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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(40)

1943年(11)~(12)

 前回の最終記事はキスカ撤退作戦の成功(7月11日)だった。その後の日米両国の太平洋戦争を巡る動きを『探索 6』から転載しよう。


 1943年の秋から冬にかけて、連合軍は六つの方向から日本軍に猛攻をかけてきた、あるいはかけようとしていた、ということになる。

 アリューシャン(シオボールド少将指揮)、中部太平洋(ニミッツ大将総指揮)、ソロモン(ハルゼイ大将指揮)、ニューギニア(マッカーサー大将指揮)、ビルマ(マウントバッテン英中将指揮)、そして海上交通破壊戦に全力を注いでいる潜水艦部隊(ロックウッド少将指揮)である。どの方面でも日本軍将兵は悪条件に耐え抜いて敢闘したが、その圧倒的な銃砲火とエネルギーの前に押されるいっぽうとなった。そのいちいちの悪戦苦闘について書く余地はないのですべて略す。

 とくに洋上に突如として姿を現し、中部太平洋を突き進んできた高遠機動部隊が何よりの脅威であった。11月19日~21日、ギルバート諸島そしてマーシャル諸島に台風のような攻撃を突然にしかけてくると、さあーと引き揚げていく。とみると、この強大な航空兵力をカバーにして、21日には米軍がタラワ、マキン両島に敵前上陸を敢行する。これを迎え撃って日本の機動部隊が、というわけにはいかないのである。日本の空母航空部隊の再建はいまだ成らず。あと3ヵ月は必要、ということは来年2月の終わりにならないと、「決戦」にでることはできなかった。手を拱いたままにマキン、タラワの日本軍守備隊を見殺しにするほかはなかった。またしても玉砕である。それにしても、まず空からの連続攻撃、ついで艦砲射撃、そして上陸という新戦法で、つぎつぎに太平洋の島々に攻撃をかけてきたら……統帥部の参謀たちの背筋には冷たいものが走るばかりである。

 しかし、泣き言ばかりいってはいられないのである。戦いは勝手に止めることはできない。いかなる困難でも克服し、最後の一兵まで戦いつづけねばならない。その断固たる信念をもつ軍部を、その時点で悩ましている大問題は、六つの方面からの米英軍の攻撃ばかりではなく、内にもあった。日中戦争いらいおびただしい兵力を費消してきた軍部は、下級指揮官の不足という深刻な問題に直面している。そこでその補充に最適の人材として、軍部は大学生に白羽の矢を立てていた。かれら大学生は中学に入学してからずっと軍事教練を受けているゆえ、即製で下級指揮官たりえると判断できる。

 9月21日、東条内閣の閣議は、在学中のものは満26歳まで兵役につかなくてもいいとする「徴兵猶予の特典」を取り消す、という決定をした。さらに法文系大学教育の停止と決められる。ここに大学生もまた戦場へと向かう決定がなされたのである。

  それは土砂降りの雨の日であった。1943年の日本を語ってこのことを落とすわけにはいかない。「……生等今や見敵必殺の銃剣を提げ、積年忍苦の精進研鑽を挙げて悉く此の光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず。……」。これは東大生江橋慎四郎の答辞の一節である。この「生等もとより生還を期せず」は、当時の老若男女の心に深く響き、いまも記憶する人が多い。ときに1943年10月21日。所は神官外苑である。このとき集結した出陣学徒の数は? 正確には不明である。ほぼ二万五千名といわれている。

 『残日録』に戻ろう。上記の出陣学徒壮行大会の記事が記載されている。それは次のようにまとめられている。

(11)10月21日
雨の出陣学徒壮行大会


「御国の大御宝なのである」

「諸君はその燃え上がる魂、その若き肉体、清新なる血潮、すべてこれ御国の大御宝なのである。このいっさいを大君の御為に捧げたてまつるは、皇国に生を享けたる諸君の進むべきただ一つの途である。」
 東条英機首相はそう高らかに演説した。

「諸子の心魂には、三千年来の皇国の貴き伝統の血潮が満ちあふれている」
 岡部長景文相も精一杯の大声をだしていった。

 この年の10月21日、秋雨の冷たく降りそそぐ明治神宮外苑競技場でおこなわれた文部省主催の「出陣学徒壮行大会」においてである。東京と近県の大学、高等学校、専門学校と師範学校77校から、2万5千人の学生が勢ぞろいした。スタンドには6万5千人の後輩や女子学生が見送りに集まっていた。

 こうして国家指導者からほめあげられ激励されて出陣した多くの勇者は、往きて還らず、空しく消えた。若ものたちがおだてられ、もちあげられるときは、国のりIダーたちが何事か企んでいるときである。「今どきの若ものは」と、若ものの値段が安いときほど、平和なのであるな、とつくづく思う。

 とうとう学生まで徴兵しなければならなくなった程に切羽詰まっていたて日本は、東南アジア諸国の援助を得ようと企てたが…。

(12)11月5日
大東亜会議の開催


「一つの家族の集まりだ」

 中国は汪兆銘行政院長、満洲国は張景恵総理、フィリピンはラウレル大統領、ビルマはバーモ首相が来日した。だれもがあまり浮かない顔をしていた。タイのビブン首相は健康がすぐれず、という理由をつけ、ワン・ワイタヤコン殿下が代理した。また、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班も臨席する。

 これらアジアの要人を東条英機首相はニコニコ顔で出迎えた。なんども握手させられたホースだけは「これは、一つの家族の集まりだ」と、お追従をいっていた。1943年11月5目、東京で大東亜会議が聞かれたときの光景である。

「米英のいう世界平和の保障とは、アジアにおける植民地搾取の永続化による利己的秩序の維持にほかならない」
と東条は獅子吼したが、だれもが白けた顔をしていたという。

 すでに軍事的に完全に苦境に立っていた日本側は、アジアの盟主としての度量を見せようと盛んにPRしたが、各国は「笛吹けど踊らず」、無意味にして盛大なお祭りであった。

 日本帝国が描いた大東亜共栄圏は蜃気楼でしかなかったのか。

 次に『探索 6』から「大東亜共同宣言」を原文転載する。高らかに共存共栄を謳うなかなかすばらしい宣言だと思うが、これまでに日本からさまざまな苦汁を飲まされてきた東南アジア諸国が此の段になってのこの宣言を信用するわけがない。全諸国からそっぽを向かれて当然である。


大東亜共同宣言(昭和十八年十一月六日)

抑々世界各国カ各其ノ所ヲ得相倚り相扶ケテ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ
然ルニ米英ハ自国ノ繁栄ノ為ニニハ他国家他民族ヲ抑圧シ特ニ大東亜ニ対シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亜隷属化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亜ノ安定ヲ根抵ヨリ覆サントセリ大東亜戦争ノ原因茲二存ス
大東亜各国ハ相提携シテ大東亜戦争ヲ完遂シ大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衛ヲ全ウシ左ノ綱領二基キ大東亜ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立二寄与センコトヲ期ス
一、大東亜各国ハ協同シテ大東亜ノ安定ヲ確保シ道義二基ク共存共栄ノ秩序ヲ建設ス
一、大東亜各国ハ相互二自主独立ヲ尊重シ互助敦睦ノ実ヲ挙ケ大東亜ノ親和ヲ確立ス
一、大東亜各国ハ相互ニ其ノ伝統ヲ尊垂シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亜ノ文化ヲ昂揚ス
一、大東亜各国ハ互恵ノ下緊密ニ提携シ其ノ経済発展ヲ図り大東亜ノ繁栄ヲ増進ス
一、大東亜各国ハ万邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廃シ普ク文化ヲ交流シ進ンテ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢献ス

              〔日本外交年表並び主要文書〕

 これまでたどってきた通り、どの観点から見ても日本の敗北は明らかである。『残日録』・『探索 6』がともに取り上げていないのだが、この年(1943年)の11月27日に米英中の三首脳(ルーズベルト・チャーチル・蒋介石)がエジプトのカイロで対日戦について協議・発表したカイロ宣言がある。1943年の最後の記事として、それを『史料集』から転載しておこう。


カイロ宣言(日本国に関する英、米、華三国宣言)

 三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ。右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス。又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
 右同盟国ノ目的ハ、日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界大戦ノ開始以後ニ於テ日本国力奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケルー切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト、並ニ満州、台湾及澎湖島ノ如キ日本国力清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域 ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
 日本国ハ又暴力及貪欲ニ依り日本国ノ略取シタル他ノー切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ
 前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態二留意シ、軈(やが)テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
 右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ、日本国ノ無条件降伏ヲ齎(もたら)スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ
              〔日本外交年表並び主要文書〕
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