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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(48)

1945年(17)~(20)

 1945年2月から7月までの経過あらましをまとめてみよう。

 「戦争終結策を至急に講ずる要あり」という近衛文麿の進言に対して、自己保身を優先した天皇ヒロヒトは「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と返答していた。1945年2月のことである。

 その後、東京大空襲(3月10日)をかわきりに沢山の都市で多く国民が死亡し、都市が焦土と化していった。そして太平洋の各地で日本軍の敗北が続き、多くの兵士が戦死した。にもかかわらず、日本政府は連合国が与えてくれた終戦の恰好の機会であったポツダム宣言(7月26日)を無視した。

 こうした結果がアメリカの残忍な原爆投下を引き寄せてしまった。今回はその原爆投下から。

(17)8月6日
広島に原爆投下さる


「なんの良心の呵責を感じない」

1954年8月刊の『アサヒグラフ』から。

 あの日、1945年8月6日、エノラ・ゲイ号に搭乗、広島へ原爆を落とした戦士たちは、9年後のこのころにどう語っていたか。
 機長ティペッツ大佐は、
「原爆投下になんの罪悪感ももっていない」
といい、
「あれよりも千倍も恐ろしい水爆を落とす必要に迫られたとしても、なんの良心の呵責を感しないだろう」
といいきって平然としている。
 ベーサー中尉は何万人もの人びとを一挙に殺したことにたいして、
「まったく気にしていない。今でも任務でやったという感じしかもっていない」
と答えた。
 ドウゼンべリー軍曹も、
「後悔の気持ちはまったくもっていない。私はこれからでも同じことをやってのけられる」
とぬけぬけという。
 ガロン軍曹は
「戦争に人情などありはしない」
といい、
 ネルソン上等兵は
「道徳上の問題はわれわれの念頭に少しもなかった」と。

 そして50年後1995年にも、ティベッツ元機長は同じ言を吐いた。これらにたいしては、いうべき言葉もない。

 前回、「戦争にのめり込んだ人間が冷酷無殘になる」と書いたが、そうした人たちの劣化した精神的背景として私は「凡庸な悪」という言葉を思い浮かべていた。「凡庸な悪」とはハンナ・アーレントがナチスのアドルフ・アイヒマンへの評語として使った言葉である。私が「凡庸な悪」という語を用いた記事がかなりあるが、ずばりそれをテーマにした記事を紹介しておく。
『「凡庸な悪」について』

(18)8月9日
長崎に原爆第二弾投下さる


「いまだ、目視攻撃だ」

 1945年8月8日、テニアン島では極秘野戦命令第17号が発令された。原爆第2弾の投下命令である。主目標は小倉、第2目標が長崎。はじめの予定は11日が攻撃日とされていたのを、日程は無理に早められる。広島爆撃のとき観測機として参加したスウィニー少佐指揮のB29が原爆投下機となった。

 9日午前3時50分離陸、原爆機は第1目標の小倉に向かったが、上空に達したとき天候が急変し、厚い雲が一面に覆っていた。目標上空を旋回して投下の機会を待ったが、雲は切れぬばかりか、遠くに日本軍戦闘機の姿をみとめた。やむなく第2目標の長崎へ転進した。

 長崎上空も雲に覆われており、原爆機はここでも上空を旋回して雲の切れ間を探し求めた。運命はこのとき長崎を見捨てた。燃料の関係で時間ぎりぎりのとき、雲が切れて市街が姿を現すのをスウィニーは見た。ほんの数秒間……。
「いまだ、目視攻撃だ」
 11時2分。第2の原爆は7万5千人以上の人間を地上より消し去った。

 原爆機はテニアンまで戻れず、沖縄の基地までたどりつくのがやっとであった。

 日本がポツダム宣言を受託するに至った理由は原爆だけではなく、ソ連の宣戦布告もその大きな理由の一つだった。

(19)8月9日
ソ連が満洲へ侵攻


「日本人民を救いだすために宣戦」

 8月8日午後5時(モスクワ時間)駐ソ大使佐藤尚武は、外相モロトフからいきなり宣戦布告状をつきつけられた。外相はいう。
「ドイツが無条件降伏を拒絶したのちに味わったような危険と破壊から日本人民を救いだすため」ただちに戦争状態に入る政策をとる、と。

 佐藤大使が日本大使館に帰りつくよりさきに、電話線は切られ、無線機は秘密警察の手で没収された。大使はやむなく通常の国際電報によって、ソ連の参戦を日本外務省に伝えた。

 それから数時間後の1945年8月9日午前零時(日本時間)、佐藤よりの電報よりさきに、日本がソ連からうけとったものは、ソ満国境を越えて、無数の砲口から放たれた砲弾である。戦車の侵攻である。日ソ中立条約のあと1年の有効期間など完全に無視されていた。

 午前5時、私邸へかけつけてきた外相東郷茂徳を前に、首相鈴本貫太郎がぽつんといった。
「この戦争は、この内閣で結末をつけることにしましょう、1日も早く。いいですね」

(19)8月15日
終戦の詔書の中に


「為萬世開太平」

 8月は遠い敗戦を思う月である、とは作家大岡昇平の言葉である。6日の広島、9日の長崎、そして満洲へのソ連侵攻、15日の天皇放送と、あの惨めであった日々を私も思い起こさずにはいられない。新人類たちに「じいさん、そんな昔話、いい加減にしなよ」「タマオト放送? まあ、エッチな人……」などといわれても、1945年8月の、この三つの歴史的な日付は死ぬまで消し去るわけにはいかない。それは戦争に生き残ったものの務めである。

 私は毎年8月には、終戦の詔書のなかの「戦陣ニ死シ職域ニ殉ジ非命ニ斃(たお)レタル者及其ノ遺族ニ想ヒヲ致セバ五内為ニ裂ク」をぶつぶつ経文のようにとなえて起きるのを、毎朝のしきたりにしている。

 そして8月1日から15日まで、終戦時の首相鈴本貫太郎の達筆で「為萬世開太平」と書かれた扇子を一日中はなさずに持ち歩くことにしている。いうまでもなく「萬世ノ為メニ太平ヲ開カント欲ス」と詔書にある言葉である。

 戦争終結と永久平和希求の決意のこめられた美しい言葉を原点に、新しい日本は今またこの日を迎える。

 私は終戦の詔書に対して半藤一利さんの様な感慨を全く持ちえない。保身のために終戦をずるずると引き延ばしておいて「為萬世開太平」と、よくも臆面もなく言えたもんだ。私はとんでもない臍曲がりなのだろうか。

 ちなみに、終戦の詔書について、私は『「終戦の詔書」を読み解く』という記事を書いている。10年ほど前に書いたかなり長い論説だが、改めて読んでみたら、敗戦濃厚な時からポツダム宣言受託に至るまで経緯と、日本の支配層たちの国体護持を巡っての混乱ぶりが詳しく書かれている。

(20)8月15日
大日本帝国の降伏


「号泣、それから虚脱」

小林桂樹(俳優)
 愛知県で本土決戦に備えて穴掘りをしていた。玉音放送で戦争が終わったことはわかった。泣いた記憶はある。生きて帰りたかった。陸軍兵長。

林家三平(落語家)
 千葉県で本土決戦用の穴掘りをしていた。放送を聞いて、中隊百人とともに号泣。それから虚脱状態に。恐怖感がわいた。陸軍上等兵。

丹阿弥谷津子(女優)
 下伊那に疎開して、近所にいた岸田国士氏から戯曲集を借りて読みふけっていた。

丹波哲郎(俳優)
 立川航空整備隊所属の陸軍少尉だった。ボクは本来楽天家だから、その場その場でうまくやっていたよ。

 加藤芳郎(漫画家)
 二十年九月半ばまで、八路車の進撃を阻止しようとする蒋介石軍の計画で、北京の北の古北口にとどまって、忙しかった。芸能班の一員でもあった。陸軍一等兵。

 淡谷のり子(歌手)
 公演旅行で山形県にいて、演奏が中止になってホッとして、宿でぼんやりしていた。

 この年の8月15日のそれぞれの回想である。

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