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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(37)

1942年(7)~(11)

(7)5月22日
加藤隼戦闘隊長の戦死


「エンジンの音轟々と……」

《 エンジンの音轟々と/隼は征く空の果て
「加藤隼戦闘隊」の歌(田中林平・朝日六郎作詞、原田善一・岡野正幸作曲)を、若い人は知らないかもしれない。隼を「はやぶさ」と読むことも、あるいはできないのではあるまいか。

 「加藤の前に加藤なく、加藤の後に加藤なし」といわれた陸軍中佐加藤建夫(たてお)が、イギリス軍爆撃隊と交戦し被弾、ベンガル湾上に自爆、戦死したのは1942年5月22日のことである。死後に2階級特進し「空の軍神」として顕彰される。

 そんな華々しい武人としてより、遺された『陣中日誌』の文字のほうが胸を打つ。

「"オイが死んだら誰が泣いてくりょか、裏の山椒の木、蝉が泣く"。美しき心境かな。ようやく軽く死にたきもの。しかれども予はこれ能わず。これより死に直面せし時、予が覚ゆる唯一の苦痛ならん」
「生者必滅、かつて国語で読みまた書きし語。いまようやく心に銘ず。やがて信念となる日も近からん」

 武人も人間らしく"死"を見つめていたのである。

(8)6月5日
ミッドウェイ海戦の敗北


「驕慢の一語につきます」

 1942年6月5日、中部太平洋ミッドウェイ海域――。

 世界最強を誇っていた日本海軍の機動部隊の主力たる赤城、加賀、飛龍、蒼龍の四空母は、赤黒い炎、黒褐色の煙をふきあげて漂流していた。格納庫にはガソリンを満載した飛行機があり、魚雷や爆弾がごろごろころかっていたため、悲劇的な誘爆がはしまり、手のつけようもなかった。

 私はかつて機動部隊参謀長の草鹿龍之介に面談、敗因を問うたことがある。草鹿は表情を固くして、「驕慢(きょうまん)の一語につきます」といったきり、あとはおし黙った。

 その言のとおり、ミッドウェイ海戦の完敗は、驕慢からくる油断と自分勝手と命令違反にあることがわかる。すべて人のなせることであり、「運命の5分間」などという偶然のせいなんかではなかった。

 また、敵将スプルアンスにも取材したことがある。彼はくり返し語った。「まったくの幸運であった」と。

 日本の敗戦はこのときにはじまる。『大本営秘密日誌』には「知らせぬは当局者、知らぬは国民のみ」と不敵にも記されている。

 太平洋戦争の主導権が米軍の手に渡る切っ掛けとなったこの「ミッドウェイ海戦の敗北」に至るまでの経緯を追ってみよう。『昭和史探索・6』から転載する。


 大日本帝国は、対米英開戦にさいして、どんな戦争終結の構想を描いていたのか。

 開戦直前の1941年11月15日に大本営政府連絡会議は終戦構想について十分に話し合っている。そして、その結論は――、

 初期作戦が成功し自給の途を確保し、長期戦に耐えることができたとき。

 敏速積極的な行動で重慶の蒋介石が屈伏したとき。

 独ソ戦がドイツの勝利で終わったとき。

 ドイツのイギリス本土上陸が成功し、イギリスが和を請うたとき。
 こうした事態が起きたとき、いかに強力な軍事力を誇ろうが、アメリカは戦意を喪失するであろう、そのときには栄光ある講和にもちこむ機会がある、というのがその骨子であった。とくに③と④とはかならず近く実現するものと信じた。ゆえにわれに勝算が必ずあるものと見積もった。要するにドイツの勝利をあてにしたのである。

 ところが歴史は皮肉そのものなのである。12月8日、日本の機動部隊が真珠湾攻撃であげた大いなる戦果に日本人が有頂天になっているとき、頼みのドイツ軍はモス クワ正面の戦線で、おりからの吹雪のなかに総退却を開始していた。つまり、事実として、この戦争でのドイツの勝利は夢のまた夢と化しはじめていたのである。

 はたして日本の指導層にそうした厳しい認識があったかどうか。
 開戦後の6ヵ月、"ナイフでバターを切るようなやさしさ"で南方攻略作戦は進んだ。字義どおり連戦連勝である。指導者(とくに陸軍)は、この戦争をこれまでどおり敵の名の「対米英戦争」、または戦場となる場所の「太平洋戦争」ではなく、「大東亜戦争」と呼称することにした。表面の理由は、日支事変もこれに加えて、ということであったが、実はソビエトとの一戦を構想に描いていたのである。全アジアを舞台にした戦争の意である。それ以前の対米英戦争など、いわば朝飯前という驕慢が底に流れていた。緒戦の凱歌により軍部は"無敵"の宣伝をみずから信じてしまった、というほかはない。

 1942年6月のミッドウェイ海戦が戦争の運命を決めた戦いと呼ばれるのはその意味でまことに正しい。この日本の敗北を機に戦闘の主導権は米軍の手に渡った。短期決戦による講和の道は厚く閉ざされ、これから後は日本が(とくに海軍が)恐れていた物量対物量の消耗戦に否応なく引き込まれていくことになる。このあまりにもむごい戦闘の典型が、8月上旬から戦われたガダルカナル島攻防戦であった。

 そのむごい戦闘「ガダルカナル島攻防戦」関連の記事を『残日録』から取り出して見よう。

(9)10月18日
猛牛ハルゼイ、ソロモン戦線へ


「リメンバー・パールハーバー」

 8月いらい、ガダルカナル島の一本の滑走路の争奪をめぐって、日米両軍は死力をつくして戦いをつづけた。前進基地のラバウルから片道1000キロ、零戦の航続距離いっぱいの戦いで、日本軍の不利は否めなかった。が、実は米軍の総指揮官ゴームレイ中将はひどい損耗をうけ、上層部に撤退を意見具申するほど抗戦意欲をなくしていた。

 その弱気のゴームレイに代わって"ブル"(猛牛)の異名をもつハルゼイ中将がこの南太平洋方面の全指揮をとることになったのが1946年10月18日。大袈裟にいえば、昨日までのヨレヨレとはまったく別の、元気横溢の頑強な軍隊がガ島に布陣することになった。兵は指揮官によっていかようにも変貌するのである。

 ブル・ハルゼイの第一声は「ジャップを殺せ、ジャップを殺せ、そしてジャップを殺しつづける。それだけだ」という闘志溢れるものであった。

 それを受け「リメンバー・パールハーバー」すなわち真珠湾の仇を討て、をいまや合言葉に、ガ島の将兵は、俄然、日本兵を全員殺すまで戦い抜くという勢いで歯向かってきた。結果論でいえば、ハルゼイの赴任は日本軍にとって最高に不幸なこととなった。

 やかて口から口へと広まり、それは全アメリカ人の一大スローガンとなっていった。

(10)11月12日
第三次ソロモン海戦


「戦艦の世紀・最後の一戦」

 日露戦争の日本海海戦、第一次世界大戦のときのジュットランド海戦によって象徴されるように、20世紀初頭は、戦艦が海戦の主力で巨砲を撃ち合って勝者が制海権を獲得した。つまり20世紀は依然として「戦艦の世紀」がつづいていた。

 ところが、太平洋戦争においてはすっかり様相が変わった。大鑑巨砲は時代遅れとなり、空を制するものが海もまた制した。巨艦も飛行機の攻撃の前に「不沈」を誇るわけにはいかなくなり、主役は空母に代わった。

 その太平洋戦争において、戦艦同士が巨砲を撃ち合った海戦がある。ガダルカナル島の争奪をめぐって、1942年11月12日から15日にかけて3日間戦われた第三次ソロモン海戦である。

 日本海軍は比叡、霧島の古老の2隻。米海軍はワシントンとサウス・ダコタの新鋭の2隻。
 とくに比叡沈没後の霧島の奮戦は、敵戦艦2隻を相手に見事であった。至近弾を含めて受けた砲弾75発、うち直撃9発をうけ火に包まれた(後に自沈)。狭い海峡で近距離での砲撃戦であったため、主砲をほとんど射出ゼロの状態にして日米の戦艦は撃ち合ったのである。まことに凄まじい戦いであった。

(11)12月31日
ガダルカナル撤退の決定


「年末も年始もない」

 1942年12月27日、参謀総長杉山元大将はありのままを昭和天皇に報告した。ガダルカナル島ではとくに食糧不足が極度となり、木の芽や草の根で将兵は露命をつないでいる状況であり、空中補給すらもできない危機にあると。翌日、侍従武官長を通し天皇の言葉が大本営に伝えられてきた。
「事態はまことに重大である。このガ島危機をいかにするかについて、大本営会議をひらくべきであると考える。このためには年末も年始もない。自分はいつでも出席するつもりである」

 軍の最高統帥者としての天皇の失望と怒りとが、この強烈な言葉にこめられている。12月31日午後2時から、宮中の大広間で御前会議がひらかれ、ここにやっとがガ島奪回作戦が中止され、陸海協同し、あらゆる手段をつくして在ガ島の部隊を撤収することがきまった。

 そして翌年2月に実施された撤退作戦は奇跡的に成功する。 悲惨な餓死の運命からまぬかれ、救出された将兵は1万6百52名。大本営はこれを「撤退」ではなく、新らしい戦場への「転進」と発表した。

 「撤退」を「転身」と姑息な言い換えをしているが、これは1943年の記事で改めて取り上げられる。
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