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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(28)

1940年(1)~(6)

 第二次世界大戦が始まった1939年の翌年1940年の世界大戦を巡る主な出来事は次のようである。
4月~5月  ドイツが、デンマーク・ノルウェー
      ・オランダ・ベルギーに侵入
6月
 パリ陥落、仏、独に降伏
7月
 ソ連、バルト三国を併合
9月
 日本軍、北部仏印に進駐
 日独伊三国軍事同盟
10月
 大政翼賛会発足

 勿論、日本でも世界大戦煽りを受けてますます軍部が国政を牛耳るようになってきた。しかし、その状況に敢然と抵抗する人もいた。

(1)2月2日
斎藤隆央の抵抗


「聖戦の美名に隠れて……」

 1940年ごろの日本といえば、戦争下"非常時"の名の下に、国家権力は陸軍に握られていた。「憲兵政治」ともいわれるように、軍刀の威嚇の前にすべての人が首をす くめ口をつぐんでいた。

 そんなとき、敢然として陸軍に抗した人がいる。斎藤隆夫という政治家で、この年の2月2日、第75帝国議会がはじまってまもなく、陸軍に命がけで食いついた。
「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界平和、かくのごとき雲をつかむような文字をならべ……」
 と頭ごなしに政策批判した上で、陸軍にたいし、
「支那事変がはじまってからすでに2年半になるが、10万の英霊をだしても解決しない。どう戦争解決するのか処理案を示せ」
 とつめよったのである。

 陸軍は「聖戦目的を批判した」と激昂した。しかし斎藤は「議員を辞任しない、文句があるなら除名せよ」と頑張った。そして希望どおり「除名」されて議場を去った。

 いつの時代にも1%階級に迎合する輩(私の右翼に対する定義)がいる。この輩が依って立つ思想基盤は論理的・科学的思考とは全く無縁である。ここで思い出したことがある。戦時体制の時には殆ど全ての国民が右翼となってしまう。私はこの事を『民衆の戦争責任』で取り上げている。

 次の事件は学者に対する弾圧の典型的な一例である。

(2)2月10日
津田左右吉の受難


「思想的大逆行為である」

 早稲田大学教授の津田左右吉を東大法学部の講師に迎えいれたのは南原繁教授の強い要請によるものである。しかし、津田が東大の教壇に立つより前に、蓑田胸喜(むねき)を中心とする右翼「原理日本社」が津田攻撃をはじめた。

 津田の学問は、日本古代史から「神話」のベールをはぎとった科学的な、堂々たるものなのであるが、それを「大逆思想」として、東大で講義することはまかりならぬと、一方的な攻撃にさらされたのである。
「津田氏の所論に至っては神武天皇から仲哀天皇までの14代の、天皇の御存在を、それ故にまた、神宮皇陵の御義をもあわせて抹殺しまつらむとするものである。これ国史上全く類例なき思想的大逆行為である」

 その結果、東大に迎えられて講師となってから4ヵ月もたたない1940年2月10日、津田の著書『古事記及日本書紀の研究』などは発禁、3月には出版法違反で起訴された。西田幾多郎と幸田露伴とが、学問上の問題を刑事事件とするのは不当だと抗議したが、当局は耳を貸そうともしなかった。

 津田は本郷から去っていった。

 次のバカバカしい事例は『民衆の戦争責任』の中の『「大国民」たちは?(2)』で取り上げていた。

(3)3月28日
改名させられた芸能人


「敵性器共に頼るな」

 この年の3月28日、日本政府(内務省)は世にもばかばかしい命令を、映画やレコード会社に発した。芸名のなかで、非常時に合わないふまじめ、不敬、外国人とまちがえやすいものなどの改名を命じたのである。
 漫才のミス・ワカナ、歌手のディック・ミネ、東宝映画の藤原釜足、日活映画の尼リリスなど、該当者十六人ぜんぶアカンとなった。

 政府がこの愚かさであると、それに輪をかけるお調子ものがきまってハバをきかせてくる。芸能界ばかりでなく各界で、アメリカ色、イギリス色はすべて一掃しよう、という声が高まりだした。米英は"敵"とみなして、「敵性器具に頼るな!」
 すなわちマイクロホンで歌うな。以下、プラットホーム→乗車廊、自転車のハンドル→方向転把、ビラ→伝単、ラグビー→闘技、パーマネント→電髪、アメフト→鎧球(がいきゅう)、スキー→雪艇、野球のスタルヒン投手は須田博と変えられた。

 折から医学研究所で研究中であったペニシリンを碧素とよぶなんて、滑稽きわまる。評すべき言葉もない。

 外国の動きに目を移そう。

(4)5月10日
チャーチルが首相となる


「血と労苦と涙と汗と」  前年9月にはじまった第二次大戦は、英仏とドイツとの政治的・軍事的なさまざまな駆けひきがつづけられていたが、突如、破局へ突き進んだ。ドイツ軍の攻撃のほこ先は西方に向かい、オランダおよびベルギー軍があっという間に席捲された。

 1940年5月10日、この緊急事態に即応して、イギリス首相にチャーチルが就任する。ヨーロッパ最大の危機のときに、首相・蔵相・国防相を兼ねてこの不屈の男は、戦時内閣を組織する。世論はこの人の登場を強く待ちのぞんでいた。これに応えてチャーチルはテキパキと手を打った。

 3日後、チャーチルは英下院で就任演説を行った。それは20世紀を代表する名言となったのである。
「私は、血と労苦と涙と、そして汗以外に、捧げるべき何一つももっていない。……諸君は、政策は何かと尋ねられるであろう。私は答える――海で、陸で、また空で、神がわれわれに与え給うたわれわれの全力をあげて、戦うだけである。……われわれの目的は何かと尋ねられるであろう。私は一言でいうことができる――勝利。それだけだ」

 英国はこの不屈の男とともに、苦しい戦いを戦いぬいた。

 ヒトラーが行なってきた暴政の中で最も残虐な気違い染みた政策はユダヤ人の虐殺であろう。

(5)5月20日
強制収容所への第一陣


「労働は自由への道」

 ドイツ総統ヒトラーはその著『わが闘争』のなかにはっきりと書いている。若き日から「自分は立派な反ユダヤ主義者で、あらゆるマルクス主義的世界観の不倶戴天(ふぐたいてん)の敵ある」と。
 また、ナチスの綱領を自作したとき(1920年)
「ユダヤ人は『国家公民』にはなれず、全人口の食料が不足した時はドイツ国より追放される」
とも明言していた。

 そのヒトラーが国家の最高権力者となり、「世界最強国ドイツ」の構想実現のために1939年9月、敢然として世界戦争へとのりだしたのである。ユダヤ人の運命はきまったといえる。

 そしてこの年の5月20日、アウシュヴィッツ強制収容所に向けてユダヤ人収容者一陣が輸送されていった。収容所の総面積約40平方キロ。その入り口に、「労働は自由への道」の標語がかかげられていた。ユダヤ人はこれをしっかり読んだ上で門をくぐった。労働が彼らをどんな自由へ導いたか。

 400万人がここで虐殺された。

(6)6月3日
ダンケルクから奇跡の脱出


「見物人として眺めていた」

 5月15日にオランダ政府が、18日にはベルギー政府が降伏した。英仏連合軍37万人は、圧倒的なドイツ機甲師団の猛攻をうけて、英仏海峡の港町ダンケルクに追いつめられて、全滅の危機に直面していた。ところが、なぜかヒトラーは「わが最強の甲兵力を傷つけるな)と命令を下し、攻撃を中止させた。

 そのわずかなすきに、英海軍省の呼びかけに応した志願の人びとが、海岸線に集まった将兵の救助に出向いていった。漁師、ヨットマン、水夫、退役軍人など、海に関心ある者の総員である。彼らはフランス海岸までありとあらゆる船を運んだ。

 5月27日より開始されたこの撤退作戦に挺身した人びとの船舶の完全な名簿はない。また、多くの人びとはいちいち名前を記帳することもなく、硝煙のダンケルクに おもむき、連合軍将兵を乗せて、英本土まで何度となく往復したのである。

 1940年6月3日、最後の救助艇が錨をあげた。それを手を拱いて望見していたドイツ軍のある将軍がつぶやいた。
「34万もの敵兵が武器を捨てて慌ただしく逃げていく。われわれはその乗船をただ見物人として眺めていた」

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