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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(55)

戦後史概観

 前回に取り上げたサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の発効は戦後史を考えるときの大きな区分点の一つである。日本は講和条約により形式的には主権が回復され独立国家となったが、同時に発効した安全保障条約は本質的には未だアメリカの属国であることを示している。私はこの属国状況は現在まで続いていると認識している。言い換えれば、未だに戦後処理は終わっていないのだ。『岩波講座日本歴史22 現代1』の「序説」を参考に戦後史を振り返ってみよう。

 「序説」では戦後史を次のように三つの時期に区分している。

第一期 占領期(1945年~1952年)
 1945年8月15日の敗戦の日から1952年4月28日のサンフランシスコ対日平和条約、日米安全保障条約の発効までの7年間。

第二期 日米安保体制期(1952年~1960年)
 上の両条約発効のから1960年6月23日の改訂安保条約発効までの日米安保体制の時期。

第三期 新安保体制期(1960年~)
1960年6月の改訂安保条約発効以後の新安保体制期であり、現在もなおこの第三期が続いている。

 では、各時期の特徴を概観してみよう。

第一期

 この期間は、これまで観てきた通り、実質的にはアメリカ単独の占領下に置かれ、完全にアメリカ帝国主義に従属し国家主権を失っていたが、GHQの指令の下に民主改革が進められた時期である。

 しかし、この改革の進展の過程で、50年6月の朝鮮戦争の開始を契機にアメリカの占領政策が転換された。アメリカの占領政策の変化を考慮すれば、第一期は第3次吉田内閣がGHQ指令の「経済安定9原則」の実行を宣言した49年2月を画期として、前後の時期に区分できる。前半は改革が進行した時期であり、後半は、独占資本の再建・労働者への弾圧・再軍備への道等々、いわゆる逆コースが進んだ時期である。

第二期

 第二期もアメリカ軍の日本駐留がつづき、半独立の状態であった。しかし、そのなかで国際的な平和運動の発展をうけて、国内でも平和と民主主義をめざす国内の民衆運動が次第にたかまっていった時期である。この時期も1954年12月の第5次吉田内閣の崩壊、あるいは翌55年11月の保守合同の成立で前後の時期に区分できる。

 前半は占領時代の継続という面が強く、対米従属を基礎とした反動支配が続いているが、このような吉田政権にたいして基地反対や再軍備反対、さらに54年の第5福竜丸被災事件以後は原水爆禁止の平和運動がたかまり、さらに日中、日ソの国交回復を求める運動も展開された。このような民衆の運動が占領期を象徴する吉田政権の動揺と崩壊を齎した大きな一因であった。

 また、この時期の後半は、ジュネーブ会議以後の世界の変化をうけて、国内でも国際協調への路線が広がりを見せた。吉田に続く鳩山内閣は、日ソ国交回復を実現し、国連加入の道を開き、戦後はじめて日本は国際社会に復帰した。そして、貿易の伸長、技術革新を軸として日本経済は、急速な発展をとげ、神武景気、岩戸景気と、第一期の高度成長を謳歌した。

 一方政治面では、革新勢力の成長に対抗するために保守合同によって成立した自由民主党が、成長する独占資本の代理人として、保守独裁体制を確立したのである。

日本が国際社会への復帰をなしえた大きな要因の一つであった日ソ共同宣言(前文と10項よりなる)を取り上げておこう。
 この宣言は1956年10月19日にモスクワで調印された。日本の全権は鳩山一郎首相である。一・二・四・六・九(他は概略を記載)を『史料集』から転載する。

日ソ共同宣言 一、
 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の戦争状態は、この宣言が効力を生ずる日に終了し、両国の間に平和及び友好善隣関係が回復される。
二、
 日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間に外交及び領事関係が回復される。……
三、(国連憲章の原則的承認)
四、
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、国際連合への加入に関する日本国の申請を支持するものとする。
五、(戦犯釈放)
六、
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。……
七、(通商条約締結交渉)
八、(漁業条約締結)
九、
 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえ、かつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。
十、(批准条項)

 補足すると、この宣言では平和条約締結時に歯舞群島・色丹島の返還が約束されたが、南千島は日本の固有領土であるとする日本の主張とポッダム宣言とヤルタ協定とで解決ずみとするソ連との歩みよりはみられず、平和条約締結には至らなかった。これらの領土問題は未解決である。

第三期

 日本経済の発展に伴って、日本の経済力と軍事力が極東においてアメリカの役割を一定程度代位するまでに成長し、日米軍事同盟が新たな段階に入った時期である。

代位  日本の独占資本はアメリカにたいする相対的な自立性を得るに至ったが、なおアメリカと密接に結びつくことによってのみその地位と利益は保障されており、軍事面では日本は依然アメリカに完全に従属している。

 第二期と第三期を区分している改定安保条約(前文と10条よりなる) が「軍事面では日本は依然アメリカに完全に従属」していることを示している。その条約は1960年1月19日にワシントンで調印され、6月23日に発効した。日本の全権は岸信介首相。これも『史料集』から三・五・六・十条を転載しよう。

新日米安全保障条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)

第三条
 締約国は、個別的に及び相互に協力して、継続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる。
第四条
 締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときは、いつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議する。
第五条
 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
第六条
 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
第十条
 ……もっとも、この条約が10年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後1年で終了する。

 第三条で日本の防衛能力を認め、これによって第五条の共同防衛義務が明確にされた。また、第四条の協議制、第六条に基づく米軍の「地位協定」などは、「旧条約の不利を改定した」とされているようだが、とんでもない、逆に日本は軍事力増強(第三条)と日米共同作戦行動(第五条)が義務づけられ、第六条の「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」という名目でアメリカの戦争にまき込まれる危険性をもつなど、日本国憲法の掲げた平和主義に反する条項である。

 当然ながら、この改定に反対する声も強く、市民団体・労働組合や野党勢力を中心に大規模な安保改定反対運動が繰り広げられた。60年安保闘争である。

 なお、第十条で条約期間は10年とされているが、1970年に自動延長された。
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