2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(29)

1940年(7)~(14)

 ヨーロッパ前線ではフランスがナチスに無条件降伏をすることになる。

(7)6月18日
ドゴールのフランス脱出


「抵抗の炎は消えることはない」

 1940年6月17日、ドイツ軍の電撃作戦によって、フランス軍は撃破され、ペタン新内閣はついにナチスに休戦を求めることになった。前夜ボルドーに帰っていた徹底抗戦派のリーダーたるドゴールは、この日、厳重な監視のもと、友人を見送るために空港に姿をみせた。名残惜しそうにぐんと近づいたとき、友人を乗せた飛行機が動きだした。その瞬間、彼は危険を冒して飛行機に飛びのりドアを閉めてしまった。ペタン派の警官や役人が、アッと声をのむ間に飛行機は機影を没した。チャーチルがいうように「機はフランスの名誉を運んで」ロンドン指して飛んでいった。

 翌6月18日、ロンドンに着いたドゴールは、BBC放送で、敗戦で意気消沈のフランス国民に力強く対ナチス徹底抗戦をよびかけた。
「最後の言葉はまだ言われてはいない。……抵抗の炎は消えてはならないし、消えることはないであろう」

 この放送により第二次大戦中、ドゴールはフランスだけではなく、連合国側の最大の英雄となった。

(8)6月21日
フランスの無条件降伏


「資質の粗末さが暴露された」

 ドイツ総統ヒトラーにとっては、生涯を通してこの日ほど得意の絶頂をきわめた日はなかったであろう。ドイツ国防軍の電撃作戦の前に、完膚なきまでに敗れたフランスが無条件降伏をしたのである。

 ヒトラーは勝者として休戦条約に調印すべく、パリ郊外のコンピエーニュの森にやって来た。この地こそ、1918年11月、第一次世界大戦でドイツが負け、屈辱の休戦条約に調印させられた場所であり、しかもそれは偶然そこに停車していた食堂車の中で……。

 1940年6月21日、ヒトラーは記念として保存されていたその食堂車のなかで、フランスの全権の来るのを待ち受けた。しかも前回のとき、勝者のフランスのフォッシュ元帥の座ったイスに腰を下ろして。だれはばからず笑い、足をカタカタ踏み鳴らした。無念のフランス人ばかりではなく、世界の人びとは、敗者を辱めるための手のこんだ芝居としてこれを見た。

 ヒトラーの政治家としての「資質の粗末さが世界に暴露された」ときといわれ、誰の口にも茶番の一幕と映じた。

 資質のお粗末な人物を指導者に選ぶ者たちもお粗末と言わなければなるまい。今、この国でも資質のお粗末な人物が亡国への道を得意そうに闊歩している。早く退場させるべきだが、まだ支持率が不支持率を上回っている。 已んぬる哉。

 さて、1940年、日本を戦時国家へと強引に推し進めていった資質のお粗末な近衛文麿が再び登場する。

(9)6月24日
近衛新体制運動の発進


「バスに乗り遅れるな」

「人気などというものは当てになるものではありませんよ。ちょうど映画スターの人気みたいなもので、すぐスタれますよ」
 といっていた舌の根のかわかない先に、近衛文麿は突然に枢密院議長を辞任すると、新体制運動にのりだした。1940年6月24日のこと。

 近衛の政治復帰をいちばん喜んだのは陸軍であった。頑固にいうことを聞こうとしない米内光政内閣を倒して、お殿さまの近衛を擁立しようとひそかに作戦をねっていたからである。軍だけではなく、政界も財界も、さらに言論界も近衛の政界復帰に歓呼し、喝采を送った。

 ヨーロッパではドイツの快進撃がつづいている。フランスとオランダは降伏し、イギリスはアップアップしている。いまこそ南進のチャンスだ、と火事場泥的な空気が日本中を満たし、「バスに乗り遅れるな」という昭和史を飾る名言が国民的大合唱となっているのである。こうして近衛は大スターとなって、国家を敗亡へ導く猪突猛進の行列の先頭に立つ。

 世論の雪崩(なだれ)現象ほど空恐ろしいものはない。日本人は教訓を忘れがちであるが。

 私は『ミニ経済学史 現在の経済学は?(20)』で「もうずいぶん以前のことだが、確か糸井重里さんだと思うが、「贅沢は敵だ」をパロって「贅沢は素敵だ」と言った。」と書いているが、これは私の記憶違いだったようだ。このパロディは「贅沢は敵だ」が使われ始めた時代からあったのだった

(10)7月7日
七・七禁令の実施


「ぜいたくは敵だ」

 戦時下日本の、名言中の"名言"は「ぜいたくは敵だ」であると思っている。あんなものすごい時代でも、ユーモラスな反抗精神の持ち主がいて、敵の上に「素」の字を書き込んで「ぜいたくは素敵だ」とやったヤッがいたっけ。

 本家の"名言"の発端は、1940年7月7日にときの米内光政内閣が公布した「奢侈(しゃし)品等製造販売制限規則」で、翌日から断固実施を決定した。非常時にぜいたく品は無用であるというわけ。これを七・七禁令という。  つまり、この日からは「ぜいたく品よ、さやうなら。あすから閉ぢる虚栄の門」となったのである。"名言"が大きく書かれた看板が街頭に立てられ出しだのは、東京では8月1日から。ただし、このときには米内内閣は総辞職して、かの近衛文麿が第二次内閣をスタートさせていた。

 禁止になった主な物は「指輪、ネクタイピン、宝石類、高価なる白生地羽二重、丸帯、洋服等」で、たとえば「夏物の背広は100円、時計は50円、ハンカチは1円、下駄は7円、靴は35円、香水は5円まで、それ以上は禁止」とされた。いかがなものか、今の日本、月に一日「ぜいたくは敵だ」デーを設けてみたら。

(11)7月22日
第二次近衛内閣の成立


「あくまで戦うことになる」

 陸相畑俊六の辞任、後継陸相の不推薦によって、米内光政内閣は強引に崩壊させられた。そのあとに1940年7月22日、第二次近衛文麿内閣が成立した。陸軍の裏工作は見事に成功した。

 大きくいえば、この日、太平洋戦争への道が決定的になった、といっていいか。外相松岡洋右、陸相東条英機など、対米英強硬派がぞくぞくと閣僚に親任された。やがて内閣は致命的な日独伊三国同盟を締結する。

 終戦時の首相となった鈴水貰太郎の、当時の批判は手きびしい。
「松岡ヲ外相ニシタノハ誰カ。近衛公トシテハ認識不足モ甚シ」

 しかし近衛はのちの記者会見で、大言壮語した。
「米国は、日本の真意をよく了解して、世界新秩序建設の日本の大事業に、積極的に協力すべきであると思う。米国があえて日独伊三国同盟の立場と真意を理解せず、どこまでも同盟をもって敵対行為として挑戦してくるにおいては、あくまで戦う事になるのはもちろんである」

 日独伊三国同盟は9月27日に締結された。五項目あとで取り上げる予定である。

(12)8月20日
トロツキー暗殺さる


「こんどは奴らも成功した」

 レーニンとならぶロシア革命の指導者トロツキーが亡命先のメキシコの自宅で、暗殺者に頭をピッケルで一撃されたのは、1940年8月20日。ひん死の重傷を負いながら息もたえだえに、トロツキーは微笑を浮かべながらいった。「こんどは奴らも成功したようだ」
 鬼気迫る一言といえる。翌日に死んだ。60歳。

 レーニンの死後、スターリンとの抗争に敗れたトロツキーは、29年にソ連から追放され、各国を転々としたのち、37年にメキシコに落ち着いたが、そこも安住の地ではなかった。スターリン批判をつづける彼の身辺は、つねに暗殺の恐怖のもとにあった。
「主観と客観の不一致は、生活においても、芸術においても、悲劇の源であり、また同時に喜劇の源である。ことに政治の分野では、この原則の支配からまぬがれえない」

 彼の著『ロシア革命史』の一節は、自分の運命をみごとに語っている。

 日本では相変わらず次のようなバカバカしい規制が行なわれていた。

(13)9月
禁止された流行語


「わしやかなわんよう」

 東京は下町の悪ガキ時代に、爆発的に流行した言葉がある。何かにつけてやたらにこれを使った。
 たとえば両親なんかに、「遊んでばかりいないで、少しは勉強しなければいかん」としかられたり、小学校の先生から、「兵隊さんが命がけで戦っているのに、こんな怠けたことで、申しわけないと思わんか」と説教されたりしたとき。悪ガキどもがいう。大人がカンカンに怒ろうと知ったことではない。
「あのねェ、おっさん、わしゃかなわんよう」

 もとは喜劇俳優の高勢実乗(たかせ みのる)が、チョンマゲにチョビヒゲ、目の回りに墨をぬって、スクリーンでとん狂な声でいったセリフである。

 泥沼と化した日中戦争下の重苦しい時代。取り締まりだけがきびしいときに「わしゃかなわんよう」の悲鳴は、庶民には一服の清涼剤でもあったのであろう。
 しかし、この年の9月に、皇道精神に反するとして禁止命令が下されたとき、悪ガキは心底からガッカリした。でも、時々「わしゃかなわんよう」とやっていた。いまの悪くなるいっぽうの日本、同じセリフをはやらしたくなる。

 ヨーロッパ前線に戻ろう。

(14)9月15
英本土防衛戦に勝った日


「これほど少数の人から……」

 この年の8月下旬から10月の長期にわたって、ドイツ空軍は連日のように数百機を出撃させ、イギリスの各地を猛爆撃した。対してイギリスの戦闘機部隊は、全力をあげて反撃した。とくに9月15日のそれは英本土防衛戦の日(バトル・オブ・ブリテン・デー)として戦史に特記される戦闘となった。ドイツ空軍は700機の戦闘機と400機の爆撃機とで、白昼のロンドンを空襲した。これを可動の300機のイギリス空軍の戦闘機が迎え撃った。少数ながら火力に勝る英戦闘機は粘り強く、休むことなく飛び立って果敢に戦った。ドイツ戦闘機は速力で有利に立つが、航続距離の短いことが致命的となった。

 この空の戦いで敗れた総統ヒトラーは、英本土攻撃作戦を、結局は中止することになる。空襲で死んだイギリス人は4万人余。しかし、不死身のごとくにその祖国を守りぬいたパイロットたちを、英首相チャーチルは、
「これほど多くの人が、これほど少数の人から、かくも多大な恩義をこうむった戦いは前代未聞である」
と心から感謝した。

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