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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(36)

1942年(1)~(6)

 1942年1月に連合国26ヵ国の共同宣言が採択され、第二次世界大戦は文字通りの世界大戦となった。国際的には第二次世界戦争と呼ばれているが、日本とアメリカの主戦場は太平洋だったので、日本では一般には「太平洋戦争」と呼んでいる。このブログでは記事の内容に則して使い分けていくことにする。

 1942年に於ける第二次世界大戦の主な出来事は次の通りである。
1月
 ・連合国26ヵ国の共同宣言
2月
 ・シンガポール陥落
4月
 ・米艦載機、東京や名古屋等を初空襲
5月
・英、独空襲
6月
 ・ミッドウェー海戦
8月
 ・米海兵隊、ガダルカナル島上陸
12月
 ・原子核分裂成功
 ・この頃、独、ポーランドのアウシュヴィッツ等でユダヤ人を大量虐殺

 戦争に本格的に突入すれば、国家は見境無く戦費調達のためのあの手この手を使いまくる。まず、こんな手を使ってきた。

(1)1月20日
衣料切符制の実施を決定


「背広50点、ツーピース27点」

 暖衣飽食の世である。住はともかく衣食に関して日本中どこでも、これがなくて困るというものがない。そんないい時代に生まれ育った人たちには、およそ想像もできない一つの事実を、記録として残しておきたい。「ぜいたくは敵だ」として、着るものがすべて点数制できめられ、よう買えなかったという話である。

 戦時下の日本、何から何まで不足で、1942年1月20日、衣料切符が交付されることになった。都市居住者は1年に100点、郡部の居住者は80点、この点数内で衣料品の購入がみとめられた。
 背広三つ揃・50、ツーピース・17、袷(あわせ)きもの・48、単衣・24、学生オーバー・40、スカート・12、ブラウス・8、Yシャツ・21、ズロース・4、セーター・20、靴下・2、パジャマ・40、毛布・40、敷布団・24、掛布団36、タオル・3。
 ただし結婚する女性は別に500点がとくに増配された。

 いかがなものか。平和をおう歌していい気になってばかりいると、またこんな時代が到来しないとも……。

 戦費を集めても、金では手に入らない戦時品もある。

(2)2月14日
パレンバン降下作戦


「見よ落下傘、空を征く」

 戦争中にしきりに歌われた軍歌のなかに、「空の神兵」という名曲(?)がある。いまでもお年寄りが死者への鎮魂の思いをこめて歌っている。
 < 真白きバラの花模様……見よ落下傘空を征く
 梅木三郎作詞、高木東六の作曲であるが、この陸軍落下傘部隊がスマトラ島パレンバン一帯に降下しだのが、開戦まもない1942年2月14日。目的は、東南アジア第一 の油田地帯と製油施設とを、オランダ軍が破壊する以前に占領し、確保しようというもの。太平洋戦争のいってみれば生命線を守らんがための奇襲である。アメリカに石油輸出をとめられた日本帝国としては、東南アジアの石油確保なくしては、戦争の長期継続は不可能なのである。

 ところがこの降下作戦は軍歌のように、きれいに明るい戦いというわけにはいかなかった。目標の周辺はジャングルあるいは大湿地帯で、ようやく降下しても武器が手に入らず、身につけていたピストル一丁で戦わねばならぬ兵も少なくなかった。

 「3人集まったらちゅうちょなく突進」の約束に従い小集団が製油所や飛行場に捨て身でとっしんしていった。こうして将兵300人見事に作戦を成功させた。

(3)2月15日
シンガポール陥落す


「イエスか、ノーか」

 紀元節(2月11日・現建国記念の日)までに攻略すべく、2月8日に火ぶたを切ったシンガポール攻略戦は、イギリス軍の頑強な抵抗に少なからず悩ませられた。守る英軍に比して、攻める日本軍はあまりにも寡兵である。それに十分な補給もない。それだけに、英軍司令官パーシバル中将以下が白旗をかかげて、最前線に姿をみせたときは日本軍もホッとするものがあった。日本軍の弾薬は底をつきかけていた。

 軍司令官山下奉文(ともゆき)中将は、ただちにブキテマ高地北方の自動車工場で、パーシバル中将と会談した。ここで山下が「無条件降伏、イエスか、ノーか」とテーブルを叩き大声でせまった、ということになっている。しかし、それは山下自身がのちのちまで喜ばなかった戦意高揚のための作られた話であったのである。
 原因は通訳にあった。英軍が連れてきた通訳は日本語がへたで、さっぱり意が通じなかった。山下はそれにいら立ったのである。イエスかノーかもわからん、もっとはっきり通訳せよと。

 1942年2月15日は、山下にとっては栄光の日とともに、心ならずも痛恨を歴史にとどめた日でもある。

(4)2月22日
作家ツヴァイクの自死


「理想はつねにゆがめられる」

「あらゆる政治運動というものは、人間的なものからみれば、つねに陰惨で暗澹とした色彩を有す。どのような高尚な理想であっても、現実の地上に具体化された場合には、つねにその理念の姿はゆがめられている」

 オーストリアの作家ツヴァイクの言葉である。作品『マリー・アントワネット』のなかにでてくる。恐ろしい言葉である。二十世紀を通して現実の世界政治をみていると、まったくその通り、と思いたくなる。理想や理念はいつも消される。汚される。そうであればあるほど、人類の明日が信じられなくなってくる。

 第一次大戦そして第二次大戦と、二十世紀は、ヨーロッパにおいては殺りくと暴行のつづく戦争の世紀であった。彼は絶望した。その上に、穏やかであったアジアもまた戦火に。かくて全地球が燃え上がった。1942年2月「日本軍がシンガポール占領」の報をみて、彼は自死を決意する。

 2月22日深更、
「長い長い夜の後で、必ずや曙光を見ることができるでしょう。あまりにもせっかちな私は、先立って参ります」
という遺書を残し、自殺した。

 絶望的な殺戮が大手を奮う戦争時代に、「必ずや曙光を見ることができるでしょう」という思いを持ちながらも自死を選んだツヴァイクさんの絶望の深さを思えば何ら批判的なことは言えないが、そうした絶望の中でも闘っていった人たちもいた。私ならどうするか。薄っぺらい今の私には答えるすべがない。

(5)4月18日
ドウリットル爆撃隊の初空襲


「抑留同胞に悪影響を及ぼす」

「わが軍の防御は鉄壁であり、本土爆撃ということなどありえない」

 日本陸軍は、太平洋戦争がはじまってからも常に豪語していた。ところが、この年の4月18日、東京、名古屋などが初空襲されたのである。

 犬吠埼のはるか東方の洋上、空母から飛び立ったのはドウリットル中佐指揮のB25爆撃機16機。これが不意をついて日本本土上空に飛来した。被害は軽微であったが、国民には恐怖を与え、陸軍の面子は失われた。

 ところが、中国本土でB25二機が日本軍陣地付近に不時着し、陸軍は搭乗員8名(2名戦死)を捕虜にした。こうなると陸軍中央部はがぜん勇み立つ。米軍機は一般市民も銃撃し殺傷したゆえ、戦時国際法違反である、全員死刑にすべし、の声がいっぺんに高まった。

 待ったをかけたのが東条英機首相兼陸相である。
「それはいかん。米国に抑留されている同胞に、非常な悪影響を及ぼす」
 さらに東条は昭和天皇にかけこみ訴えをして、やっと死刑は直接銃撃した三人にとどめることができたのである。

 敗戦間際以前にアメリカ軍による本土への空襲があったことなど、私は全く知らなかった。

 私は戦争そのものを憎むし、戦場に駆り出された人や空襲で殺された人たちたちの死を深く悼む。そして国際法を全く知らないくせに口出しをすれば、東条の「待った」は正しいと思うが、「直接銃撃した三人」も同じ捕虜として扱うべきではなかったか、と思う。

(6)5月8日
灯火取締規則の制定


「非国民め!」

 ごく最近の世界をみても、コソボ虐殺をめぐるユーゴにたいするNATO軍の昼夜にわたる猛爆。アフガニスタンやイラクヘの米英空軍の大空襲。地球は絶えずどこかで火を噴いている。空襲警報のサイレンの鳴る下に、灯火管制をした市街の様子がTVに映るのを眺め、われらの生活も昔はああであったと、いささかの感慨にふけることがしばしばである。

 高齢化社会ゆえ、記憶する人も多いと思うが、太平洋戦争下の日本には灯火取締規則という法令があった。要は敵の空襲に備えて、家庭で使用している電灯の光を直接外部にもらしてはならぬ、というものである。1942年5月8日に制定された。

 そこで各家庭は電灯の笠を黒い布でおおって、光が窓外にもれぬよう細心の注意をはらった。それでなくても暗い世相、みんなが真っ暗な中で呼吸をひそめて生きていた。光を外にもらそうものなら、「非国民め!」と糾弾される。それはひとり暗やみにおかれるように、怖いことであった。そんな時代が二度と来るとは思わぬが。

 何度も言うが、私はそんな時代がまた来るという大きな危惧に囚われて、「昭和の15戦争史」を始めた。
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