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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(46)

1945年(5)~(12)

 今回はヨーロッパでの第2次世界大戦の結末とそれに関連した記事から。

(6)4月25日
米ソ両軍将兵のエルベの誓い


「ふたたび戦うことのないように」

 前年の6月にノルマンディ上陸に成功した連合軍はパリを解放し、ドイツ軍を追って東へ東へと猛進撃をつづけた。いっぽう、スターリングラードでドイツ軍の進撃を阻止したソ連軍は反撃にでて東ヨーロッパの諸国を解放し、ドイツ国内に入りさらに西へ突進していった。

 この両軍が東西から1945年4月25日午後4時40分、ベルリンの南約75マイルの地点、ザクセンのトルガウ市郊外を流れるエルベ河の破壊された橋上で出会った。米軍のロバートソン少尉と、ソ連軍のアンドレーエフ軍曹の握手をきっかけに、両軍の将兵はわれを忘れて歓声をあげ抱きあった。そして勝利は目前にあることを喜びあったのである。

 それから10年たった5月に、かつてエルベで出会った米ソの元兵士たちがモスクワで再会した。米ソの冷戦が雪どけを迎えはじめたころである。
 彼らは感激をあらたにして、
「我々の子供がふたたび戦うことのないように」
と誓いつつ杯をあげた。

 続く二つは独裁者たちの最後の記事。

(7)4月28日
逆さにつるされたムッソリーニ


「最後までついてきたでしょう」

 ドンゴという小さな村の農家の一室で、イタリアの独裁者であったムッソリーニ首相と、その愛人クララは、パルチザンの手によって捕らえられた。二人は車で運ばれ、村はずれの木立の陰に隠れた山荘の門の前に立たされた。

 クララがムッソリーニにささやいた。
「最後までついてきたでしょう。うれしくはなくって」
 いや、別の証言では
「いけない、この人をそんなふうに殺すのはいけない!」
と叫び、かばうように立ちはだかったという。しかし、猛りに猛った民衆に容赦はなかった。パルチザンの銃が一瞬早く、火を吹いた。ムッソリーニはときに61歳。1945年4月28日のこと。

 翌日、二人の死体はトラックでミラノヘ運ばれた。この日、中央駅に近いロレッタ広場には黒山の群衆が集まっていた。構築中のガソリン・スタンドの鉄の梁(はり)に、ムッソリーニの死体は逆さにつるされた。隣にクララ。

 20年余もシーザー気取りで君臨してきたムッソリーニを哀惜するイタリア人はほとんどいなかった。
(8)4月30日
ヒトラー自決す


「ナチス運動の再生となり……」

 20世紀をひっかきまわしたヒトラーとは何者か、という問いに簡単に答えられるようなら、これまで世界中で2千冊におよぶ"ヒトラー伝″が書かれるはずもない。この独裁者は一筋縄でとらえられるような人物にあらず。

 そのヒトラーが1945年4月30日に自決した総統官邸跡を、わたくしはベルリン旅行のとき訪れてみた。地下6メートルの壕(ごう)の、彼が死んだ書斎、その死骸が焼かれたと思われる場所に立ってみると、風にのって、ヒトラーの遺言が聞こえてくるような気がした。

「このような大きな犠牲がそのまま空しく終わるとは信じられない。わが将兵と私との同志愛によってまかれた種子は、いつかドイツの歴史の中に花を開いて、ナチス運動の再生となり、やがて真に統一した国家をつくりあげるであろう」

 ソ連当局は墓をあばき遺骸をソ連にもちさったというが、新しいナチスの聖地がつくられるのを恐れ、その後の詳細をいまだに発表していない。ヒトラーは、いや、その思想は、ヒトラーの言葉どおりいまも生きているのであろうか。

 いま、ヨーロッパには極右のネオ・ナチがうごめきだしているという。

(9)5月2日
ソ連軍、ベルリンに突入


「赤旗はテーブルクロス」

 4月28日、ムッソリーニは銃殺され、30日、ヒトラーは自殺。5月2日、ベルリンの国会議事堂の屋上に、赤旗がひるがえった。ヒトラーの後継者となったデーニッ ツ提督はこの日、ヒトラーの死を全国民に放送し、米英軍にのみ降伏すべきことをドイツ国防軍に命じた。なんとか米英とソ連との離間を期待していたからであるという。しかし、すべては空しかった。
 1945年の劇的な数日間である。第2次大戦のヨーロッパ戦線はこうして終結に向かった。

 そして、最近まで、このときの勝利を象徴するものとして、ソ連兵が議事堂の屋上に赤旗をかかげる迫真の写真が、いろいろなところで使われてきた。
 が、これがあとからの演出であった、と、これを撮った写真家バルディが、つい最近ばらした。
「赤旗はテーブルクロス、兵士の腕にあった二つの腕時計の一つが略奪行為の証拠を残さぬため修整で消された。砲煙もうまく形を修整した」と。
 だから歴史的名写真になった、ともいえる。

 5月にドイツが無条件降伏をして、ヨーロッパでの第2次世界大戦は終わったが、太平洋戦争での悲劇はまだまだ続く。

(10)5月25日
空襲で宮城炎上


「明日から困るだろうから」

 それは5月25日の深夜である。東京はB29五百機機以上の爆撃をうけ、焼け残っていた西部、北部そして中央部が灰燼に帰した。午前1時ごろ、直接的な攻撃を受けなかった宮城もまた炎上した。皮肉にも、宮城本殿を焼いたのは、参謀本部からの飛び火であった。満州事変を起こし、日中戦争を拡大し、日本帝国を破局に導いた陸軍横暴の歴史を、象徴するかのようである。

 明治21年10月に完工した表と裏とをあわせて大小27棟の、歴史を誇った美しい宮殿は、4時間近く燃え続けて完全に焼け落ちてしまった。必死の消火に当った皇宮警察官や近衛師団の下士官兵の、殉職者は33人にのばった。  火災の状況は、宮内省の防空本部から電話で逐一お文庫に報告された。その時に、昭和天皇はいったという。
「私の御殿は焼けてもよい。それよりも局(つぼね)たちの御殿にまだ火がついていないならば、全力を尽くし助けてもらいたい。局たちは丸焼けになったら明日から困るだろうから」

 1945年5月、困っている者は局たちばかりではない、日本中に山ほどいた。そして、これからもぞくぞくとふえていった。

 私は東京空襲のとき、宮城も燃えたということを知らなかった。それにしても東京中が燃えているのに自分の身辺への心配しか思いが及ばないヒロヒトには改めてあきれ返えってしまう。ヒロヒトの発言であきれ返った例を二つ思い出した。
 一つは広島の原爆被災についての発言で
「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。」
 もう一つは戦争責任に就いての発言で
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。」
 この二つ目の発言については『詩をどうぞ』
の(2)でこの発言を厳しく批判している茨城のり子さんの詩『四海波静』を紹介した。

 『残日録』の続く二つの記事は沖縄戦での惨劇である。

(11)6月6日
大田実司令官の報告


「沖縄県民斯ク戦ヘリ」

 1945年6月6日付けの、沖縄方面海軍特別根拠地隊司令官の大田実少将が発した海軍次官あての長文の電文を読むたびに、粛然たる思いにかられる。これほど尊くも悲しい報告はないと思われるからである。
 その一部を――。 「沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来、陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ、県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ。然レドモ本職ノ知ル範囲ニ於テハ、県民ハ壮青年ノ全部ヲ防衛招集ニ捧ゲ、残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋卜財産ノ全部ヲ焼却セラレ………」

 にもかかわらず、沖縄県民が総力をあげて軍に協力し、敵上陸いらい戦いぬいている事実を、大田少将はくわしく記して、最後をこう結んだ。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
 軍は沖縄防衛戦において、共に戦い共に死なん、と呼号して、非情にも県民を戦火の中にまきこんで戦った。そのときに非戦闘員にたいするかくも美しい心遣いを示した軍人のいたことを誇っていい。

 そしていま、はたしてわれわれは沖縄の人々に「特別の高配」をしているであろうか。

(12)6月23日
沖縄地上部隊の最後


「閣下は極楽、私は地獄」

 歴史はときに残酷な顔をみせる。沖縄防衛の第32軍が南部集結による持久抗戦をきめた5月下旬、大本営は沖縄での決戦をあきらめ、総力を本土決戦に傾注することに戦略を切りかえていた。一言でいえば沖縄を見捨てたのである。そうとも知らず、第32軍の将兵は5月30日午前零時、最南端の摩文仁をめざして出発した。そこには10数万もの住民が逃げのびて集結していた。

 沖縄戦はそれから20数日間つづけられる。組織だった戦闘といえるものではなく、沖縄県民をまきこんでの"火と鉄の暴風"による虐殺に近かっか。県民の死者は軍関係1万4千8百、一般県民15万をこえる。

 こうして1945年6月23日、軍司令官牛島満大将と参謀長の長勇(ちょういさむ)中将は、敗戦の責任を負ってならんで自決した。長中将が「お先に」といい、そして苦笑しながらつけ加えた。
 「そうか、閣下は極楽、私は地獄。お先に失礼してもご案内できませんな」
 大本営が「本土防衛のための捨て石にする」とした沖縄戦はこの日に終わった。
なお"虐殺"は各所でつづけられていたが。

 沖縄での惨劇については『沖縄に学ぶ』
の(7)~(10)で取り上げている。それを紹介しておこう。
『琉球処分から沖縄戦まで(1) 』
『琉球処分から沖縄戦まで(2) 』
『琉球処分から沖縄戦まで(3) 』
『琉球処分から沖縄戦まで(4) 』
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