2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(35)

1941年(15)~(19)

「ハル・ノート」を突き付けられて、日本の支配階級内ではどのような議論が交わされていったのか。

(15)11月29日
対米戦争、最後の重臣会議


「理想のため国を滅ぼすな」  11月26日の「ハル・ノート」によって、東条英機内閣は「日米開戦もやむをえない」と最終的決意をかためた。そして昭和天皇の「重臣たちの意見も聞くように」との意向をうけ、この年の11月29日に、重臣会議が皇居内でひらかれた。首相経験者8人の重臣が出席した。東郷茂徳外相の
「もはや交渉による妥結は不可能である。すなわちアメリカは対日戦争を辞せずとの考えである」
という説明をうけて、かれらは最後の討議を熱心にかわした。

 戦争突入に反対の意見をのべたのは、若槻礼次郎、岡田啓介、米内光政の三重臣である。とくに若槻と東条の論戦は歴史に残る。自存自衛のために戦うというのならともかく、八紘一宇といった理想のために目をくらましてはならぬ、と説く若槻に、東条は反発した。
「理想を追うて現実を離るるようなことはせぬ。が、理想をもつことは必要だ」
 若槻はびしりといった。
「理想のために国を滅ぼしてはならぬ」と。

 結果は、夢想に近い理想のために国を滅ぼした。

 つまり、日本は対英米戦争の開戦を決定した。  日本が対米英戦争を決定したが、同盟国のドイツは対ソ連戦で苦戦をしていた。

(16)12月5日
ドイツ軍の退却がはじまる


「寒さで部隊の力が尽きた」

 日本はナチス・ドイツのヨーロッパ戦線での勝利をあてにして、ついに対米英戦争の開戦を決定した。12月2日の御前会議において。  その三日後、すなわち1941年12月5日、モスクワからわずか30キロの地点にまで攻め入ってきたドイツ国防軍は、後方からの補給も杜絶した上に、ソ連軍の猛烈なる反撃をうけて後退を開始、勝利の目はなくなっていた。まさしく歴史の皮肉とはこのことである。

 ソ連軍の反撃のはじまったこの朝、寒風吹きさらしの台地に、ロシアのきびしい冬がきており、マイナス50℃にまで気温は下がった。ソ連軍は冬の装備を完ぺきに調えていた。ドイツの猛将グーデリアン将軍はいった。
「燃料供給困難と寒さで部隊の力が尽きた。各連隊は凍傷ですでにそれぞれ500人は失っており、寒さのため機関銃は火を噴かなくなり、対戦車砲は発射せず、ソ連のT34戦車にたいしては無力となった」

 ヒトラーの「断固として現在位置で抗戦せよ」の命令も空しくなり、電撃作戦による「無敵ドイツ」の華々しい歴史は終わる。

 浅い知識しか持たなかった私は対英米戦の開始は日本の真珠湾攻撃から、と思い込んでいたが、同じ日であるがその前に西太平洋で戦闘が始まっていた。

(17)12月8日
対米英戦争開戦の日


「無念の思いを哨らすとき」

 1941年12月8日午前7時。ラジオは大本営陸海軍部発表の臨時ニュースを報じた。
「午前6時発表――帝国陸海軍部隊は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

 この日のことを、いまなおくっきりと思い描ける人も少なくはないであろう。小学校5年生であったわたくしはほとんどの大人たちが、小学校の先生たちが、晴れ晴れとした顔をしていたことを記憶している。

 この日、評論家の小林秀雄は
「大戦争が丁度いい時に始ってくれたという気持なのだ」
といい、亀井勝一郎は
「勝利は、日本民族にとって実に長いあいだの夢であった。……維新いらい我ら祖先の抱いた無念の思いを、一挙にして晴らすべきときが来た」
と書き、作家の横光利一は、
「戦いはついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝った」
と感動の文字を記した。

 この人たちにしてこの感ありで、ほとんどの日本人が気も遠くなるような痛快感を抱いた。この戦争を尊王攘夷の決戦と思ったのである。なんでまた、といまは思うが。

 いわゆる知識人と呼ばれる人たちのこの体たらくぶりに私はビックリしている。わずかな人を除いて日本中が沸き返っていたのだ。

 現在を新たな戦争前の状況という認識から「昭和の15戦争史」を始めたが、現在の日本人もいざ戦争となると15年戦争時と同じ振る舞いをしてしまうのだろうか。いや、それ以前に、戦争を企む1%階級から権力を奪還しなければ、と考える人が多数を占めるようになるのだろうか。私はなんとも心許無い状況だと思っている。

(18)12月8日
ルーズベルト米大統領の演説


 「だまし撃ち」  開戦初頭、わが機動部隊は米軍港の真珠湾を奇襲攻撃した。これに関連する名言として、「ニイタカヤマノボレ 十二〇八」(開戦日は12月8日と決定す、予定通り行動せよ)とか、「トトトトトト」(全軍突撃せよ)とか、「トラトラトラ」(われ奇襲に成功せり)とか、のちに広く知られるようになった暗号文がある。

 が、日本人にとって教訓とすべきは、12月8日午後1時(日本時間9日午前3時)ルーズベルト米大統領が上下両院合同会議で読み上げた教書のなかの一文であろう。
「12月7日は汚辱のなかに生きる日であります。(略)日本の航空隊がオアフ島を爆撃してから一時間後に、日本大使とその同僚は、最近のわが提案への公式回答をもって国務長官を訪問したのであります。(略)日本とハワイ間の距離を考えると、日本の攻撃が何日も、いや何週間も前から計画されたことは明かです。日本政府は、謀計によりアメリカをだまし撃ちにしたのであります」

 この「汚辱の日」(the day of infamy)、「だまし撃ち」(trecherous attack)、この二つの言葉が、アメリカ国民を団結させ、奮起させたことは事実である。日本国民はその無通告攻撃という汚名を永遠に雪ぐこともできないでいる。

 『残日録』は1941年の最後の記事で戦艦大和を取り上げている。

(19)12月16日
巨大戦艦大和の竣工


「質をもって勝たねばならぬ」

 1941年12月16日、対米英戦争の開戦に遅れること8日、世界最大の戦艦大和が竣工した。航空第一主義の山本五十六連合艦隊司令長官も、その雄姿をみて思わず
「ウム、あるいはこの艦があれば……」
とうなったという。

 基準排水量6万2315トン。全長263メートル、幅39メートル。46センチ主砲九門。でっかい主砲は富士山の二倍の高さを飛び、42キロ先の厚さ40センチの鋼板をぶち抜く。乗組員2500名。

 こんな超強力な大砲をのせる巨大な戦艦を、1937年11月起工いらい5年、なけなしの予算をはたいて日本が建造したのも、アメリカにはパナマ運河を通らねばならぬ 制約があって、幅33メートル以上の艦は造れない。つまり大艦巨砲の艦隊決戦でだんぜん優位にたてるからである。

 「国富の差は量ではかなわぬ、質をもって勝たねばならぬ」という貧乏国日本の海軍の悲願にもとづいたものであった。

 しかし戦争がはじまると大艦巨砲はもはや時代遅れになっていた。飛行機の時代が訪れていた。不沈艦というものは幻影にすぎなかった。

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