2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(45)

1945年(1)~(4)

 戦勝国・敗戦国の別なく、戦争を主導していった者の愚かさと残虐性にうんざりとしてくる。そして、それに諸手を挙げて従ったのかイヤイヤながら従わざるを得なかったのかの別なく、戦争に巻き込まれた人びとの命の安さ無残さに滅入ってしまう。第2次世界大戦が終結した1945年の『残日録』の記事を読んでいると、そうした思いは戦争終結時の記事では目をそらしたくなるほど一段と深くなる。しかし、最後迄しっかりと目を開けて事実を直視して行こう。

(1)2月4日
ヤルタ会談が決めたこと


「とられたものをとり返す」

 1945年2月4日から11日までひらかれたヤルタ会談での、米大統領ルーズベルトは死を前にした病人であった。1時間は集中できるが、それ以上になると、考えることは支離滅裂、時折ぼんやり放心した。

 この病める大統領が、スターリンとチャーチルとともに、戦後の世界体制をきめたというのであるからそら恐ろしくなる。海千山千のスターリンが病人を手玉にとることはきわめて容易であったことであろう。かれらはまず、降伏は目にみえているドイツの米英ソ仏による分割占領をきめた。国際連合の構想も具体化された。

 そしてなお頑張っている日本にたいしては秘密協定を結んだ。ドイツ降伏3ヵ月後に、ソ連が日本にたいして攻撃を開始するという約束である。ルーズベルトは代償に「ロシアが日露戦争敗北で失った諸権益の復活」を申しでた。すなわち樺太の南半分と千島列島をソ連に与えるという……。

「日本が戦争で奪いとったものを、返してもらうことだけを私は願っている」
「とられたものをとり返したいというのは、当然の要求でありましょう」
 スターリンとルーズペルトとの会話である。

ヤルタ協定の主要部分を『史料集』から転載しよう。

三大国即チ「ソヴィエト」連邦、「アメリカ」合衆国及英国ノ指揮者ハ「ドイツ」国カ降伏シ且「ヨーロツパ」ニ於ケル戦争カ終結シタル後二月又ハ三月ヲ経テ「ソヴィエト」連邦カ左ノ条件ニ依リ連合国ニ与シテ日本ニ対スル戦争ニ参加スヘキコトヲ協定セリ
一、
 外蒙古(蒙古人民共和国)ノ現状ハ維持セラルヘシ
二、
 千九百四年ノ日本国ノ背信的攻撃ニ依リ侵害セラレタル「ロシア」国ノ旧権利ハ左ノ如ク回復セラルヘシ……(箇条書き部分略す)
三、
 千島列島ハ「ソヴィエト」連邦ニ引渡サルヘシ……(前条の補足部分略す)
 三大国ノ首班ハ「ソヴィエト」連邦ノ右要求カ日本国ノ敗北シタル後ニ於テ確実ニ満足セシメラルヘキコトヲ協定セリ
 「ソヴィエト」連邦ハ中華民国ヲ日本国ノ覊絆(きはん)ヨリ解放スル目的ヲ以テ自己ノ軍隊ニ依リ之ニ援助ヲ与フル為「ソヴィエト」社会主義共和国連邦中華民国間友好同盟条約ヲ中華民国国民政府ト締結スル用意アルコトヲ表明ス
 初めての東京大空襲が行なわれた経緯は次のようであった。

(2)3月10日
東京大空襲の夜


「日本の家屋は木と紙だ」

 第20空軍司令官ルメイ少将は、戦果も思わしくなく隊の士気も日ましに衰えてゆくのに業をにやした。そこで決断した。
1、
 日本の主要都市にたいし夜間の焼夷弾攻撃に主力をそそぐこと。
2、
 爆撃高度は5千より8千フィートとす。
3、
 各機は個々に攻撃を行うこととす。(以下略)

 作戦の根幹は焼夷弾による低空からの夜襲である。
「それに日本の家屋は木と紙だ。焼夷弾で十分効果があげられる」
とルメイは自信たっぷりにいった。

 1945年3月10日未明の東京大空襲を皮切りに、ルメイ新戦術によるB29の大群の日本本土焼尽夜間攻撃がはしまった。この最初の無差別攻撃の夜の東京市民の死者8万9千。わたくしは辛うじて9死に1生をえた。

「それは世界最大の火災だった。ふき上る火炎の明かりで時計の文字盤が読めた」
とB29搭乗のアメリカ兵は語った。

 戦後、そのルメイに日本政府は最高の勲章を贈った。あいた口がふさがらなかった。

 この大空襲は東京だけでは終わらなかった。その後のことを『探索 6』から補充しよう。


 翌日、帝国議会で小磯国昭首相が勇ましく言い切った。
「驕慢な敵を洋上に殲滅し、水際で叩き、陸上で殲滅する!」

 しかし、その豪語をあざ笑うかのように夜間の低空攻撃はつづけられる。12日、名古屋。13日、大阪。17日、神戸。さらに19日にはふたたび名古屋へ。大都市はわずか十日間にしてすべて炎上した。被災家屋計58万戸、200万人以上が焼け出され、200万人以上が死傷する。さらに九州・四国方面では米艦載機の大群の来襲をうけ、ここでも多くの人が生命や家や財産を、そして希望を失った。米機の攻撃がもっぱら飛行場に加えられたのは、つぎの沖縄作戦のための先制攻撃であることは明らかであった。


 次はルメイへの叙勲についての補足。
 ルメイへの旭日大綬章授与は1964年12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定されている。この授与決定は国民には伏せられていた。ルメイ叙勲だけでなく在日米軍幹部への叙勲の全貌を明らかにしたのは東京新聞だったという。RakutenBLOGにその東京新聞(2010年3月11日 朝刊)の記事を掲載している記事があった。
『在日米軍幹部に叙勲』

 この記事の最後は、佐高信さんの歯切れの良いの談話で締められている。転載しておこう。
『彼ら政治家は、大空襲で命を失った庶民が目に入っていない。タカ派どころか、バカ派の売国奴だ。国民を無視して勲章を出すのは日本も米国も同じ。もうこんな空虚なことはやめたらどうか』

 さて、1945年に入っても、日本軍の空しくも壮絶な戦いが続けられていた。

(3)3月17日
硫黄島守備隊の突撃


「今や弾丸尽き水涸れ……」

 戦闘がはじまる前から、守備隊の総指揮官栗林忠道中将はいっていた。
「硫黄島は皇土の一部である。もし本島が占領されることがあったとしたら、皇土守護は不可能である」
 それだけに米軍を迎え撃った硫黄島守備の日本軍は、善戦力闘しぬいた。

 「五日で落としてみせる」と豪語していた米軍の損害は死傷2万5851人、上陸した海兵隊員の3人に1人が戦死または負傷した。日本軍の死傷2万数百人(うち戦死1万9900人)。太平洋戦争で、ガダルカナル島での反攻開始後、米軍の損害が日本軍を上まわったのは、硫黄島の戦いだけである。

 1945年2月19日の米軍の上陸いらい戦いつづけた日本軍の、組織的な抵抗がついに不可能となったのは3月16日である。栗林中将は、1兵の救援も送ってこなかった大本営へ、決別の電文を送った。
「今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行わんとするにあたり、つらつら皇恩を思い、粉骨砕身もまた悔いず。……」

(4)4月7日
戦艦大和の最後の出撃


「その栄光を後世に伝えん」

 連合艦隊司令長官豊田副武大将は訓示を送った。
「皇国ノ興廃ハ正ニ此ノー挙ニアリ 茲(ここ)ニ特ニ海上特攻隊ヲ編成シ壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタルハ 帝国海軍力ヲ此ノー戦ニ結集シ 光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ 其ノ栄光ヲ後昆(こうこん=後世)ニ伝ヘントスルニ外ナラズ……」

 戦艦大和を中心とする残存の第二艦隊は、その訓示どおり特攻として、桜花らんまんたる内地をあとに沖縄に向け出撃した。

 しかし1945年4月7日、沖縄突入の余裕もなく、九州坊ノ岬沖の海上で、米空軍380機の猛攻をうけ、激越にして一方的な戦闘2時間10分のはて作戦は失敗した。戦艦大和沈没。戦死3056名。以下、経巡1、駆逐艦4が沈没し戦死981名余。連合艦隊はここに壊滅した。

 燃料はかならずしも片道ではなかったものの、「栄光」を保持するために、ただそれだけのために、これだけの人が死んだ。総指揮を取った伊藤整一中将が決断した「作戦中止」の命令がなければ、なお浮いていた駆逐艦4隻も沖縄に向かって突進し、第2艦隊の総員7222名が帰らなかったことであろう。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2364-15ef88ac
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック