2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(34)

1941年(10)~(14)

 次の記事はソ連に侵攻したドイツ軍に抵抗したレニングラードの人たちのエピソードである。

(10)9月8日
レニングラード包囲さる


「都市がまるで交響楽だった」

 ソ連第二の都市レニングラード(現サンクトペテルブルク)は、フィンランド湾の奥まったところにある。西に軍港があり、戦略上のそもそもから、ドイツ軍には魅力的な獲物としてみられていた。

 1941年9月8日、進攻したドイツ軍はこの大都市を完全に包囲した。ところが、ここで300万以上の市民とそれ以上の軍人が閉じこめられながら、実に900日にわたる一大攻防戦を頑張り抜いた。

 この凄惨な戦いのなかに消防隊員として奮戦しつづけた作曲家がいる。ショスタコービッチである。彼は戦いながら第七交響楽を完成させた。その第一楽章の、小太鼓の猛烈な連打は、戦場の体験そのままであったのかもしれない。

 戦後に観たソ連映画「レニングラード交響楽」の感動も記憶に残る。戦線のいたるところから、戦っている演奏家たちが呼び集められる。彼らの奏でる曲が電波にのって流れ、反撃のさかんなる意思を歌いあげた。戦士がいう。
「一つの都市がまるで交響楽のようだった」と。
 まさにそんな感じの映画であった。

 さて、日本に戻ろう。

(11)10月18日
東条内閣の成立


「虎穴に入らずんば……だね」

 1941年10月18日、近衛文麿が突然に内閣を投げ出し、東条英機内閣が成立した。日米交渉がいよいよせっぱつまり、和戦の関頭に立っているとき、なぜ対米強硬派の東条が首相に選ばれたのか、近代史のナゾの一つである。 『東久邇日記』にある。
「東条は日米開戦論者である。このことは陛下も木戸内大臣も知っているのに、木戸がなぜ開戦論者の東条を後継内閣の首班に推薦し、天皇陛下がなぜご採用になったのか、その理由がわからない」と。

 木戸の意図は、天皇にたいし忠義一途の陸軍の代表者東条に責任をもたせることによって、陸軍の開戦論を逆におさえこむという苦肉の策であったという。東条なら、自分がうまくコントロールできるという自信が、木戸にはあった。つまり木戸を中心とした宮廷政治のリモコンが、天皇の名を使うことで、天皇に忠誠なる東条にならきくと考えたのである。天皇も、木戸の意図を聞いてそれを採用し、
「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」
 と感想をもらした。しかしその虎児は……。

 この誤った人選が日本を対米英戦争にのめり込ませた。

(12)11月5日
対米英戦争を決意した日


「いまがチャンスなのだ」

 11月2日の大本営政府連絡会議のクライマックスはつぎの問答であった。

賀屋興宣蔵相
 「私は米国が戦争をしかけてくる公算は少ないと判断する。結論として、いま戦争を決意するのがよいとは思わない」
東郷茂徳外相
 「米艦隊が攻勢に来るとは思わない。いま戦争をする必要はない」
永野修身軍令部総長
 「来らざるをたのむなかれ、という言葉もある。さきは不明だ、安心はできぬ。3年たてば、南の防備が強くなる。敵艦もふえる」
賀屋
 「しからば、いつ戦争をしたら勝てるのか」
永野
 「いま! 戦機はあとには来ない。いまがチャンスなのだ」

 永野の頭のなかには、海軍力が対米7割を保持していれば負けることはない、という海軍伝統の戦略があった。そして、いまがその7割を保持しているとき。

 こうして大日本帝国は「自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設するため、このさい対米英蘭戦争を決意す」という「国策遂行要領」を決定する。

 1941年11月5日の御前会議で、この国策は正式に決定された。戦争は事実上このときにはじまった。

( 「国策遂行要領」の本文は前回の末尾に掲載した。)

 次の記事は、無謀な戦争を遂行するためには戦力として「少国民」まで徴用使用することを取り上げている。

(13)11月22日
「国民勤労報国協力令」公布


「少国民」

 この年の11月22日、太平洋戦争に日本が突入する直前のこの日、「国民勤労報国協力令」が公布された。議会の審議を必要としない天皇大権で発せられる勅令であっ た。しかも、これは強制命令にはあらず、国家緊急時には名誉と心得て率先協力する義務がある、という注釈がついていた。つまり評論家の小沢信男氏のいう「自発性の強制」というわけである。

 しかも、この年の10月には「青壮年国民登録」が実施されている。男子は16歳以上40歳未満、女子は16歳以上25歳未満(いずれも数え年)で、配偶者のないものはすべて登録させられた。国民の"根こそぎ動員"の準備はここに着々と整えられていたのである。(のち1945年にこれが15歳以上の国民義勇隊となる)

 ついでに書くと、当時「少国民」という言葉があった。16歳未満もまた、戦争遂行のための一種の「予備軍」、小さな戦士なのである。わたくしはこのころは少国民であったが、やがて国民義勇隊員となったわけである。

 かくて敗戦までに徴用されたもの160万人、学徒動員300万人、女子挺身隊47万人に及んだ。「自発性の強制」は国家によって見事に実施されたのである。

 アメリカの中立主義の見直し以来行なわれていた日米交渉は相変わらず行き詰まったままだった。日本からは交渉進展を図るため、最終提案として甲案・乙案を提出していたが、それに満足せず、業を煮やしたアメリカはアメリカ側の最終案を日本に突き付けた。この最終案は「ハル・ノート」と呼ばれている。『残日録』からの次の記事はこの「ハル・ノート」が取り上げられている。その記事を読む前に、『史料集』から「ハル・ノート」の抜粋文(ハル・ノートは10項目からなる)を転載しておこう。
ハル・ノート(合衆国及日本国間協定ノ基礎概略)

 合衆国政府及日本国政府ハ左ノ如キ措置ヲ採ルコトヲ提案ス

 合衆国政府及日本国政府ハ英帝国・支那・日本国・和蘭・蘇連邦・泰国及合衆国間多辺的不可侵条約ノ締結ニ努ムヘシ

 日本国政府ハ支那及印度支那ヨリ一切ノ陸、海、空軍兵力及警察力ヲ撤収スヘシ

 合衆国政府及日本国政府ハ臨時ニ首都ヲ重慶ニ置ケル中華民国国民政府以外ノ支那ニ於ケル如何ナル政府若クハ政権ヲモ軍事的、経済的ニ支持セサルヘシ

 両国政府ハ外国租界及居留地内及之ニ関連セル諸権益竝ニ1901年ノ団匪(だんぴ)事件議定書ニ依ル諸権利ヲモ含ム支那ニ在ルー切ノ治外法権ヲ抛棄スヘシ。……

 両国政府ハ其ノ何レカノ一方カ第三国ト締結シオル如何ナル協定モ、同国二依リ本協定ノ根本目的即チ太平洋地域全般ノ平和確立及保持ニ矛盾スルカ如ク解釈セラレサルヘキコトヲ同意スヘシ

(注:団匪事件)
 北清事変(義和団事変)をさす。北京議定書(辛丑しんちゅう和約)で日本は軍隊の華北駐留権を得た。

 それでは『残日録』の該当記事を読んでみよう。

(14)11月26日
「ハル・ノート」の手交


「これからは陸海軍の番だ」

 1941年11月26日、アメリカの国務長官ハルが一通の文書を日本の野村吉三郎大使に手渡した。それは日本の最終提案乙案にたいする返事で、のちに「ハル・ノート」とよばれるものである。10項目にわたる本文の最重要点はつぎの三つである。
  1、中国と仏領インドシナからの日本軍の撤退。   2、日独伊三国同盟の死文化。   3、中国での蒋介石政権以外の政府または政権を支持しない。

 当時の日本の指導層はこれを読んで声を失った。これではこれまでの交渉はなかったと同じことであまりにも強引にして無理な要求として、この文書が読まれたからである。

 とくに中国(Chinaには満洲も合まれていると思った)からの全面的撤退は、日露戦争前の日本に戻れといわれているにひとしい。日本の過去の全否定で、とりようによっては〈最初の一発〉を射たせようとしているとも解釈できた。

 事実、ハルは翌日にスチムソン陸軍長官に
「僕はもうこの問題から手を引いた。これからは君たち陸海軍の番だ」
と語っている。

 最後のハルの談話は敢えて日本を挑発していると読めるが、実際はどうだったのか。詳しく知りたいとネット検索をしたら、『南京事件-日中戦争 小さな資料集』
というとても優れたサイトに出会った。今回の問題だけでなく、「昭和の15年戦争史」に関するいろいろな問題の参考にできると思った。その中から、今回の問題関わる記事を紹介しておこう。
『日米交渉 日本側最終提案』
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