FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(31)

1941年(1)~(4)

 1941年は12月に日本軍が真珠湾を攻撃し、日本がいよいよ第二次世界大戦に本格的に突入していった年である。この年の主な出来事は次の通りである。
4月
 ・日ソ中立条約
 ・日米交渉開始

5月
 ・スターリン、ソ連首相に
 ・独、ロンドン大空襲

6月
 ・独ソ戦開始

11月
 ・米、日本案拒否、強硬な新提案(ハル・ノート)

12月
 ・日本軍、真珠湾を攻撃、太平洋戦争勃発
 ・米英、日へ宣戦布告
 ・重慶国民政府、日独伊に宣戦布告
 ・独伊、米に宣戦布告

 最初の記事はアメリカ大統領ルーズベルトが中立主義廃棄を言明した演説である。

(1)1月6日
ルーズベルトの年頭教書


「四つの自由の実現を」

 これが二流国家の証明、というわけでもないであろうに、どうも日本の首相の年頭の決意のさえないことが、このところ、3、4年ずっとつづいている。むかしの人は偉かったと、ついつい口にでる。

 1941年1月6日、米大統領ルーズベルトの議会への年頭教書もそのひとつで、どうしてどうして立派なものであった。
「人はパンのみにて生きるのではないと同様に、武器のみにて戦うものでない。みずからの生活様式にたいする信念にもとづく活力と勇気とをもつことだ」
として「四つの自由」の実現を訴えた。
 ①言論と表現の自由
 ②信教の自由
 ③欠乏からの自由(健康で平和的な生活の保障)
 ④恐怖からの自由

 じつは、④のヒトラー・ドイツの世界制覇の恐怖と戦おう、という中立主義批判に、彼の訴えの重点がある。そして、基本的自由の上に立つ世堺の実現をめざそうと、大統領は国民に強く訴えた。

 日本の首相もたまには大口をたたいてみたらどんなものか。

 さて、日本では1940年にパーマ禁止令とか七・七禁令、あるいはアメリカ色・イギリス色を一掃するためとしてカタカナを用いた人名や器具名の言い換えを命令するなど、日本精神鼓舞の動きが盛んになった。この動きを引き継いで、1941年は日本精神強調という洗脳政策の動きへと進んでいった。「戦陣訓」に関わるこの動きを『探索5』から転載する(記載形式などを変えている)。

(2)1月8日
「戦陣訓」を示達


 これが1941年になると、各方面において、もっと日本精神強調による戦時体制化が徹底化される。大きくいえば、やがて戦うことになるかもしれない対米英戦争のための準備である。

1月16日
 高度国防国家建設のため、学校教育を一体化した強力な訓練体制をめざして、大日本青少年団が結成される

2月26日
 もはや自由主義的な言論などは不要であると、情報局から各出版社へ総合雑誌執筆禁止者の名簿が送付される。矢内原忠雄、馬場恆吾、清沢冽、田中耕太郎、横田喜三郎、水野広徳といった人々の名がずらりと並んでいた。

3月10日
 治安維持法が改正され、現行犯でなく「罪を犯すおそれがある」者と警察が判断すれば、あらかじめ拘禁することができる予防拘禁制が追加される。

4月1日
 また、文部省は「ドレミファソラシド」を「ハニホヘトイロ」に改める。

5月24日
 さらには大政翼賛会の提唱で、日本精神修養のみそぎ錬成が盛んになる。5月24日がそのスタートで、霊水を頭から浴びて精神を鍛えるのである。8月3日の朝日新聞が報じている箱根湯元で開催された特別修練会の記がすこぶるおかしい。
「参加者は元拓相(文末の注参照)小磯国昭大将、総力戦研究所長飯村穣、中島今朝吾、牛島貞雄、松下元各中将、東京市教育局長皆川治広、前企画院次長小畑忠良、農地開発営団理事小山知一、東洋レーヨン会社長辛島浅彦諸氏、作家では中村武羅夫、横光利一、瀧井孝作……。白鉢巻、白衣、白袴、白足袋に着替えると、最早俗人ではない神人合一の境地を求める錬成の道士である、……同夜から6日午前中まで5日間は1日朝夕5勺の玄米粥に梅干一つ……」
 すべてがいま戦っている対中国との聖戦貫徹のためであり、そしてその背後にあって聖戦の障害となっている米英を"敵"とする戦いに備えるためでもある。

 陸軍大臣東條英機大将が、1月8日に全陸軍将兵に示達した「戦陣訓」は、そうした精神運動の一環であったのかもしれない。もちろん、中国大陸での皇軍兵士による暴行・略奪などの現実を踏まえての、軍紀粛清に主目的があったのであるが……。
「夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり。……」
と、はじめから「戦陣訓」は堂々と、戦場へのぞむ兵士の心得が、まことに名文で書かれている。校閲を島崎藤村に依頼し、さらに志賀直哉、和辻哲郎にも目をとおしてもらったという。藤村は細部にまで手を入れ、全体に知的な要素がないことを指摘したが、陸軍は兵隊に知は必要がないと一蹴する一幕もあったという。ともあれ名文である。が、それが名文であればあるほど、この文書がその後の太平洋戦争に与えた影響は筆舌に尽くしがたいほど大きかった。われら当時の少国民ですら、強制的に記憶させられた一行がある。
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
 これである。捕虜になるなかれ、それは「郷党家門」を恥ずかしめる恥辱中の恥辱であると、兵士たちは覚悟させられた。そのために死ななくてもいいのに、無残な死を死んだ兵士がどれほどいたことか。

 日本精神、いいかえればナショナリズムの強調こそが、軍国主義遂行のための根本理念であると考えられていたのである。

(注)「拓相」
 移民事務を担当し拓務省の長が拓務大臣で略して「拓相」と言った。


 戦時の精神鼓舞のためのスローガン「八紘一宇」もこの年に打ち出された。

(3)春頃
大日本帝国の大理想


「八紘一宇」

 何度も書くようであるが、前年の1940年秋いらい、ドイツの驚嘆すべき快進撃をうけて、日本は「好機南進」「千載一遇の好機」あるいは「バスに乗り遅れるな」の大合唱でうめつくされているの感があった。ドイツがヨーロッパ新秩序を築くなら、日本も大東亜に新秩序を、ということから、年が明けて1941年春になると、「八紘一宇」といういかめしいスローガンがこれに加わった。

 もとを正せば、前年の「紀元2600年」奉祝式典で、近衛文麿首相が天皇の「臣」を代表し、「八紘一宇」の「皇謨(こうぼ 天皇が国家を統治する計画)」を「翼賛」する、と宣言したことに発している。それでほとんどの日本人がそれまで聞いたことのないような言葉がしきりに唱えられることになったのである。わたくしなんかも来年の中学校入学試験の口頭試問に出るかも知れないからと、先生に十二分に仕込まれた。
『八紘一宇(あめのした=天下)を掩って宇(一つの家)としたい。これぞ『日本書紀』いらいの皇国日本の大理想なり、と。』

 いまになると、近衛が依拠したのは『書紀』にあらず、先にも書いた『国体の本義』のほうであった。すなわち神武天皇が橿原の地に都を定めたときの詔(みことのり)の、「……六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いえ)と為(なさ)むこと、亦可(よ)からずや」と考えている。

『国体の本義』については『昭和の15戦争史(12)』で取り上げたが、全文(とても長いです)を読むことができるブログを一つ紹介しておこう。
『国体の本義』

(4)4月13日
日ソ中立条約の調印


「全世界をアッといわせよう」

 「これはダメだ」と断念しながらも、思いもかけずスターリン首相と会う機会があった。そのとき松岡洋右外相は、「どうです、二人で電撃外交をやって、全世界をアッといわせてやろうじやありませんか」と、そっとささやいた。

 こうして1941年4月13日、日ソ中立条約がそれこそアッという間に調印される。日ソ相互間の領土の保全、相互不可侵をきめた条約である。有効期間は5年とされた。世界中が、二人の思惑どおりびっくりし、日本国民の多くは、その離れわざに拍手を送った。

 ところが、それから2ヵ月余たった6月22日、ドイツがソ連に宣戦布告し、独ソ戦がはじまる。スターリンが松岡の誘いにのったのは、こうした危機的事態の到来を予期してのことで、西に戦争の迫っているいま、東のほうを安全にしておきたいゆえのこと。外交的な腹芸では、松岡はスターリンの敵ではなかったのである。

 しかも、1945年4月5日、ソ連は条約の不延長を通告。1年の期間が残っているのに、8月8日には日本に宣戦を布告する。松岡はアッと言わせられたことになる。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2351-4a887599
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック