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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15年戦争史(27)

1939年(5)~(10)

 ほとんどの国民が天皇に拝跪していた時代だから(今もさして変わらないか)、当然と言えば当然ながら、国民を政府の命令に従わせるためには「勅語」を利用した。次の記事はその典型的な事例である。

(5)5月22日
「青少年学徒二賜ハリタル勅語」


「ナンジラ学徒ノ双肩ニアリ」

 「青少年学徒二賜ハリタル勅語」というのが、その昔あったことを覚えている人は、いまどのくらいいるのであろうか。
「ナンジラ学徒ノ双肩ニアリ」 「文ヲ修メ武ヲ練リ、質実剛健ノ気風ヲ振励シ、負荷ノ大任ヲ全フセンコトヲ期セヨ」
 きれぎれにそんな文句が辛うじて思い出せる。御名御璽につづいて「昭和14年5月22日」と読まれて、朗読が終わると、心からホッとしたものである。

 戦時下、日本の青少年が何かと褒められ、値打ちがぐんと上がったのもこのころからである。1939のことである。
 そしてこの日、軍事教育施行15周年を記念して、宮城前広場で「全国学生生徒代表御親閲式」が行われたということを、最近になって知った。当時の新聞に「青春武装の大絵巻」と飾りたてて報じられている。3万2千5百名の学生生徒が、「新緑滴る大内山を背景にくっきり浮かび上がった白木作りの玉座」の前を、軍隊よろしく「歩武堂々」分列行進したのであるそうな。
 下町の悪ガキのわたくしは、もちろん、その中にはいない。

 「質実剛健ノ気風ヲ振励」するからには、それに反するような庶民のささやかな楽しみを禁止しなければならない、となる。

(6)6月16日
ネオン全廃、パーマ禁止令


「林荒木等の髯の始末はいかに」

 ちかごろ髪をクリクリにそった外国のスポーツ選手をテレビなどで見る機会が多い。この丸刈りの連中がきまって大活躍する。しかもいまは格好よくスキンヘッドというのだそうな。

 ナーニ、日本風にいえばイガ栗頭。われら戦前の青少年はみんな同様のクリクリのイガ栗であった。と、威張ってみたところで、何の足しにもならないが。

 実は、国民精神総動員委員会なる戦時組織ができ上り、この年の6月16日に、国民生活刷新案を提出し、とにかく無茶苦茶に、すごいことを決めたのである。
 曰く、ネオンの全廃。曰く、中元歳暮の廃止。男子学生の長髪禁制。ついでに時局にふさわしくないと女性のパーマネントウェーブも禁止となった。

「世の噂によれば軍部政府は婦女のちぢらし髪を禁じ男子学生の頭髪を五分刈のいが栗にせしむる法令を発したりという。林荒木等の怪しげなる髯の始末はいかにするかと笑うものもありという」
 作家永井荷風の『断腸亭日乗』の一節。陸軍大将の林銑十郎と荒木貞夫の八の字髯を思い切り皮肉に笑いとばしているのが痛快のきわみ。

 少し時間が前後するが、次の記事を先に掲載しよう。朝鮮の植民地状況を徹底的に強化するための策略である。

(7)12月26日
「創氏改名」への抵抗


「田農丙下とします」

 1910(明治43)年8月22日、韓国併合に関する日韓条約が調印された。朝鮮半島を植民地とした日本の統治がはじまった。いらい日本政府は植民地朝鮮の日本化を進めるため、強引な政策を押しつけてきた。

 その多くの失政のなかでもこの1939年12月26日に公布した「朝鮮戸籍令改正」ほど、すべての朝鮮人を絶望的にさせ怒らせたものはなかったであろう。祖先を重んじ、儒教道徳を信じる彼らは、その氏名を日本式に「創氏改名」せよといわれることに、とうてい許すことのできない暴圧を感じたのである。日本人を信頼していた人々もまた、完全にソッポを向いた。

 朝鮮総督南次郎
「総督に背く者は、日本領土の外へ出ていって生きるべきである」
とまでいい、脅迫政治を推しすすめた。各地に自殺者まで現れた。

 その一方で、創氏改名を逆手にとって、反逆調の氏名をつくった人も少なくない。田農丙下(天皇陛下のもじり)とか「南太郎」とか。そして詩人の金素雲は鉄甚平としたそうな。その意は「自己の金(姓)を失っても甚だ平気なり」であった。

 この誇り高い民族の意地が日本人にはわからなかった。

 以上のような可笑しな事に血道を上げている日本にアメリカが厳しい対応をぶっつけてきた。

(8)7月26日
日米通商航海条約廃棄の通告


「日本を失望させるであろう」

 ノモンハンでの不利な戦況、天津事件でのイギリスとの交渉難行、政府も軍部もいささか策に窮している。そのとき、7月26日、アメリカがきつい鉄槌を打ち下してきた。「日米通商航海条約を廃棄する」という表明である。これは1911(明治44)年2月に調印されたもので、いらい四半世紀の日米関係を親密に保つためのもっとも大切な条約である。それを廃棄するとは、と日本政府はさすがに顔色を失った。

 米国務長官コーデル・ハルが言明する。
「日本が中国における米国の権益にたいし勝手なことをしているのに、なぜわが国が条約を守らなければならないのか。日本は『東亜の新秩序』とか、『西太平洋の支配権』とか叫んでいる。今こそ、わが国がアジア問題にたいするはっきりした態度を声明すべきときがきた。わが行動は中国・英国を激励し、日本を失望させるであろう」

 日本政府と軍部の受けたショックは大きすぎた。これで条約は翌1940年1月26日に失効となる。アメリカはこの条約廃棄という行動によって、政戦略の根本にかかわる大問題を日本に突きつけ、「敵」としてあからさまな名乗りをあげてきたのである。

 なお、のちの日米交渉はこの条約の再締結を意図してのものであった。

 国際社会の動きも、相変わらずのヒトラーの暴虐な政策によりますます激しくなり、第二次世界大戦へと突き進んで行った。

(9)8月23日
独ソ不可侵条約調印


「世界がおれのポケットに入った!」

 1939年8月23日、ドイツ総統ヒトラーとソ連首相スターリンとが、永い間互いに仇敵視(きゅうてきし)していたことを忘れたかのように、固く手を結ぶことを誓い合った。この夜、独ソ不可侵条約がモスクワで調印されたのである。

 全世界が驚倒した。フランスの作家シモーヌ・ド・ボーヴォワールは書いている。
「今日まではしだいに深まる暗黒の中にも、大いなる希望の灯が見えていたのに、それが今かき消されてしまった。夜の闇(やみ)が地上を覆い、私たちの骨の髄までしみとおってきたのだ」(『女ざかり』)

 ヒトラーはこの条約を結ぶことで、なんの憂慮もなく領土拡大のためにポーランドヘ進攻する決意を固めることができた。たとえそれが第二次世界大戦の導火線に火をつけることになろうとも、である。

 ポーランド分割の独ソの境界線を極秘にきめた今、ソ連もまた、座したまま大きな獲物を掌中にすることができた。スターリンはいった。
「ついに全世界がおれのポケットに入った!」

 この悪魔的な言葉を明言として残したくはないが。

(10)9月1日
第二次世界大戦始まる


「爆弾にたいしては爆弾をもって」

 1939年9月1日未明、ルントシュテット、ボホック両元帥指揮の150万のドイツ軍機甲部隊が、周到にして綿密な作戦計画どおりに、南北からポーランド国境を越えた。2千機以上の戦爆連合の大編隊が、あわただしく集められたポーランド軍を空から攻撃し粉砕する。

 午前10時少し前、ヒトラーの国会での演説がラジオから流れ出た。この日までのドイツ国民の平和への熱情と限りない忍耐を強調したあと、
「爆弾にたいしては爆弾をもって断固として報いるまでである」
 ヒトラーは、今よりドイツの一兵士として戦うであろう、と二度くり返した。聞いているドイツ国民はこの言葉に感動する。ヒトラーはさらに叫んだ。
「私は勝利の日まで、神聖にして貴重な兵士の制服を脱がないであろう」
 空軍相ゲーリングの宣誓演説がそれにつづいた。
「われらはただ服従、そして忠誠あるのみである」

 9月3日、ポーランドを救うため英仏はドイツに宣戦を布告する。第二次世界大戦はこうして開始された。

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