の植民地化という民族収奪犯罪の実態を取り上げています。

〔植民地の獲得〕

 日清戦争に勝利したとき,日本は清国から「台湾」を獲得して,植民地にしました。また,日露戦争に勝利したとき,日本はロシアから「樺太(サハリン)の南半分」を獲得し,「大連」の租借権を受け継ぎました。そしてさらに,1910年にはそれまで独立国だった「朝鮮一大韓帝国」をも植民地にしてしまうのです。

(補足)
 朝鮮王朝は,1897(明治30)年に,その国号を「大韓帝国」と変え,それまで「国王」と呼んでいたのを,「皇帝」と呼ぶことに変えました。日本の天皇が「大日本帝国」の「皇帝」として,朝鮮に圧力をかけたので,せめて国の名や支配者の肩書を立派にして日本と対抗しようとしたのです。しかし,その願いもむなしく,1910年には,その大韓帝国も日本に「併合」されて,完全に植民地化されてしまうのです。


〔植民地の役割〕

 「植民地」というのは,もともと「民を植える一移住させる土地」という意味の言葉です。それなら,このころ,領土を拡げ新しい植民地を獲得すると,どんなにいいことがあったのでしょうか。

 このころの日本は人口が急速に増えていたので,「新しい領土を獲得して日本の農民のための農地を確保する」ということが目標だったのでしょうか。

〔問題8〕
 日本が朝鮮を支配するようになって以後,とくに1910年に朝鮮を正式に「植民地」にして以後,たくさんの日本人が朝鮮に移り住むようになったでしょうか。
 1920年までに朝鮮に移住した日本人の数は,どのくらいだったと思いますか。
 〔参考〕1910年の日本の総人口は約5000万人で,毎年60~70万人の人口が増えていました。

予想――朝鮮に移住した日本人は,
 あ. 5OO万人以上一日本の総人口の10%以上。
 イ. 50~500万人一日本の総人口の1~10%。
 ウ. 5~50万人一日本の総人口の0.1~1%。
 エ. 5万人以下一日本の総人口の0.1%以下。

 予想を出しあってから,次の話を読みましょう。


〔朝鮮への日本人の移住人口〕

 1910年に朝鮮に住んでいた日本人は17万人でした。そして,その10年後の1920年に朝鮮に住んでいた日本人は35万人に増えています。当時の日本の総人口の1%弱の人が朝鮮に住んだのです。

 その後,朝鮮に移住した日本人の数は少しずつ増えていますが,1910年から30年後の1940年になっても70万人足らず――当時の日本の総人口7000万人の約1%ということになります。

 日清戦争の結果日本が獲得したもう一つの植民地ー台湾に移住した日本人は,1910年に10万人,1940年に35万人で,朝鮮に移住した日本人数の約半分です。このころは,日本からハワイやブラジルヘ移民する人もたくさんいましたが,1935年の統計によると,ブラジルに在住する日本人は19万人,ハワイが15万人,米国本国は11万人となっています。ハワイやブラジルに移民した人とくらべると,朝鮮や台湾に移住した日本人のほうが多かったわけです。

 ところで,〈日本から朝鮮に移住した日本人の数〉を問題にするのなら,反対に〈日本に移住した朝鮮人の数〉も問題になります。そういう人々の数は,どのくらいいたのでしょうか。日本から朝鮮に移住した人の数とくらべて,ずっと多かったのでしょうか。それとも少なかったのでしょうか。

〔問題9〕
 朝鮮が日本の植民地にされて10年後の1920(大正9)年の人口は1700万人となっています。その年の日本の総人口は5600万人ですから,日本の約30%ということになります。それでは,その1920年には,何人くらいの朝鮮人が日本に移住していたと思いますか。
 日本から朝鮮に移住した35万人の30%,10万人とくべて,ずっと多かったのでしょうか。それとも少なかったのでしょうか。

予想① 1920年の場合――
 ア. 35万人以上。
 イ. 10~35万人。
 ウ. 10万人以下。

予想② 1940年の場合――
 ア. 70万人以上。
 イ. 20~70万人。
 ウ. 20万人以下。

(解説は次回に)
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