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明治150年、何がめでたい(2)

日露戦争をめぐるフェイクニュース

 『対談 1』のテーマは日露戦争で、前回はこの問題についての半藤さん・保阪さんの基本的な認識を確認したが、対談の本文でその詳細を追ってみよう。

まず、対談の司会者が次のように問いかけている。
 「明るい明治、暗い昭和」という歴史観を持つ人が多い気がします。日露戦争を描いた司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の影響もあるようです。生前の司馬さんと交流があった半藤さんはどう捉えていますか?

半藤さんは「坂の上の雲」が描く明治が「明るい明治」となっている理由を次のように解説している。

 日露戦争後、陸軍も海軍も正しい戦史をつくりました。しかし、公表したのは、日本人がいかに一生懸命戦ったか、世界の強国である帝政ロシアをいかに倒したか、という「物語」「神話」としての戦史でした。海軍大学校、陸軍大学校の生徒にすら、本当のことを教えていなかったんです。

 海軍の正しい戦史は全百冊。三部つくられ、二部は海軍に残し、一部が皇室に献上されました。海軍はその二部を太平洋戦争の敗戦時に焼却しちゃったんですね。司馬さんが「坂の上の雲」を書いた当時は、物語の海戦史しかなく、司馬さんはそれを資料として使うしかなかった。
 半藤さんは書き残された正史を読む機会を得て、正史は小説とは全く違うと、次のように述べている。

 ところが、昭和天皇が亡くなる直前、皇室に献上されていた正しい戦史は国民に見てもらった方がいいと、宮内庁から防衛庁(現防衛省)に下賜されたんです。私はすぐ飛んでいって見せてもらいました。全然違うことが書いてある。日本海海戦で東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を迎え撃つときに右手を挙げたとか、微動だにしなかったとか、秋山真之の作戦通りにバルチック艦隊が来たというのは大うそでした。あやうく大失敗するところだった。

 陸軍も同じです。二百三高地の作戦がいかにひどかったかを隠し、乃木希典と参謀長を持ち上げるために白兵戦と突撃戦法でついに落とした、という美化した記録を残しました。日露戦争は国民を徴兵し、重税を課し、これ以上戦えないという厳しい状況下で、米国のルーズベルト大統領の仲介で、なんとか講和に結び付けたのが実情でした。

 それなのに「大勝利」「大勝利」と大宣伝してしまった。日露戦争後、軍人や官僚は論功行賞で勲章や爵位をもらいました。陸軍62人、海軍38人、官僚30数人です。こんな論功行賞をやっておきながら国民には真実を伝えず、リアリズムに欠ける国家にしてしまったんですね。

 半藤さんの発言を受けて、
保阪さんは「明治のうその戦史」が後世に与えた悪影響を語っている。

 昭和50年代に日米開戦時の首相だった東条英機のことを調べました。昭和天皇の側近だった木戸幸一がまだ生きていて、取材を申し込みました。なぜ、東条や陸海軍の軍事指導者はあんなに戦争を一生懸命やったのか、と書面で質問しました。その答えの中に「彼らは華族になりたかった」とありました。満州事変の際の関東軍司令官の本庄繁は男爵になっています。東条たちは、あの戦争に勝つことで爵位が欲しかった。それが木戸の見方でした。

 当たっているなあと思いますね。何万、何十万人が死のうが、天皇の名でやるので自分は逃げられる。明治のうその戦史から始まったいいかげんな軍事システムは、昭和の時代に拡大解釈され肥大化したのです。

 では、日露戦争の戦局は本当はどのようだったのか。その真相を調べてみよう。日露戦争開戦に至るまでの経緯やその終結に向けての動きについては、出来るだけ最小限に止めて、ここでは問題を戦局の真相に絞ることにする。以下は『近代史 4』の第1章「日露戦争」による。

 日清戦争後の朝鮮問題・満州問題を巡る日露交渉が決裂したのは1904(明治37)年1月であった。この時から日露の軍事面での大きな動きが始まった。

 1904年1月はじめのロシアの第三次回答は、内容的に今までのものと変化がなく、日本は外交交渉による妥協を断念した。その間、ロシアの満州地域への軍事力増強が急ピッチで進行しているとの情報が伝えられ、1月30日元老・政府首脳会議でついに開戦を決意した。これ以後、陸海軍は具体的な作戦行動について協議を進めていたが、2月3日本政府は旅順港内にあったロシア艦隊がほとんど出港したとの電報をうけとり、海軍の先制攻撃による制海権掌握の作戦計画が破綻したものとして焦慮した。翌4日直ちに元老と政府首脳による御前会議が開かれ、国交断絶を決め、以後陸海軍が自由行動をとることを承認した。

 6日佐世保を出港した連合艦隊主力は、8日旅順港外でロシア艦隊を捕捉して攻撃を開始し、他方仁川に向った一部艦隊も同日陸軍の先遣部隊の上陸を支援し、ここに日露戦争は勃発した。かくして海軍が予定通り朝鮮海峡から黄海にかけての制海権を握ったため、陸軍部隊の上陸作戦は順調に進み、第一軍は朝鮮から満州に入り、第二軍は遼東半島の塩大澳に直接上陸し、さらに第二軍の一部をもって第三軍を編成しこれを旅順の攻略に当てた。

 これ以後満州において陸軍部隊が体験した戦闘では、塹壕や鉄条網などによって堅固に構築されたロシア軍の防衛線に山砲による攻撃は大して効果がなく、榴弾砲を主体とする本格的な砲撃戦となり、そのため砲弾の補給が間に合わず、結局日本軍は肉弾戦に依存したため多数の死傷者を続出させることになった。こうした戦闘展開は、日露戦争中の陸戦を通じ一般的な形態であり、日本軍の死傷者の累増と弾薬の消耗は予想を遙かに超えた。

(中略)

 つぎに日露戦争の全期間を通じての軍事上の問題としては陸海軍の協同をいかに維持するかということがあった。海軍側には、日露戦争の帰趨は海戦によって決するという考えがあり、
「満韓ノ野ニ我大兵ヲ出シ露兵ヲ満州ヨリ駆逐セムトスルハ難シ、只ダ我海軍ヲ以テ彼ガ海軍ヲ破レバ戦争ハ終結ヲ見ルニ至ラム」
との認識がその根底にあった。従って陸海軍の協同行動にあっては、海軍側の作戦計画を優先させたため、たとえば第二軍の糧秣(りょうまつ 兵糧と軍馬の食料)供給のための輸送船護送の要請などについては海軍軍令部は連合艦隊に
「国家ノ運命ヲ決スルハ我海軍ノ勝ヲ全フスルに如何ニ在リテ軍ノ前進多少遅滞スルカ如キハ共ニ比スルニ足ラス」
とし、
「此際之カ為メニ強テ海軍ノー部ヲ割クカ如キハ大局ニ害アルモノト認ム」
と指示するのであった。

 こうした海軍側の態度は、陸軍の作戦行動をかなり制約することになった。とくに三回に及ぶ旅順港閉塞作戦が失敗したため連合艦隊は、港内のロシア艦隊を封鎖するため港外に釘付けにされる事態となり、陸軍部隊や兵站(へいたん 食糧などの必需品を運ぶ部門)輸送のための協同作戦は大きく制限された。たとえば陸軍が緒戦の作戦計画として策定していた朝鮮の日本海側に第八師団を上陸させ、朝鮮北部からウスリー方面にかけて展開しようとしていた作戦行動は海軍側の非協力のため実行できなかった。旅順港封鎖が長期化するにつれて海軍側は焦慮し、バルチック艦隊の東航に備える必要があるとしてすでに1904年の7月下旬には第三軍による旅順攻略作戦の早期開始を陸軍側に要請している。これに対して満州軍総司令部は、旅順の要塞は
「長日月ヲ費シテ構築シタル要塞ナルヲ以テ其攻撃ノ為メニハ十分ナル銃砲火ノ威力ヲ発揚スル如ク準備スルニアラサレハ之ヲ攻略スルコト能ハサルコト」
を強調し、早期攻略は困難であると回答している。これ以後、海軍と陸軍、さらに大本営と現地軍との間で何度か旅順攻略問題をめぐって要請と回答がくり返され、海軍側の強い要求を前に乃木希典指揮下の第三軍は強引な攻略法によって約六万人の死傷者を出すという予想を越える犠牲が払われたのである。

 この日露戦争では日清戦争の体験から補給・兵站業務は格段に整備・改善され、とくに緒戦ではロシア側に比して日本側の補給線が短いため、軍隊と兵器を短期間で戦線に集中するには有利であった。ところが戦場が北方へ移勤し、大部隊を集結しての大会戦になると兵站業務に日数を要することになり、一方ロシア軍は時間の経過とともに兵力の増強が着々と進行するに至った。たとえば、1904年8月下旬からの遼陽会戦では日本軍の兵站業務が遅延し、また部内の作戦方針が決定しないこともあって、軍事行動の開始が遅れることになり、よく準備された優勢なロシア軍と対戦しなければならなくなった。一週間の激闘の未、日本軍はロシア軍を後退させたが、日本軍の死傷者は激増し、兵力不足と砲弾の欠乏、それに加えて将兵の疲労が重なり、今までの戦闘のような「光輝アル戦勝ナカリシ事」が現実のものとなった。総司令部参謀田中義一は、それ以後の作戦への見通しについて、ロシア側が
「此際敵若シ大優勢ノ兵力ヲ使用セバ、仮令ヒ我兵勇敢ナリト雖ドモ、兵力ノ弱勢且ツ軍隊ノ未整頓ハ或ハ折角得タル主作戦ノ勝利ヲ水泡二帰セシムルコトナキカ」
との危惧を吐露し、内地残留の唯一の常備軍である第八師団の派遣を要請している。

 これ以後の各戦闘における実態は、いずれも兵力量では日本軍が劣勢におかれ、激烈な砲撃戦と突撃戦法のため将兵の損耗は激しく、1905年3月の奉天会戦を境に日本軍がそれ以上陸上戦闘を継続することは極めて困難な状況にあったといえよう。その現状について会戦後に参謀総長山県有朋が政府首脳に提出した『政戦両略概論』の中で次のように指摘している。
「第一、敵は其の本国に尚ほ強大なる兵力を有するに反し、我れは已に有らん限りの兵力を用ゐ尽し居るなり、第二、敵は未だ将校に欠乏を告けさるに反し、我は開戦以来已に多数の将校を欠損し、今後容易に之を補充する能はさるなり」
と。大本営にあっても現地軍にあっても、すでにわが国の軍事力が限界に達しているという点では陸軍首脳の認識は一致していた。

 以上のように、公表され広く流布された「物語」「神話」としての戦史がいかに事実と懸け離れたとんでもないフェイクニュースだったことがハッキリとした。
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2018/03/03(土) 14:36 | URL | さくら #-[ 編集]
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