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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(49)

降伏文書調印式(1)

 日本は8月14日にポツダム宣言を受託して無条件降伏を受け入れたが、これで日本の降伏が決定したわけではない。連合国との間で降伏文書調印を行って初めて正式に日本の無条件降伏が決定する。つまり、「昭和の15年戦争」はそこで 終わる。この調印は9月2日、東京湾に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリ号上で行われた。

 ポツダム宣言受託から降伏文書調印式迄の間、降伏に反対する人たちの騒動が数多くあったようだ。また、日本政府では、特に誰を調印式の日本代表するかという問題で、相変わらずのごたごたが続いていた。最終的には当時東久邇宮内閣の外相を務めていた重光葵(まもる)に決まった。重光は『重光葵手記』(伊藤隆、渡辺行男編 昭和60年11月20日発行 中央公論社)を書き残しているが、その手記の中の降伏文書調印式に関する記録が『探索 6』に掲載されている。これを読んで、重光という方はすばらしい人であり、調印式の日本代表の人選は最善だったのではないかと思った。

 さて、この重光手記を2回に分けて転載して,カテゴリ『昭和の15年戦争史』を締めくくることにしよう。(なお、文中の〔〕内の文言は編者による注のようだ。もう一つ、この文書の書き手として、一人称を用いないで、自分のことを「記者」と表している。)

帝国ホテルの暁夢

 戦争断末魔の空襲は連日連夜に亘って、記者は最早東京に用事がないので、熱海に避難、大観荘に留まった。十五日の玉音放送は熱海に於て服装を正して謹んで聴取したのであった。其の後の激変を大観荘に於て暫く静観して居た。

 然るに、鈴木内閣は総辞職して、遂に皇族内閣が出現して、東久適宮〔稔彦王〕殿下に大命が降った。木戸内府が予而(かねて)云って居た様に、終戦の時に軍部を押える為めに最後の伝家の宝刀が出されたのである。即ち新内閣の使命は終戦と云う難事を、直接天皇陛下の代理として立派にやる事にあるのである。東久邇殿下は赤坂離宮を組閣本部として、近衛公の補佐に依りて組閣を進められた。組閣本部を訪れた人々の名前が次ぎから次ぎに報ぜられた。有田八郎〔元外務大臣〕君の名前も出たが、入閣を辞したとの事であった。一六日に至って記者に出京を促して来た。一七日に組閣本部に至って宮殿下や近衛公及緒方〔竹虎・情報局総裁〕氏に会見して、組閣の趣旨を聴取した記者は、対外関係はこの際は占領軍との接触を主とする事となる訳であるが、此点は特に注意して総て交渉は一途に外務当局の手を通して統制して行うこととせねば思わざる不結果を招く事と思うから、特に此点を注意する必要のあることを力説して念を押して、入閣することを承諾した。新内閣は直に成立し、即日宮城宮内省の建物内で親任式が挙行されて、終戦の仕事に取りかかった。その際は近衛兵の叛乱は已に鎮定されたが、二重橋前の終戦反対者の割腹騒ぎや、代々木原頭の暁明の抗議自殺や、愛宕山の国粋派の立て籠り騒動も続いて居り、厚木の海軍特攻隊本部からは毎日飛行機が命令に反して東京上空に飛来して、宮城上や総理官邸を中心とする官庁街の上から戦争継続、挙国玉砕の宣伝ビラを散布して居た。形勢は容易ならぬものがあった。最も懸念された事は海外にある軍隊の動向であった。終戦に関する天皇の命令は遺漏なく全将兵に伝達された。陛下は更に四宮殿下を満州軍其の他各部隊に派遣されて命令の徹底を期せられた。

 内閣は準備を急いだ。

 マッカーサー元帥が聯合軍の総司令官として敵側の陸海空軍を統轄して終戦の処理をすることが発表され、降伏準備の為めに日本側から予備委員を打ち合せの目的を以てマニラに特派すべき旨、マニラに於けるマッカーサー司令部より通告を受けた。此通告は前内閣の受取った処であるが、前内閣は其使命に付て反問する所があった。敵は之を以て日本の国情を反映する遷延策であるとなし、マッカーサー司令官は「遷延を許さず」との趣旨を回答して来たので、我方は軍使として陸軍参謀次長河辺寅〔虎〕四郎中将を派遣することにした。記者は外務省情報部長〔調査局長〕岡崎勝男氏(湯川〔盛夫〕事務官帯同)を同行せしむることとした。海軍からも代表委員が加った。一行は一九日飛行機でいえ島〔沖縄県伊江島〕を経てマニラに飛んだ。先方の要求書を受領し、準備を打ち合せて帰路についた。途中天竜川口に不時着したりしたが、二十一日午前八時無事東京に帰着した。使節の待遇は総て公正であった。

 軍使の持ち返(ママ)りたる文書は、
 天皇の布告文
 降伏文書
 一般命令指令第一号
の三つであった。而して降伏文書の調印は八月三十一日を予定して居るとの事であった。
 天皇の布告文とは云う迄もなく終戦と同時に発布すべき詔書の事である。その内容を指示して来たのである。  降伏文書とは日本の代表者が正式に調印を要する文書で、其の調印によってポツダム宣言を受諾して日本が敵国に降伏することを意味するものである。一般命令第一号の内容は軍隊の無条件降伏及武装解除の即時着手から日本が使用した戦争手段の一切の休止を命ずるものであって、苟も軍需品の製作に関係した工場の活動停止をも之に含まって居る。

 内閣は直に其の処理に着手したが、尚此際に於ても従来の惰性に依って日本「降伏」の意義に付ての感得に付て人々に厚薄があった。記者は此際は完全に対抗意識を捨て去り、完全に無条件に先方の指示を受け入れ、「降伏」の実を示すことが、日本を将来に向って生かす所以であると同時に、即ち敗戦を完全に認識することを総ての前提条件とするの方針に出づると同時に、国家としても個人としても敗者は敗者としての気品を維持し、徒らに責任を回避して敵の憐憫を請い、卑屈の態度に出づることは絶対に防がねばならぬ、要するに日本人は飽く迄日本人としての気魄を堅持せねばならぬ、之が結局敵の尊敬と信頼とを得る訳である、と云う趣旨であった。

 閣議は軍使の持ち帰った三つの文書を無条件に引(ママ)け入れることを承認して、直にその準備に取りかかった。

 閣議では、降伏文書と云う、降伏と云う文字は如何にも屈辱であるから何とか別の文字を用いる事は出来ないものかと云い出した軍人出身の閣僚もあった。降伏と云う文字を避ける為めに軍部の係り官は外務省当局に大分厳談したのであったが、外務省当局は不愉快な文字には相違ないがsurrenderと云う英語は変える訳には行かぬ、サレンダーは日本語では飽く迄「降伏」であり、単なる「終戦」ではない。降伏は事実であり、事実を事実として承諾することから出発して初めて終戦後の日本の生きる途があると云って軍部の要請に応ぜなかった儘、之が閣議に出たのであった。無論日本は降伏したのである。夫れは三千年の歴史に於て初めて行われた極めて恥すべき不祥事が起ったのである。日本人は此事実を直感して、之に相当する責任を感じ、自省を行い、忍従に耐え苦痛を忍び、努力を倍加せねばならぬのである。此未曾有の国難に際会して、少しでも大なる犠牲を払うことを誇とする人程日本人として価値ある人であるのである。「降伏」文書は「降伏」文書で差支ないのである。其の徹底した認識の上に将来の日本人は生き得る。

 閣議は連日開催せられ、降伏文書を受け入れる手続きを完了する為めに、枢密院会議の開催が必要であり、又議会の召集も必要であった。之等の国内手続を完了する為めには宮様を総理とすることは非常に便宜であった。

 降伏文書に何人が調印するかは最も重要な事柄であった。先方は天皇及政府を代表するものと統帥部を代表するものとの調印を求めて居るが、其の員数は指定して来て居ない。

 降伏文書調印に何人が当るかを決するには、当時可なりの困難があった。ポツダム宣言を日本が受諾して、之を完全に履行すると云う誠意を披瀝する為めには、其の調印者は責任の最高の地位にあるものより之を選ばねばならぬのは条理であるが、当時の空気では日本開闢以来の不名誉なる文書に氏名を乗することは、政治家としては其終焉を意味し、軍人としては自殺を強いられるものと思われた。

 記者は外務大臣として非常に苦心した。木戸内府は政府よりは外務大臣、統帥部よりは両総長の内一人が適当であるとの意向を記者に漏らして居た。

 梅津参謀総長は記者に対し、終戦に至る迄の彼れの立場を詳細に述べて、自分は降伏に反対し玉砕を主張したものであるから、降伏文書の調印者としては不適当である、寧ろ此際は降伏に賛成した前閣員、鈴木海軍大将又は東郷前外相をして之に当らしめる事が至当である、軍人としては米内海相が最も適任である、自分は已に辞職を決したるも参謀総長は陛下の幕僚長であって辞職も内閣大臣の如く自由ならずして今日に及んだ、若し強いて自分に行けと云うならば、そは御前は自殺すべしと云うと同様の事なり、と苦衷を述べて、記者の人選に当らざらんことを懇望した。此問題では数回に亘って近衛公と協議した。記者は再三近衛公の出馬を要望し、之迄日本の指導に密接の関係を有する近衛公の挺身は敵に対してのみならず、国内に対しても、最も好評を博すべし、不肖記者は及ばず乍ら責任を頒つ為めに御伴致すべし、と切言したが、近衛公は総理宮が総理として又軍人として最も適当であるとして、記者の推挙を排除して、殿下に相談をすると云って隣室である総理室に入った。暫くして近衛公は坐に帰り、記者に対して、殿下は勅裁に依って決した終戦の代表としては高松宮〔宣仁親王〕を煩わすのが最も適当である、後刻内奏の際陛下の御許しを得ることにしようとの事であったと報告した。然し降伏文書調印の仕事は素より政府の仕事であって、皇室を煩わすべき事ではなかった。

 八月二十七日閣議に於て、総理宮は降伏文書署名使節として、陛下の御思召しによって、天皇及政府の名に於て重光外相、大本営の名に於て梅津大将を指名された。

 調印日取りは八月三十一日から九月二日に延期することにマッカーサー司令部より通達があった。二百十日も近付いて天気模様が悪く、準備が出来ぬ為めであるとの事であった。二百十日は九月一日である。

 記者は渾身の意気と忠誠とを以て降伏文書調印の大任に当らんことを翼い、八月二十八日夜行で伊勢大廟を拝すべく西下した。伊勢大神宮の参拝は日本人の宗教上の儀式であり、日本精神の問題である。

 翌朝山田に着いたが、山田市は既に其の三分の二は跡かたもなく焼失して居た。沿道皆荒廃。破壊、焼失を免れたもの少し。東京、川崎、横浜、平塚、沼津、豊橋、静岡、名古屋、津、四日市等見る影もなし。日本全国の大中都市は全部潰滅したのである。それを知らずして打った電報を持って、戸田屋の主人は古市の大安に連絡を取って置いて呉れた。此所で斎戒沫浴して外宮より内宮へと参拝した。已知の皇宮警視に其の後の様子を説明されつつ参入した。日本歴史始まって以来の出来事である降伏文書の調印を前にして心を籠めて祈願した。感慨頗る深し。何処もここも緊張して居た。

 我国を造りましたる大神に 心をこめて我は祈りぬ

 古市の大安を出でて再び夜行にて帰京の途につく。三十日朝車窓より相模湾頭無数の敵艦船の居列ぶを見る。敵機は既に京浜上空を蹂躙、示威しつつあるを目撃した。八月三十日朝は已に東京に帰って居た。

 最高戦争指導会議は終戦処理会議と改名して、終戦処理に付て政府及統帥部連絡の最高会議となって、閣議と共に殆んど連日開会された。出席者は総理宮及近衛副総理の外、安〔阿〕南陸相〔当時下村定〕、米内海相、緒方翰長〔内閣書記官長〕国相、梅津、豊田の陸海両総長及外務大臣としての記者の八名であった。東久邇宮総理の宮はさすがに宮殿下として裁決流るるが如く、終戦事務を適当に処理して行かれた。

 九月一日御召しによって宮中に参内、拝謁。左の如き勅語を賜わった。

 重光は明日大任を帯びて終戦文書に調印する次第で、其の苦衷は察するに余りあるが、調印の善後の処理は更に重要なものがあるから、充分自重せよ。
 世流に押されて早まった思いつめた事のない様にとの優渥なる御諭しであったのである。恐らく梅津参謀総長の「自分に自殺を強いるものである」と云う語〔言〕葉が何時の間にか陛下の御耳に入ったものの様である。記者が退出した後に、梅津大将も召されて同様な勅語を賜わった模様である。天恩無際、至れり尽せりである。

 記者は愈々敵側総司令官の示した降伏文書に調印すると云う日本歴史始まって以来の使命を果たさねばならぬこととなった。政府のみならず直接天皇を代表する訳であるから、記者は其の使命に付て篤と陛下の御思召を拝し、事態の重大なるを明確にして、将来如何なることが起っても之に善処し得る様にして置かねばならぬと考え、先ず左の通り意見を口頭を以て内奏した。其の案文は左の通りである。

 「其の案文」は次回に。
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