2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(42)

1944年(6)~(9)

 ヨーロッパ前戦では第2次世界大戦の最後の山場を迎えていた。

(6)6月6日
ノルマンディ上陸作戦開始


「よろしい、出かけよう」

 参謀長スミス中将は、連合軍総司令官アイゼンハワー大将の人間性をよくのみごんでいた。アイクが相談する4人の英軍高級指揮官にあらかじめ工作し、陸海は決行賛成、空軍と航空輸送部隊の指揮官は悪条件ゆえ反対と答えてもらうことにしておいた。全員一致で決行を進言し、それで決定するというのでは、最高司令官としての決断の味がうすれる。アイクはそういう安易さを好まないのである。

 会議はあらかじめ決められたとおり2対2と意見が分かれた。アイクが、「参謀長、キミは?」と問うのに、スミスは「私は決行すべきだと思いますが……」と答えた。アイクはちょっと考えるようをしたあとで、
「よろしい、出かけよう」
と決断した。

 こうして第二次大戦最後のヤマ場である連合軍のノルマンディ上陸作戦は、悪天候をおして敢然と開始された。1944年6月6日朝まだきのこと。Dディといわれた。イギリス兵たちは「ダンケルクの仇を討とう」と、だれもがしきりに勇み立つたという。その気持はすこぶるよくわかる。

 ちなみに、「ダンケルクの戦い」については『1940年(1)~(6)』 の(6)で取り上げている。

 ノルマンディ上陸作戦の戦果について補充しておこう(「岩波講座 世界歴史28」からの転載です)

 1944年6月6日、米英連合軍は、北フランスのノルマンディー海岸に大規模な上陸作戦を行なった。作戦は成功し、6月末までに、海岸から20-40キロはなれた内陸に約100キロの正面をもつ橋頭堡がつくられた。橋頭堡にいる連合軍の兵力は100万にたっした。待望の第二戦線が生れたのであった。ドイツ軍の抵抗は頑強であったが、7月末には崩壊がはじまった。退却してゆくドイツ軍を追撃しながら、8月末には連合軍はセーヌ川の線にたっした。

 連合軍の上陸によって、フランス国内のレジスタンスの運動はいっそう発展し、全土の解放をめざす国民的な蜂起に発展した。レジスタンスはフランスの半分以上を自力で解放した。首都のパリでも、1944年8月10日に労働者がゼネストにはいり、19日から蜂起が開始された。レジスタンスの武装兵力として成長した国内軍は、市民の協力を得てドイツ占領軍とたたかった。24日になると連合軍の先頭が市内にはいり、それにたすけられて、翌25日、パリは解放された。

 ノルマンディで敗れたドイツによる次のような新兵器による報復があった。

(7)6月15日
新兵器「V1号」の発射


「間違って地球に落ちた」

「宇宙旅行という目的のためなら、悪魔と手を握ることさえいとわない。」
 ドイツのロケット工学者フォン・ブラウンはそう広言してはばからなかった。

 その彼が中心となって開発をすすめたジェット推進「V1号」が、ロンドンに撃ち出された。人類が初めて作った時速600キロで飛ぶ高速大型爆弾である。Vは「報復」の頭文字で、連合軍のノルマンディ上陸の仕返しを意味したという。1944年6月15日、ロンドン市民は悪魔の飛来におびえきった。

 さらに3ヵ月後の9月に、まさに彼がつくった超音速・防御不可能のロケット弾「V2号」が、ロンドンを襲い、死と破壊と恐怖とをまきちらした。

 フォン・ブラウンの関心事は、戦争がどうの、勝敗がどうの、地上の主権がどうのというよりも、常に宇宙の無限にあった。ロケット弾の成功には満足しながら、
「間違って地球に落ちたのが不満だ」
 と友人に語ったという。

 戦後、アメリカに帰化し宇宙開発のアポロ計画で、彼は自分の夢をみたした。そしてその反面でいまのミサイル時代の恐怖が……。

 科学者の本来の意図とは違っても、このように科学者が戦争に加担してしまうことがある。そうした中で最も悲惨な例は原爆である。いずれ、原爆にまつわる『残日録』の記事を取り出してまとめて転載しようと思っている。

 太平洋戦争に戻ろう。

(8)7月8日
サイパン島占領さる


「バンザイ突撃」

 開戦初頭、真珠湾奇襲で大武勲を立てた機動部隊を指揮した南雲忠一中将は、1944年7月8日、サイパン島洞くつ陣地で副官にいった。
「では、頼む」
副官のけん銃のにぶい音が響き、栄光の海将は陸上で死んだ。日本の陸上部隊は20日間の激闘のはてに、7日と8日に、全兵力をもってする最後の「バンザイ突撃」で、島を血で染めて玉砕した。

 悲惨はこのあとに訪れることになった。信頼した軍人たちに先立たれてしまった2万5千人の一般市民の運命である。老人や婦人や子どもたちは自分たちの力で敵中突破、生きねばならなかった。彼らはどうにか島の北端にたどりついた。アメリカ軍の投降勧告にもかかわらず、子供を抱きながらマッピ岬から海へ飛びこむ婦人、あるいは用意した手榴弾で自爆する老人と子供たち、毒薬をのむ人々と、つぎつぎに自分で自分の生命を絶った。

 今この断がいは「バンザイ・クリフ」「スイサイド(自殺)とよばれ観光名所になっている。

 同じようなことが敗戦間際の沖縄や満州で起こっている。しかし、これらの場合は軍隊が玉砕したのではなく、軍隊が住民に死を強いたり、あるいは住民を見捨てて逃亡したのだった。

 次の記事は世界制覇を夢見る兇人ヒットラーに抗する闘いを選んだ小説家の悲劇。

(9)7月31日
サン=テグジュペリの戦死


「人生に解決などない」

 美しい童話『星の王子さま』出版の直後、1943年4月、サン・テグジュペリ少佐は連合軍の北アフリカ上陸を機に、飛行大隊に復帰することを決意する。しかし43歳という年齢は、最新鋭機の操縦には適さなかった。結局は、予備役に編入されてしまう。

 ところが、彼はあきらめなかった。強引な要請を軍にくりかえし、ふたたび原隊復帰に成功する。ただし出撃は5回までという制限をつけられていた。

 1944年7月31日、彼はコルシカ島の基地から朝もやの中を飛びたった。なんと、制限無視の9回目の出撃なのである。ドイツ占領下のフランスを偵察するのが目的であった機は、しかし、燃料の切れる午後2時30分になってもついに基地に帰らなかった。
「人生に解決などない。あるのはただ、前進してゆく力だけだ。その力を創造しなければならない。解決などそのあとで見つかる」
 そう力強くいった空の英雄にして、美しい小説の作家の死については、その詳細をだれも知らない。

 次は日本での学童たちが強いられた苦難。

(10)8月4日
学童集団疎開はじまる


「ごはんを"百回噛め"といわれて」

愛川欽也(タレント)
 大輪寺という長野県上田市のお寺の本堂で生活していました。大きなイモのかたまりの入った雑炊。イモをもちあげると、量が減っちゃうので、イモをもちあげるたびに、なんだか損した気になりましてね。

扇千景(参議院議員)
 鳥取県岩美郡岩井町に一年間いました。温泉街で、宿舎の前に大きな川が流れていて、湯気がホカホカたっていました。大豆入りのごはんを"百回噛め″といわれて食べました。

中村立行(写真家)
 静岡県浜松の方広寺に生徒を連れて疎開しました。図画の教師だったのですが、仕事は食糧集めと写真をとることでした。

 いずれも学童集団疎開の思い出である。  予想される本土空襲を前に、政府は大都市の国民学校3年以上の学童を、地方の旅館や寺院などに集団疎開させることにした。東京の場合、第一陣が出発したのが1944年8月4日で、9月24日までにすべてを完了した。その数は全国で約40万人。右の三氏をその代表として。

 わたくしは残念ながら疎開派にあらず、勤労動員の焼跡派であります。

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