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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(30)

1940年(15)~(22)

 日中戦争の泥沼に落ち込んだ日本は東南アジア進出を企てた。まず仏領インドシナに軍を進めるが、これが米英との決定的な対立を引き起こした。

(15)9月26日
仏印平和進駐ならず


「統帥乱れて信を中外に失う」

 中国とのどろ沼の戦闘に手を焼いていた日本は、蒋介石政権が何とか頑張れるのは米英ソなどの諸国が軍需品などの援助物資を、背後から輸送しているからだと考え、そして対米英感情を悪くするばかりとなっていた。

 その援蒋輸送路の一つに仏領インドシナ(現ベトナム)からの仏印ルートがある。折からドイツの電撃作戦で、フランスが降伏すると、さっそく日本は強圧的にルートの全面閉鎖を、フランスに承諾させた。あとは外交交渉によって相互協定を結ぶ、という段階にまできた。

 しかし、このとき参謀本部の作戦部長富永恭次少将が割りこんできた。時間がもったいない、平和的進駐などくそ食らえとばかりに、強引に日本軍隊を越境させ、たちまちフランス軍と衝突が起きた。満洲事変いらい、既成事実さえつくれば、あとはどうにかなる、という陸軍の横暴さがもろにでたのである。

 平和交渉のため苦心をしていた現地の責任者は窮地に立った。そのときに東京に打たれた電文「統帥乱れて信を中外に失う」は、昭和史に残る名言となったのである。9月26日のことである。

(16)9月27日
日独伊三国同盟の締結


「この国の前途は心配である」

 『昭和天皇独白録』のなかに「日独同盟については結局私は賛成したが、決して満足して賛成したわけではない」との天皇の発言がある。ほかの資料でも昭和天皇のナチス・ドイツにたいする不信は明らかである。

 その日独伊三国同盟が締結されたのが1940年9月27日のこと。昭和天皇は近衛文麿首相にいった。
「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。ほんとうに大丈夫なのか」
 折からドイツ国防軍の電撃作戦が、世界戦史にかつてみられぬあざやかさを示しているとき。そして日本国内ではそれに幻惑されて、「バスに乗り遅れるな」が日常のあいさつ語のようにいわれ、日本国民は浮かれきっているとき。近衛首相は胸を張って
「ご心配ありません」
と答えた。天皇はそれ以上何もいえなかった。大日本帝国は戦争への「ノー・リターン・ポイント」を踏み越えて対米英戦争への道は、これで確定的となった。

 ちなみに、日独伊三国同盟の条文は朝日新聞社のサイト「コトバンク」の記事『日独伊三国同盟』で全文読むことができる。

 さて、これまでに、戦時国家になった日本が戦争を推進するために、従順な庶民を養成するための国策をいくつか取り上げてきたが、そうした国策はまだまだ続く。

(17)10月19日
全国の子宝家庭の表彰


「生めよ殖やせよ!」

 21世紀の日本の大問題の一つに、少子化がある。老齢化のすすむ社会を支える働き手ががくんと減って、国家の明日が安泰とは、どう考えてもいえない。だからといって、戦前の国策をもちだすわけではないが、「生めよ殖やせよ! 国のため」がなつかしい。

 この国策に猛烈に拍車がかけられたのは、この年の10月のことである。厚生省が全国の子宝隊(優良多子家庭)を表彰することとし、19日に優良として選ばれた全国1万336家庭の名簿を発表した。このニュースを伝える新聞の見出しが「出たゾ、興亜の子宝部隊長」ときた。その人は長崎県総務部長の白戸半次郎さん。なんと男10人、女6人を育てている。この白戸さんを先頭に、表彰されるのは満6歳の子10人以上の家庭で、しかも父母が善良で臣民の条件を兼ね備えていること。これにめでたくパスした家庭は北海道が978、以下鹿児島県541、静岡県444。最低は鳥取県の39。

 とにかく昔のお父さんお母さんは、国の将来のために頑張ったんであるな。これからお父さんお母さんも……
 いや、これは余計なお世話かもしれない。

(18)10月12日
大政翼賛会の発会式


「とんとんとんからりと隣組」

 日本人の日常はますます孤立化して「隣は何をする人ぞ」の傾向はどんどん強まっている。かりに隣に凶悪犯がいても、まったく関知しないのが、とくに都会生活というもの。これをさびしがる人は、ふと、昔はやった岡本一平作詞、飯田信夫作曲の国民歌謡を、思い出したりすることがあるにちがいない。

 <とんとんとんからりと隣組/格子をあければ顔なじみ/廻してちょうだい回覧板/知らせられたり知らせたり
 <とんとんとんからりと隣組/地震やかみなり火事どろぼう/互に役立つ用心棒/助けられたり助けたり

 1950年10月12日、強力な国民組織を基盤とする新体制を構想した近衛文麿が、大政翼賛会を結成、この日、発会式をあげた。これにともなって全国の市町村に隣組制 度が設けられる。国民歌謡はそれに合わせたものである。 これでたしかにお互いに助けられたり助けたりしたが、同時に、これが日常生活や言論にたいする監視のためにも役立った。小声でいったはずの軍部批判が密告されたりして、大いに迷惑した人びともかなり多かった。

 つぎはまたまた、庶民のささやかな楽しみを奪う政策。

(19)10月31日
今宵かぎりのダンスホール


「権力で抑えつけるなんて」

 永井荷風の日記の1937年12月29日に、
「この日、夕刊紙上に全国ダンシングホール明春4月かぎり閉止の令出づ。目下踊子全国にて二千余人ありという。この次はカェー禁止そのまた次は小説禁止の令出づるなるべし。恐るべし恐るべし」
とある。日中戦争はじまってからの戦時下の日本は、ほんとうに何から何まで禁止また禁止で、息苦しい時代であった。

 さて、ダンスホールの話だが何がしかの抵抗があって、完全に閉鎖されたのは、3年近くあとの1940年10月31日。
「ダンサー362名、楽士109名が職を失う。その最後の夜、東京のダンスホールは約10ヵ所」
と広沢栄氏の本にあった。

 最後の夜は、どこも超満員。やけっぱちでハシゴをするものも多かったとか。いよいよラストとなって、ワルツの「蛍の光」が演奏されたとき、ホールのあちこちですすり泣く声が高かった。

 「くだらねえ、権力で抑えつけるなんて」
 歌手のディック・ミネが口惜しそうにいった。

(20)11月10日
紀元2600年の祝典


「金鵄かがやく日本の……」

 1940年つまり昭和15年は「皇紀2600年」である。戦前日本は、神話の神武天皇の即位から数えて「皇紀××年」という独自の元号をもっていた。小学生のころは、皇紀から660年を引くと西暦になる、それくらい日本は古い伝統のある尊い国なのだと、徹底的に教えられた。 その皇紀の元号による紀元2600年の大祝典が行われたのが、11月10日。

 戦前の日本の最大のお祭りであったが、わたくしにはあまりハッキリとした記憶にない。奉祝の花電車を見にいったことと、「金鵄かがやく日本の、はえある光身にうけて、今こそ祝えこの朝、紀元は2600年」の祝歌なんかどうでもよくて、「金鵄上がって15銭、はえある光30銭、鵬翼高い50銭、紀元は2600年」のタバコ値上げを皮肉る替え歌を、しきりに歌って、晴れ晴れしい顔をした大人たちにしかられた覚えだけが残っている。

 とにかく国をあげてのどんちゃん騒ぎの後、祭りは終った、さあ働こう、とハッパをかけられ、1年と1ヵ月のあとに太平洋戦争へ。

 たしかに、悲劇の前には喜劇がある。

(21)11月24日
元老西園寺公望逝く


「これで日本は滅びる」

 池田成彬が語った。
「年をとると、知識欲も根気もなくなる。人の話をじっと黙って聞いていて、それから、おもむろに自分の意見をいう人は、10人の1人あるかなしである。そのごくまれな例では西園寺さんがいる」

 その西園寺公望は、昭和天皇に推薦して、戦前に12人の首相を"製造"した最後の元老として知られている。昭和史上、もっとも実力のある政治家であったが、晩年には老齢のために、気力を失った。結局は、軍部に押し切られることが多くなり「これじゃダメだ」と独語しつつ、大磯の自邸にこもったきり、なかなか上京してこようともしなかった。そして、生への執着をどんどん失っていった。

 そしてこの年の9月、自分が反対した日独伊三国同盟を、近衛文麿内閣が強行したとき、
「これで日本は滅びるだろう。これでお前たちは畳の上で死ねないことになった。その覚悟をいまからしておけ」
と側近にしみじみと嘆いたという。

 この最後の元老は、11月24日、太平洋戦争の開始をみることなく、世を去った。享年90であった。

 日独伊三国同盟に対抗して、アメリカは中立主義廃棄の道を進み始める。 (22)12月29日
ルーズベルトの「炉辺談話」


「民主主義の兵器廠」

 1940年も押しつまった12月29日夜、アメリカ大統領ルーズベルトは、三選後のはじめての全国ラジオ放送を「炉辺談話(ファイアサイド・チャット)として、ホワイトハウスから行った。
「今日、アメリカ文明は、最大の危機にさらされている。われわれはデモクラシー諸国の偉大な兵器廠たらねばならない」
 つまり日独伊三国同盟に反対し、ナチス・ドイツと戦うイギリス支援を強く国民に訴える内容を、ルーズベルトは力強く国民に語ったのである。この「民主主義の兵器廠」は、中立主義をあくまで守ろうとするアメリカ国民の心をゆさぶる20世紀の名言となった。前年11月に中立法が一部改定されていたが、なお国民の間には、いわゆるモンロー主義が根強かったからである。

 日本もまた、この演説にショックを受けた。貿易統制の全権をもつ大統領が、いつでも石油の全面禁輸を実施できるのだぞ、とおどしをかけてきたに等しかったから。にもかかわらず、北部仏印進駐、三国同盟の締結と、近衛内閣の政策はアメリカの干渉を断乎排除する方向へと突っ走っていく。太平洋の波はがぜん荒立ってきた。

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