2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(41)

1944年(1)~(5)

 次に掲載する1944年の「主な出来事」で分かるように、第二次世界大戦は収束に向かい、日米による太平洋戦争の終結を示す事項に絞られてきた。
1月
・独、東部戦線撤退
3月
・インパール作戦開始
6月
・連合軍、ノルマンディ上陸
7月
・サイパン島の日本軍全滅
8月
・学童の集団疎開実施
・学徒勤労令公布
・連合軍、パリ解放
10月
・レイテ沖海戦
・神風特別攻撃隊編成
11月
・サイパンからB29約80機、東京初空襲

 日本では国家総動員を図るための政策がいろいろと打ち出されてきていたが、言論弾圧も熾烈になってきた。

(1)1月29日
「横浜事件」はじまる


「どうせ会社はつぶされる」

 1944年1月29日朝を手はじめとして、神奈川県の特別高等警察(特高)は、都下の雑誌編集者を中心に、新聞記者、研究所員などの一斉検挙を、ものものしく強行していった。計49名。罪状は治安維持法違反である。これを「横浜事件」とよぶ。

 検挙された編集者は『中央公論』『改造』『日本評論』から「岩波書店」にまで及んだ。これら編集者たちは、共産党再建をもくろんでいるという嫌疑をかけられたが、もちろんウソっぱち。しかし、その虚構の犯罪事実を強引にでっちあげるために、特高警察がとった手段は、脅嚇と拷問の一手である。こうして特高は架空のストーリーを見事に作り上げていった。

 捕まった編集者たち全員が、取り調べの合間に聞かされた特高の、自信ありげなセリフがある。
「吐いても吐かなくても、どっちでも同じよ。どうせお前さんの会社はつぶされるんだから」
 事実、それぞれの社はこの年の7月までにつぶされている。いやな時代であった。

 なお「横浜事件」は2007年現在も、再審請求をめぐって裁判がつづけられている。

 横浜事件関係の裁判は今も続けられている。「アベコベ軽薄姑息うそつきオカルト」政権が強行採決した共謀罪法は「「現代の治安維持法」と言われているが、この法律は無知にして無恥な安倍首相が憧れている「美しい日本」を取り戻すためには不可欠なものなのだ。

 しかし、横浜事件にも拘わらず、東条首相を批判した新聞記者がいた。

(2)2月23日
東条を批判した新聞


「竹槍では問に合わぬ」

 すでにマーシャル群島は占領された。米軍は太平洋の島づたいに、フィリピンヘ、そして沖縄、日本本土へと進攻作戦を展開しようとしていた。東条英機首相は叫んだ。
「戦局は決して楽観は許されないが、これを乗りきってこそ、必勝の道はひらかれる。国民は一大勇猛心を奮い起こすときである」

 1944年2月23日に、毎日新聞はこの首相の激励にこたえて驚くべき記事をのせた。
「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た」「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」「今こそわれらは戦勢の実相を直視しなければならない。戦争は果して勝っているのか……」

 東条首相はこれをよんで激怒した。「海洋航空機」の文字にとくにカチンときた。軍需物資を陸軍が優先的にとっていることへの痛烈な非難、と読み取ったからである。

 報復はすさまじい。毎日新聞は発禁、編集幹部は辞職、そして記事を書いた新名丈夫記者には召集令状が発せられた。

 東条のなんと肝っ玉の小さい事よ。それはお粗末な状況判断に由来する。「楽観は許されない」どころかもう既に敗北決定的な段階でなおも「必勝の道はひらかれる」などとあり得ない期待を持っている。

(3)3月8日
インパール作戦の発動


「国家に対して申し訳が立つ」

 太平洋戦争において「悲劇の」という形容詞が冠せられる戦場は、玉砕の島々をはじめまことに数多い。ビルマのインパール攻略戦は、そうした島ではないのに、無謀かつ無計画な作戦によるもので、悲惨という点では、トップに位置しようか。

 作戦に参加した弓・祭・烈の三個師団の将兵は、総計7万1千名。そして戦死・死没者は3万6千3百名の多数にのぼっている。しかも、どの師団も、戦死者よりも病気・栄養失調・疲労による行き倒れや餓死のほうがはるかに多かった。

 最高指揮官は河辺正三(まさかず)大将と牟田口廉也中将。
「私たち二人は盧溝橋事件のきっかけをつくったもの、あれが拡大して太平洋戦争になった。今度は大勝してみせる。今次大戦の遠因をつくったわれわれとしては、国家に対して申し訳が立つ。やるよ、インパールは50日で落としてみせる」

 新聞記者に語った牟田口の大言壮語である。盧溝橋事件当時、河辺は旅団長、牟田口は連隊長として日中衝突現場の指揮をとった。そしてこの牟田口中将は、一にクンショウ、二にビルマ娘と陰でいわれているほど、出世欲に燃えている軍人であった。

 1944年3月8日、牟田口の野望のもと、ずさんなインパール作戦は開始された。

 「病気・栄養失調・疲労による行き倒れや餓死のほうがはるかに多かった」のは補給線を軽視したずさんな作戦だった。「インパール作戦」は無謀な作戦の代名詞として今でも使われているという。

 ここで、戦時下の切なくも情けない体験をしてみよう。

(4)5月5日
国民酒場の開業


「捕虜になったみたいだ」

 飽食の今日では想像もつかないモノのなかった時代のことを、あまり楽しい話ではないけれどやっぱり書いておきたい。

 戦争中に「国民酒場」という店が登場。売るのは日本酒なら一合、ビール大ビンー本、生ビールー杯だけ。それでも配給の酒では足りない飲んべえたちには、干天の慈雨ともいうべきものであった。それにしても、どうして酒を飲むものだけが国民なのか。おかしな話である。

 東京ではこの年の5月5日から開店した。開店1時間前から歩道に4列縦隊の行列ができ、定数がくると「今日はここまで」でちょん切られ大騒ぎとなった。ほとんど立ち飲みで、左手にカタチだけの塩漬けの菜っ葉がお通しがわりにのせられた。

 作家高見順が「日記」に書いている。
「ひどく惨めな不快な感じだった。なんだか捕虜になったみたいだ。こういう不快感に無感覚になることが恐ろしい気がさせられた」

 日本酒を1合、チビリチビリで、これで惨めな気持ちにならなかったら、そっちのほうがどうかしている。

 さて、ヨーロッパ戦況に目を移そう。

(5)3月24日
史上最大の大脱走


「脱走は失敗だった」

 スティーブ・マックィーンやチャールズ・ブロンソンたち名優が出演した映画「大脱走」を、ときどきビデオで楽しむことがある。
 が、その背景となった歴史的事実を知ると、背筋に冷たいものが走り、申し訳ない気持ちにさせられる。

 これは事実あった話なのである。1944年3月24日の夜明け、ポーランドにあった捕虜収容所から、80人の連合軍空軍兵士が集団で脱走した。2年がかりで掘った深さ約9メートル、全長107メートルのトンネルを利用し、彼らははうようにしてぬけだした。出口で4人が捕まったが、残る76人は収容所の外へ脱出することに成功した。しかし……。

 結果は73人が捕らえられてふたたび捕虜の身となり、うち50人がヒトラーの命令でゲシュタポの手で処刑される。連合国への帰還に成功したのはわずかに3人。これ が厳然たる事実。

 いま生存者のひとりが、
「犠牲者のことを考えれば、脱出は失敗だった。してよかったとはいえない」
と苦しそうにいう。

 これも戦争が作り出す悲惨な出来事である。
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