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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(32)

1941年(5)~(9)

 「日ソ中立条約」はソ連がドイツの動向を睨んで締結した条約だった。そのソ連の危惧した通り、ドイツはソ連に侵攻する。

(5)6月22日
バルバロッサ作戦の開始


「共産主義者は戦友ではない」

 "壮大な"ともいえるドイツ軍のソ連進攻作戦「バルバロッサ作戦」は、1941年6月22日未明、午前3時15分ごろに開始された。総統ヒトラーは、対ソ宣戦布告を夜明けとともにラジオで流した。
「私は、ドイツ国民とドイツ帝国、そしてヨーロッパの運命を、ふたたび国防軍兵士の手中にゆだねる」
 その叫びに応ずるかのように、153個師団、自動車60万台、戦車3580台、大砲7184門、飛行機2740機の兵力が攻撃に移った。かつてこれほどの戦闘力が一つの戦場に投入された例はない。

 ソ連首相スターリンは、なんども警告されていたにもかかわらず、ドイツ軍の攻撃がそんなに早くはないものときめこんでいた。ソ連軍はいたるところで撃破された。  「ソ連に対するわれわれの任務――すなわち軍を粉砕し、国家を解体する、これを遂行する。共産主義者は後にも先にも戦友ではない。これは絶滅戦なのだ」
 というヒトラーの豪語はまさに実現されそうにみえたのであったが……。そしてわが日本帝国もそれをあてにしたのであったが……。

 このドイツのソ連への侵攻に応じて日本が採った戦略はまたしても姑息なものであった。

(6)7月
カントクエンの発動


「ボタンを押せばいい態勢であった」

 1941年6月、ナチス・ドイツがソ連に侵攻を開始した。情勢の激変に日本のとるべき政略・戦略は?

 ドイツを支援するためにソ連とただちに戦火をひらくべきか、ということで日本陸軍内で白熱の議論が戦わされた。中立条約を結んだばかりであることなど忘れたかのように、これをチャンスとみて、陸軍の大勢は対ソ戦の発動に傾いていった。

 このとき陸軍が準備した対ソ作戦計画は、「関東軍特種大演習」とカムフラージュして呼ばれた。略して関特演、またはカントクエン。こうしてその年の7月上旬から下旬にかけて、陸軍は膨大な赤紙(召集令状)を発行する。演習とは名のみ、事実は本気で開戦するつもりであった。日ソ中立条約をホゴにして。
 元大本営参謀瀬島龍三の証言がある。
「ボタンを押せばいい態勢であった」

 現実には、ソ満国境のソ連軍の戦力減少という根本の条件が整わず、好機きたらずということで9月に計画は中止となる。戦前の日本は条約破棄など屁(へ)とも思わぬ横暴な国家であったのである。

 日本が対米英戦争へと突き進んでいくことになった経緯は次のようであった。

(7)7月28日
日本軍の南部仏印進駐


「石油をとめられては戦争だ」

 日本帝国が対米英戦争へと突き進んでいく道程で、もはや引き返すことのできない崖っぶちに立つだのはいつであったか。いろいろな議論があるが、少なくとも最終的に戦争を決定づけた瞬間として、日本軍の南部仏印(現ベトナム)進駐があげられることに異論はないであろう。

 1941年7月28日、陸軍の大部隊がサイゴンに無血進駐をした。
「好機を捕捉し対南方問題を決する」
という御前会議での国策決定に基づいての軍事行動であった。

 これにたいして日本の南方への進出を断固として許さない、としているアメリカは、直ちに在米日本資産凍結、さらに石油の全面禁輸という峻烈な戦争政策でこれに対応してきた。日米交渉妥協への最後の命綱が切り落とされたに等しい情勢になった。

 陸海軍首脳は、まさかそこまで強硬な戦争政策をアメリカがとるとは予想すらしていなかった。海軍軍務局長の岡敬純(おか たかずみ)少将は、
「しまった。石油をとめられては戦争あるのみだ」
と悔いたが、すべては手遅れである。

 この頃米英首脳は国際社会の未来を構想する会談を行なっていた。

(8)8月14日
大西洋憲章の発表


「世界の将来をより良きように願う」

 1941年8月14日、大西洋上で会見した米大統領ルーズベルトと英首相チャーチルは、「世界の将来をより良きように願う自分たちの希望にもとづく」8ヵ条よりなる両国の「共通の原則」を発表した。これが大西洋憲章として歴史に残る記録となった。そしてこの原則は現在の国連憲章に、そのまま発展継承されている。


 領土の拡大を望まない。

 民族の自決の権利の支持。

 暴力の犠牲となっている諸民族の解放。

 経済的繁栄の保証。

 社会的安定の追求。

 隷属なき平和の約束。

 海洋の自由、通商および資源にたいする機会均等。

 侵略国(ドイツ)の武装解除と諸国民の新しい国際連合の形成。


 人類の理想とすべきことの堂々たる宣言である。しかも、まだ第二次世界大戦に参戦していないアメリカが、はっきりとナチス・ドイツを敵とみなすことを宣言したものでもある。

 つまりはそのドイツと同盟を結んでいる日本も、いまやアメリカの"敵"となったことが明らかになったのである。

(9)9月6日
御前会議での天皇の発言

(次の本文中に「英蘭」という語句が出て来るが、これは「イングランド」の当て字)

「四方の海みなはらからと……」

1941年9月6日、皇居内の千種の間で御前会議がひらかれた。近衛文麿内閣は大本営と協議した筋書き通りに「戦争を辞せざる決意のもとに」対米交渉を行い、「十月上旬にいたるもなおわが要求を貫徹しうる目途なき場合においては、ただちに対米(英蘭)開戦を決意す」という国策を決定する。

 10月上旬まで、9月6日から1ヵ月しかない。この間に外交交渉がまとまらなければ、対米英戦争に突入するというのである。しかし、この年の春いらい紛糾するばかりで、一歩も明るい方へ進まない日米交渉が妥結すべくもないことは、だれの目にも明白であった。太平洋戦争はこのときにはじまった、といっていいのである。

 御前会議では、天皇は憲法にのっとり「無言」を守ることになっている。しかし、このときにかぎり昭和天皇はポケットより紙をとりだし、これを詠んだ。
「四方の海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」
 明治天皇の御歌である。そして「なお外交工作に全幅の努力をするように」といった。

 天皇にできるそれが精一杯のことであった。が、昭和天皇の平和愛好の気持ちが空しくなるのは、歴史の示す通りである。

 9月6日の御前会議で決定した国策は「帝国国策遂行要領」と呼ばれている。本文と別紙から成るが、本文を『探索5』から転載しよう。
 帝国は、現下の急迫せる情勢、特に米英蘭等各国の執れる対日攻勢、ソ連の情勢および帝国国力の弾撥性等に鑑み、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中南方に対する施策を、左記により遂行す。
 一、帝国は、自存自衛を全うするため対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、おおむね10月下旬を目途とし、戦争準備を完整す。
 二、帝国は、右に並行して、米、英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む。
   対米(英)交渉において帝国の達成すべき最少限度の要求事項並びにこれに関連し帝国の約諾し得る限度は、別紙の如し。
 三、前号外交交渉により、十月上旬頃に至るもなお我が要求を貫徹し得る目途なき場合においては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す。
   対南方以外の施策は、既定の国策に基づきこれを行ない、特に米ソの対日連合戦線を結成せしめざるに勉む。
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