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昭和の15年戦争史(26)

1939年(1)~(4)

 近衛内閣の悪政によって日本が戦時国家へと大きく傾いていっから3年目の1939年、国際社会も戦時体制へと大きく傾いていき、第二次世界大戦が勃発する。今回は『残日録』から、まず第二次世界大戦へと向かう国際社会の主な出来事を転載しておこう。

5月・ノモンハン事件起こる
7月・国民徴用令・
   米、日米通商航海条約を破棄
8月・日英会談決裂
  ・スペイン国家主席にフランコ就任
  ・独ソ不可侵条約
9月・独、ポーランド侵入
  ・英仏、独に宣戦、第二次世界大戦勃発
12月・ソ連、国際連盟を除名さる

 では、『残日録』の記録を追ってみよう。

(1)3月17日
ゼロ戦が誕生した日


「長い緊張と連続のなかに」

 1939年3月17日、いわゆるゼロ戦すなわち零式艦上戦闘機の、試作第一号機が完成しためでたい日である。もう少しくわしく書けば、試作機の完成検査が行われた日で、試飛行成功となれば、ふつうその日を試作機の完成という区切りにするのが、ならわしになっていた。

 設計者、堀越二郎が、いちばん心配していたのは、重量であった。超々ジュラルミンの採用などと、あらゆる手段を研究し、機体にとりいれた。それは長い地味な重量軽減の努力なのである。はたしてそれが報いられるかどうか。
 機体の重量は1565.9キロとでた。合格!

 「周囲を見回すと、私の方を向いて、ほほえんでいる三つの顔があった。曾根、畠中、田中の三技師である。考えてみれば、長い緊張と連続のなかに、つかのま訪れるこのような喜びや安堵感を味わうために、私たちは毎日の仕事に没頭していたような気がする」
 堀越の言葉である。このたゆまぬ努力によって、世界最強の戦闘機が誕生したことを物語っている。

 ゼロ戦1940年7月から敗戦時まで使われた。また、1944年10月20日から神風特別攻撃隊で使用されていた。

(2)3月28日
スペイン内戦の終結


「この世界は美しいところである」

 戦うこと2年半、50万人といわれる死者を出したスペイン内戦は、1939年3月28日に、人民戦線側が降伏して終わった。フランコ将軍の率いるファシスト軍が首都マドリードに入城した。翌29日、フランコは内戦の終了を全世界にむけて得意そうに放送した。世界の心ある人々は不吉な予感に沈黙する。

 フランコ軍には、ドイツとイタリアが最新鋭の空軍や戦車部隊を送りこんで強力に支援した。対して人民戦線側には、作家ヘミングウェイらの参加で知られる国際義勇団を除けば、支援したのが事実上はソ連だけである。しかもソ連が供給したのは19世紀のクリミア戦争当時のあわれな武器であったのである。

 ヘミングウェイが内戦に参加した体験をもとにして書いた『誰がために鐘は鳴る』のラストで、主人公のアメリカ青年が死を前にして語った言葉がすばらしい。
「この世界は美しいところであり、そのために戦うに値するものであり、そしておれは、この世界を去ることを心から嫌だと思う」

 余計のことながら、この映画のバーグマンの美しかったこと。

(3)4月27日
満蒙開拓青少年義勇軍の計画


「フヌケの百万人に勝る」

 満洲国総務長官の星野直樹が、計画を推進するにさいして、日本の農村青年にむけメッセージを送った。
「血気にあふれた青年一万人は、フヌケの百万人に勝る。不毛の大陸の開拓に挺身するという精神で闘いぬいて、あらゆる困難をのりこえて興亜の基礎を固めていかなければいけない」
 計画は、大日本青年団と文部省が中心となり、陸軍省と関東軍が側面から応援する、という国をあげてのものとなったのである。対象は16~19歳の青少年である。名づけて満蒙開拓青少年義勇軍といった。
 この計画の決定をみたのがこの年の4月27日のことである。

 採用された少年たちは、十分な訓練をうけたあとつぎつぎに満洲へ送られることになっていた。総勢10万人が予定された。軍部の意図は、農業移民としてだけではなく、やがては満洲防備の兵力としても期待されていた。そして現実には敗戦まで8万6千人の青少年が満洲へ送られた。

 その人たちがどんな悲惨な目にあったかは書くまでもない。

 その人たちがどんな悲惨な目にあったか。
『満蒙開拓伝承を多くの人に (常陽新聞 1月10日)』という記事から抜粋しよう。

『開拓団や訓練所にいた多くの人は、戦争の悪化、敗戦の事実さえ知らされず、現地に取り残された。逃避行が始まり、捕虜収容所に入ったり、シベリアなどに抑留されたり、中国人に雇われたり。でも生きて帰れた人は幸運だった。長野県内の数字では約半数が未帰還者だ。』

(4)5月11日
ノモンハン事件の発端


「自主的に国境線を認定し……」

 関東軍の作戦参謀辻政信少佐が主となって起草した「満ソ国境紛争処理要綱」という極秘作戦命令があった。それによれば、これまでの自重の方針を捨て、国境におけるソ連軍(外蒙軍)の不法行為にたいしては、徹底的に攻撃してこれをたたきつぶすことが命じられていた。また、国境線が不明確な地域においては「自主的に国境線を認定し……兵力の多寡、国境のいかんにかかわらず必勝を期す」ことが、最前線部隊の任務とされていたのである。

 この命令示達直後の1939年5月11日、数十人の外蒙古兵が進出してきた。それはまさにこのあいまいな国境線であった。付近にノモンハンという蒙古人村落があり、それまでにもしばしば日ソ両軍の紛争がくりかえされているところであった。

 国境警備の日本軍は命令どおり、必勝を期して猛攻を加えた。これがやがて大戦争となったノモンハン事件の発端である。

 このあと、ソ連極東軍の主力が戦いに加わり、関東軍も一個師団を投入し、本格的な戦闘となった。結果として、参加した日本軍の全兵力5万6千人、うち戦没1万8千人、負傷者を加えれば73パーセントの死傷という惨たる数字が残されている。

 『昭和史探索4』にノモンハン事件の処理に当たっていた稲田正純(参謀本部作戦課長)という方の「ソ連極東軍との対決―張鼓峯・ノモンハン事件の全貌秘録」という記事が掲載されている。その結語部分を転載しておこう。

 莫大な死傷、敗戦の汚点、その代償は高かったが、私にとって更に更に忍び難かったのは、支那事変に一段階を劃して対ソ戦備に転向し、北辺の安定力を充実して世界の変動に備えるという、その指導理念が、ノモンハンのお蔭で枯れてしまったことである。
 そして仏印進駐、南進政策、大東亜戦と、思いもかけぬ方向に曲ってしまった。参謀本部を追われた私の何よりの心残りはこの一点にあった。
 ノモンハンは、日本の運命にとって、実に重大な影響を及ぼした転機であった。今、顧みてもつくづくそう思うのである。
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