2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(43)

1944年(11)~(16)

 学童集団疎開が始まった日に全新聞が一斉に次のようなフェイクニュースを報道した。

(11)8月4日
新聞各紙が米兵の残虐性を報じた日


「鬼畜米英」

 当時、中学2年生のわたくしはたしかにわが眼を疑った覚えがある。この日、1944年8月4日の新聞各紙はアメリカ兵の"鬼畜"ぶりを大きくとり上げたのである。

 朝日新聞が「見よ鬼畜米兵の残忍性」との見出しで、「兄から送ってきた日本人の頭蓋骨をおもちゃにしている」子供のこと、下院議員がルーズベルトに「戦死した日本兵の上膊骨(上腕骨の旧称)で作った紙切り小刀を贈った」事実など、それらが問題になっていることを報ずれば、読売報知新聞も「これが米兵の本性だ」の見出しで報じた。
「頭蓋骨を玩具にし、勇士の腕をペーパーナイフとしたこの非人道的な行為は、本国の米人間にさえあまりに残虐行為として非難され指弾されているという。(略)鬼畜め、野獣! たぎり立つ憤激のなかにわれら一億はこの不倶戴天の米鬼どもを今こそ徹底的に叩きつけねばならぬ」

 かならずしも定かではないけれども、これ以前に、われら悪ガキが「鬼畜」という言葉を使っていたという覚えはない。戦意高揚のためとはいえ、このすさましい報道のあとで、
「いいか、負けたら男はみんな奴隷に、女はみんな鬼畜アメ公の妾になるんだ」
なんて愚かな風説が流れ出し、わたくしなんかそれを信じたような気がしている。

 各新聞が一斉に報道したというのだから、勿論政府からの強い指示があったのであろう。現在でも同じだ。つい最近の事例として、会食に招待されてのこのこと出かけていったマスゴミ幹部とアベコベとの会食の後、マスゴミが一斉に北朝鮮の脅威を大仰に報じ始めた事を思い出した。

前回、ノルマンディ上陸作戦の補充記事でパリ解放を取り上げたが、『残日録』からの次の記事はパリ解放時のドイツ軍の動きをまとめた記事である。

(12)8月25日
パリが解放された日


「パリは燃えているか?」

 1944年8月25日の午前8時、ドイツ軍のパリ地区軍司令官の極秘テレスクリプターが、国防軍最高司令部からのヒトラーの命令を打ち出した。
「破壊は開始されたか」
 軍司令官コルティツツ大将はパリを愛し、フランス文化にあこがれを抱いている。彼はこの美しい都を破壊する命令を容易にだそうとはしなかった。

 一方で、パリ市民3百50万人の解放の喜びは、いまや街中にあふれようとしていた。ルクレール将軍が指揮するフランス装甲車部隊が、前夜に、すでにパリ市内の一角に突入してきている。教会という教会の鐘がいっせいに鳴りひびいた。ドイツ軍占頷下の4年間をすごしたパリは、いま解放されようとしているのである。連合軍対ドイツ軍の市街戦は、いたるところで戦われていた。戦いつつドイツ軍将兵は破壊命令を待っていた。

 しかし……、午後3時すぎ、コルティッツは、パリ市庁で淡々として降伏文書に署名した。そのころ、ヒトラーは国防軍最高司令部でくりかえし怒号をつづけていた。
「わしは知りたいのだ――パリは燃えているか?」

 パリは救われていた。

コルティツツ大将の反骨精神に拍手喝采を送ろう。

 再び、太平洋戦争を巡る日本の動きに戻る。

(13)9月
松代大本営の建設始まる


「私は行かないよ」

 サイパン・グァム・テニアンのマリアナ諸島が攻略され、もはや戦争に勝利のないことを覚悟させられた日本陸軍は、本土決戦によって最後の一兵まで戦うという悲痛な決意を固めた。首都東京は海に近く平野にあるし、到底守りきれない。そこで大本営を長野県の松代へ移す、という案をたて、ひそかに築城の工事を始めることとした。1944年9月中旬からそれは開始された。

 計画によれば、象山、皆神山、狼烟(のろし)山の三山をくりぬいて、延長10キロの坑道式大防空壕をつくる。総工費6千万円。長野県下の住民と朝鮮人労働者を総動員し、のべ人数75万人。丹那トンネルをしのぐ未曾有の大工事が昼夜兼行で敢行される。本土決戦は陸軍主導の戦いとなるゆえ、もちろん、政府にも海軍にも知らせずに、工事は進められていった。

 が、1945年春にはそのことが、広く知れ渡った。昭和天皇の耳にもその秘密工事のことが伝えられた。「帝都固守」による戦死をも覚悟している天皇は、このとき不快げに言った。
「私は行かないよ」

 これまで多くの記事で観てきたように、危急存亡のとき、1%はまず自分たちの逃亡を優先する。99%使い捨てるだけである。

 無駄なことばかりの戦時対策が続くが、次のようなム無駄なアメリカ本土攻撃が行なわれた。

(14)9月26日
「風船爆弾」部隊の編成


「機能回復までに三日間」

 あんまり鼻を高くできる話ではないが、太平洋戦争中に日本が開発した最新鋭兵器に風船爆弾がある。直径10メートルの気球で、冬季の偏西風のもっとも強い1万メートルの高度を飛ばし、太平洋を約72時間で越え、35キロ程度の爆弾または焼夷弾をアメリカ本土に投下するという設計になっていた。気球は良質の紙で作られ、コンニャクのりで塗り固めた。

 これを富号兵器と称し、この兵器による米本土攻撃のための部隊が新編成されたのが、1944年9月26日である。そしてこの日、11月3日の明治節の早朝をもって攻撃開始の作戦計画も確定する。
 と、勇ましく書いたが、戦果は? となると――
約9300個が放流され、うちほぼ1割が米本土に到着したという。ボヤ程度の森林火災2件、それとハンフォードの原爆製造工場の電線に落ち、電流が1時中断し「機能回復まで何と3日間を要した」とアメリカ側を大いに嘆かせた。

 これが勤労動員の女学生たちをこき使って製造し、当時の金で1千万円以上をつぎこんだ作戦の全戦果であった。何たる無駄か。

(15)10月25日
レイテ沖海戦・ナゾの反転


「天祐を確信し全軍突撃せよ」

 1944年10月23日から26日まで、米軍のレイテ島上陸にともない、フィリピン諸島の東方海面で戦われたレイテ沖海戦は、史上最大の海戦である。そしてそれは空前絶後、世界史最後の艦隊決戦といえるであろう。

 艦艇198隻、飛行機2000機が敵味方にわかれ死闘を繰り返した。日本の連合艦隊は、どんな犠牲を払っても上陸した米軍の殲滅を期した。そのため残存艦隊をすりつ ぶしても構わないと、惨たる決意を固める。それゆえに海戦の最中に打たれた電報命令は悲壮この上ない。
「天祐を確信し全軍突撃せよ」
 その命令通り戦艦大和を中心に、全艦は一丸となって猛進し、まさにレイテ湾に殴り込もうとした。

 湾内では総指揮官マッカーサーが真っ青になっていた。25日正午近く、しかし、天は日本海軍に味方しなかった。ニセ電報を信じた栗田健男中将指揮の日本艦隊は、湾を眼前にくるりと反転した。アメリカ兵は狂喜した。
「ヘイ、見ろ。ジャップが、か、帰っていくぞ。オレたちは助かったんだ!」

 ちなみに、大変長いので転載はしないが、レテイ海戦の作戦参謀(大谷藤之助)が書き残した手記が『探索 6』に掲載されている。

(16)10月25日
神風特別攻撃隊の誕生


「KAがアメ公に何をされるか」

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花――

 本居宣長の歌より名づけられた敷島隊(5機)、大和隊(6機)、朝日隊(2機)、山桜隊(2機)が、史上はじめて編制された神風特別攻撃隊である。指揮を関行男大尉がとった。関大尉はいった。
「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて……しかし、命令とあれば、やむをえない。日本が負けたら、KA(家内)がアメ公に何をされるかわからん。僕は彼女を守るために死ぬ」

 1944年10月25日、関大尉はこの言葉を新聞記者にのこして、フィリピンのマニラ近くの基地より飛び立った。従うのは敷島隊の4機。零戦に250爆弾をかかえて「1人1艦」の必死の突撃を敢行する。そしてサマール島沖の米空母群に突入、全員が特攻戦死した。この報告を受けたとき、天皇はいった。
「そこまでせねばならなかったのか。しかし、よくやった」

 10月28日に、海軍は神風特別攻撃を公表した。命令ではなく志願による、ということであったが、国民はだれも信じなかった。

 この記事での天皇の談話にも「いい気なもんだぜ」という言葉を投げつけたい。とうに「そこまでせねばならな」い程の戦況になっていたことは十分承知だったはずだ。なぜここまで来ても降伏を決断しないのか。

 思い出した事がある。『「終戦の詔書」を読み解く』
の中の記事『「詔書」第一案の分析(6)終戦工作の実態』
で書いたように、
「戦争終結策を至急に講ずる要あり」
という近衛文麿の進言に対して、自己保身を優先した天皇ヒロヒトは
「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」
と返答しているのだ。その結果、広島・長崎への原爆投下まで、降伏の時期が引き延ばされたのだった。
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