2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
明治150年、何がめでたい(3)

明治時代に始まった「軍事主導」

 『対談 2』のテーマは「軍事主導」であり、司会者は次のように問いかけている。
 明治から、大正、昭和にいたる歴史の連続性をどう考えますか?

 今回は保阪さんの発言から始まっている。

保阪
 日露戦争の本当の部分が隠蔽(いんぺい)されてきました。昭和史を追いかけるとそこに行き着きます。明治を高く評価する人は、日本人には良質な精神があると言いたいのだと思うが疑問です。日本には選択肢がいくつもあった。皇后さまが言及した「五日市憲法」のように、日本各地で自主的な憲法案が80いくつもつくられた。しかし、選んだのは軍事主導体制で帝国主義的な道でした。

 司馬遼太郎さんが「坂の上の雲」で書いているのは、国家の利益に庶民がどう駆り出され、尽くしたのか、という物語です。明治100年の首相は佐藤栄作氏。安倍晋三首相の大叔父です。明治150年は安倍首相です。ともに山口県(長州)選出。今から100年後の歴史家には、150年たっても薩長政府が影響力を持っていたと書かれますよ。隠された史料や視点を拾い上げ、もう一度史実の検証をするべきだと思うんです。

薩長が権力闘争

半藤
 結局、明治政府ができてから西南戦争までの間は、天下を長州が取るか、薩摩が取るかという権力闘争でした。江戸幕府を倒したが、どういう国家をつくろうという設計図が全くなかった。薩摩も長州もね。

保阪
 日清戦争で国家予算の1.5倍の賠償を取り、軍人は戦争に勝って賠償を取るのに味をしめました。日露戦争でも南樺太など、いくつかの権益は得ました。第一次世界大戦でも。日中戦争初期の停戦工作が不調に終わったのも、要は政府が賠償金のつり上げをやったからです。

 薩長政府は日本を「軍事主導」体制の国へと作り替えていったが、それをより強化するためにその体制に天皇を引き込んでいった。司会者は対談のテーマをその問題へと振り向けた。
 明治政府は、国民統合のために天皇を持ち出しました。国家の基軸に天皇を置いて立憲君主国家をつくりました。

 保阪さんの言説が続く。

保阪
 明治150年を起承転結で考えると、一番分かりやすいのが、明治天皇が「起」、大正天皇が「承」、昭和天皇が「転」、今の天皇陛下が「結」。昭和を語るキーワードの「天皇」「戦争」「国民」は、みな二面性を持っています。天皇は戦前は神格化された存在で、戦後は象徴であり人間天皇。国民は臣民から市民、戦争は軍事から非軍事です。

皇統を守る手段

 あえて言えば、天皇というのはどの時代も皇統を守ることを目的としています。目的があれば手段があり、例えば今は宮中で祈る、国事行為を一生懸命するということですが、戦前は戦争も手段だったんですね。1941年4月から11月までの日米交渉の記録を読んでください。御前会議、大本営政府連絡会議、閣議、重臣会議などの記録を丹念に読むと、軍部は天皇に対して「戦争をやらなきゃだめだよ。この国はつぶれるよ。皇統は守れないよ」と強圧的に昭和天皇を脅していることに気付きますね。それで昭和天皇は「戦争しかないのか」と手段として戦争を選んだんです。3年8ヵ月の太平洋戦争の間をひと言で言えば「悔恨」でしょう。皇統を守る手段として昭和天皇は戦争を選んだ。今の天皇はこの苦しみを深く理解しているはずです。

 薩長政府が日本を「軍事主導」体制の国へと作り替えていったきっかけは日清戦争であったという保阪さんの発言に沿って、日清戦争当時の軍部の実態を調べることにした。『近代史…2』に「軍事・警察機構の確立」(執筆者 岩井忠熊)という章があるが、その中の最終節「日清戦争と軍部」と「むすび」の文を転載する。

3 日清戦争と軍部

 日清戦争じたいの経過と分析は本講座『近代3』にゆずり、ここでは日清戦争で軍部がいかなる役割りを果たし、その結果が軍部になにをのこしたのかを考えておきたい。まず開戦にさいしての陸軍の主導的役割りである。

 すでに陸軍は多数の将校を清国各地に派遣して情報の収集につとめ、また開戦前年の1893(明治26)年には参謀次長川上操六がみずから俊秀の幕僚4名をひきいて清国と朝鮮を約2ヵ月にわたって視察していた。兵制改革をなしとげた陸軍は、すでに大陸野戦に対する一定の成算をきずきあげていたといってよかろう。参謀本部が、清国の朝鮮出兵の報を得て、ソウル駐在公使の派兵不要論を押し切って日本陸軍の出兵をあくまで執拗に主張したのは、要するに開戦の時機をのがすまいとしたからにほかならない。陸軍は終始攻勢的であった。外務大臣睦奥宗光はこの陸軍の態度を外交的に承認し、うらづけることにつとめ、首相伊藤博文はそれを追認していった。

 しかし他面からいえば、軍部の戦争準備はお粗末な点があった。開戦に先だって閣議が出兵を決定するため、陸海軍の計画を聴取したさい、陸軍の上陸作戦は、海軍に輸送船団の護衛以上のことを期待していないことが判明した。そのさい山本海軍省官房主事は、海軍の任務は海上権の制覇が第一であることを主張し、当面、前進根拠地の獲得の必要を説いた。陸軍ははじめてその意見に服し、海陸軍協同策についての研究に入ったという。このエピソードは海上権の征覇というもっとも常識的な海軍戦略に対する理解すら、陸軍にも政府にも欠けていたことをしめす。兵制改革以来の努力は、いわば陸海軍それぞれのセクト的な努力であって、両軍の共同作戦の研究が平常からまったくおこなわれていなかったことを物語るものといわざるをえない。

 陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥の主として支配するところであったことはいうまでもない。この戦争は、やはり藩閥的な人事政策で遂行されている。開戦に先立って薩摩出身の川上参謀次長は、おなじ薩摩の大山陸相の使として西郷海軍大臣をたすねずね、中牟田軍令部長に内閣と陸軍首脳がみな不安をいだいているという理由で、樺山資紀中将を現役に復帰させて中牟田にかわらせることを提案した。西郷大臣は山本官房主事と相談して、陸軍の希望どおりに取りはからっている。西郷も樺山も山本もみな薩摩の出身であった。しかも樺山は陸軍少将から海軍に転じた人物で、海戦について何の経験ももたない軍政畑の人物である。この人物をわざわざ予備役から現役にもどして、きっすいの海軍軍人である佐賀出身の中牟田にかえたのであるから、これはまったくの藩閥的人事というほかはない。ついでにいえば西郷海軍大臣も陸軍卿から海軍に転じた、いわば海軍のしろうとである。それにしても大本営の御前会議に出席する海軍の軍政・軍令の責任者が、いわばしろうと同然の人物であったことは驚くほかない事実である。

 藩閥はまた軍の統制の上の障害でもあった。山県有朋は開戦時に枢密院議長の職にあったが、その職に在任のままの第一軍司令官に任命されて出征している。山県が功名にはやって出征を熱望したからだと伝えられている。その山県は大本営の訓令に反して海城攻撃を強行した。本来なら軍法にもとづいで責任を追及されるべき事件であるが、結局病気にかこつけて召還する天皇の恩命によって、山県は帰国し、間もなく陸軍大臣に就任している。長州藩の有力者、陸軍の実力者という立場でこの統制違反が看過されたといえるであろう。

 日清戦争にはまた文官である伊藤首相の大本営御前会議出席、そこでの「威海衛ヲ衝キ台湾ヲ略スベキ方略」の提案など、統帥への干与と思われる事実もあった。しかも伊藤のこの作戦案は採用され、実行された。伊藤は、陸軍の主張のとおり北京をつけば清国は無政府状態におちいり、列国の干渉をまねく結果になることを恐れて、この作戦を提案したのである。この伊藤の見通しはなかば適中し、威海衛攻略だけで三国干渉を受けるにいたった。するどい外交感覚をもった伊藤は、政戦両略を実際上で指導していたのである。

 日清戦争を検討すると、兵力や装備の総量では清国がまさっているにもかかわらず、個々の戦闘において動員した兵力や装備では、ほとんどの場合日本軍が清国軍よりも優勢になっていた。国家機構の立ちおくれと交通手段の未発達のため、清国軍は機動性でいちじるしくおとっていた。それにひきかえ日本は鉄道等の運輸交通手段が清国よりも発達しており、動員・輸送・兵力の集中が敏速であった。いわば国家と経済の相対的な近代化およびたくみな戦略によって日本は清国軍に勝つことができたといいうるであろう。

 む す び

 近代日本の進路はしだいに軍国主義化し、ついに日本国民および日本軍国主義に侵略された諸民族に絶大な苦悩をもたらすことになった。近代日本のそのような歴史の出発点は、明治維新における日本の軍隊の成立そのものの中にすでに胚胎されていたといいうる。それははじめから農民一揆に対する敵対者として出現したのである。その軍隊はしかも当時の国際情勢に対応するため、新式の軍事技術と徴兵制の採用をさけることができなかった。徴兵とは、当時、実質において農民兵のことにほかならぬ。日本の軍隊は反農民的でありながら、同時に農民に基盤をもとめるという矛盾をもって成立したのである。

 このような矛盾は、寄生地主制の発展と統治機構の形成、なかんずく地方自治と立憲政の採用によって、農村に新しい支配秩序ができるにしたがって変化し、緩和されていった。かつて一揆に立ち上がった農民も、合法的な兵役免脱闘争をおこなうようになり、また地方自治や政党運動にエネルギーを割くことになった。そのようないわば明治憲法体制は、農民をはじめ国民に徐々に国家意識をひろめ、天皇制への統合を実現していくのである。

 しかし統合されていく天皇制じたいは、大日本帝国憲法にみられるとおり、天皇の神聖不可侵と一切の大権の天皇への集中を特色とする、専制支配機構である。

 軍隊には、天皇の軍隊であることによって、そのような専制支配的な構造が貫徹される。そして天皇制の社会的基盤である地主の社会的性格をつよくおびていた。将校と兵士の関係は、新しく再編成された農村での、地主と小作の関係さながらであった。このころの日本の軍隊の編成原理は、地主・ブルジョア支配の下における階級的編成原理であるとさえ指摘されている。

 藩閥的特権階級に指導され、階級的編成原理でできている軍隊には、厳格な服従と紀律はあっても、自主的愛国心にもとづく兵士は出現しない。彼らは自分の国のためにたたかうという意識をもつことができないまま、天皇への忠誠が強要されていった。日本の軍隊は、このような問題をはらんだまま、日清戦争の勝利によって、帝国主義的軍隊へと発展していくのである。

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