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昭和の15年戦争史(24)

1938年(1)~(3)

 1937年の記事は、この年がニッポンが戦時国家へと大きく傾いていった問題の年だった。それを牽引した重要事項の一つが近衛内閣が打ち出した「国民精神総動員実施要項」だった。1938年、近衛内閣は戦時国家への道をさらに強引に推し進めるため、「国家総動員法」を成立させた。そこに至るまでの経緯を『残日録』を用いて追ってみることにするが、1938年のはじめの事項で近衛内閣の悪政を方向付けた重要事項が『残日録』に記載されていないので、まずそれを『史料集』から転載しておく。

(「史料集」から)1月11日
日中戦争と戦時体制(御前会議で決定)


支那事変(日中戦争)根本処理方針

 帝国ハ特ニ政戦両略ノ緊密ナル運用ニ依リ、左記各項ノ適切ナル実行ヲ期ス。

一、支那現中央政府ニシテ此際反省翻意シ、誠意ヲ以テ和ヲ求ムルニ於テハ、別紙(甲)、日支講和交渉条件ニ準拠シテ交渉ス。……

二、支那現中央政府カ和ヲ求メ来ラサル場合ニ於テハ、帝国ハ爾後之ヲ相手トスル事変解決ニ期待ヲ掛ケス、新興支那政権ノ成立ヲ助長シ、コレト両国国交ノ調整ヲ協定シ更生新支那ノ建設ニ協力ス。
 支那現中央政府ニ対シテハ、帝国ハ之力潰滅(かいめつ)ヲ図リ、又ハ新興中央政権ノ傘下ニ収容セラルル如ク施策ス。

三、本事変ニ対処シ、国際情勢ノ変転ニ備へ、`前記方針ノ貫徹ヲ期スル為、国家総力就中、国防力ノ急速ナル培養整備ヲ促進シ、第三国トノ友好関係ノ保持改善ヲ計ルモノトス。……

 別紙 甲
 日支講和交渉条件細目


一、支那ハ満州国ヲ正式承認スルコト。
二、支那ハ排日及反満政策ヲ放棄スルコト。
三、北支及内蒙ニ非武装地帯ヲ設定スルコト。
四、北支ハ支那主権ノ下ニ於テ日満支三国ノ共存共栄ヲ実現スルニ適当ナル機構ヲ設定シ、之ニ広汎ナル権限ヲ賦与シ、特ニ日満支経済合作ノ実ヲ挙クルコト。
五、内蒙古ニハ防共自治政府ヲ設立スルコト。……
六、支那ハ防共政策ヲ確立シ、日満両国ノ同政策遂行ニ協カスルコト。
七、中支占拠地域ニ非武装地帯ヲ設定シ、又大上海市区域ニ就(つい)テハ、日支協カシテ之カ治安ノ維持及経済発展ニ当ルコト。
八、日満支三国ハ資源ノ開発、関税、交易、航空、交通、通信等ニ関シ、所要ノ協定ヲ締結スルコト。
九、支那ハ帝国ニ対シ所要ノ賠償ヲナスコト。
       (日本外交年表竝主要文書)

 随分と虫のよい勝手な方針を決定しているが、以下に見るように、近衛内閣の悪政はこの「根本処理方針」に則っている。では、『残日録』の記事を追ってみよう。

(1)1月16日
強硬な近衛声明


「国民政府を対手とせず」

 駐華ドイツ大使トラウトマンを仲介とする和平工作もうまく進まず、中国の蒋介石政府は、期限の日まで回答をついによこさなかった。翌日、すなわち1938年1月16日、近衛文麿首相は有名な声明を発表した。
「帝国政府は爾後(じご)国民政府を対手とせず」
 昭和史をとおして、これほどいい気な言葉はない。直接の話し合いはおろか、第三者の仲介も拒否して、戦闘をつづけることを内外に宣言したと同じことであるから。

 およそなにごとであれ、交渉の余地を残さないケンカ宣言を、トップの人が発すべきではない。それを近衛はやった。日中戦争がぬきさしならぬ長期戦となっていくのは当然である。近衛は戦後になって、
「この声明は外務省の起案により広田外相から閣議にはかられたもので……軍部が正面から乗った」
と、外務省と陸軍に責任を押しつけている。しかし実は近衛が中国を軽視し、自身がとにかく勝利のつづく戦争でハッスルしていた。危機に無責任ともいえるお公家さんを首相にいただいたことが日本の悲劇であった。

 『史料集』から近衛内閣が出した無責任な政治声明「国民政府ヲ対手トセズ」の全文を転載しよう。

『帝国政府ハ南京攻略後尚ホ支那国民政俯ノ反省二最後ノ機会ヲ与フルタメ今日ニ及ヘリ。然ルニ国民政府ハ帝国ノ真意ヲ解セス漫(みだ)リニ抗戦ヲ策シ(注1)、内(うち)民人塗炭ノ苦ミヲ察セス、外(そと)東亜全局ノ和平ヲ顧(かえり)ミル所ナシ。仍(よっ)テ帝国政府ハ爾後(じご)国民政府ヲ対手トセス(注2)、帝国卜真ニ提携(ていけい)スルニ足ル新興支那政権ノ成立発展ヲ期待シ(注3)、是卜両国国交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設二協力セントス。元ヨリ帝国カ支那ノ領土及主権竝(ならび)ニ在支列国ノ権益ヲ尊重スルノ方針ニハ毫(ごう)モカハル所ナシ。今ヤ東亜和平ニ対スル帝国ノ責任愈々(いよいよ)重シ。政府ハ国民カ此ノ重大ナル任務遂行ノタメー層ノ発奮ヲ冀望(きぼう)シテ止(や)マス。     (日本外交年表竝主要文書)』

(注1)
 蒋介石は国民政府を重慶に移してなおも抗戦した。
(注2)
 1月18日に出した補足的声明では次のように述べている。
 これは「同政府ノ否認ヨリモ強イモノ」
 「国民政府ヲ否認スルト共二之ヲ抹殺セントスルノテアル」
(注3)
 重慶を脱出した汪兆銘が1940年3月、南京に新国民政府を樹立した。

(2)3月3日
国家総動員法の珍事件


「黙れ」

「全国民の精神力、物理力これを一途の目標に向って邁進せしめるという所の組織が必要なんではないか。それがこの総動員法……」

 この年の3月3日、衆議院国家総動員法案委員会で、陸軍省軍務課員の佐藤賢了中佐が、とうとうと演説をぶった。佐藤は陸相補佐の説明員でしかない。大臣でも代議士でもないものは、議会で意見をのべてはいけないのに、佐藤中佐はかまわず自己の信念を説きだした。

 代議士からは「やめさせろ」「聞く要なし」などのヤジが飛んだ。なかでも宮脇長吉代議士が大声で「やめろ」とやった。と、佐藤はキッとなり「黙れ」と怒鳴ってしまった。佐藤の『回想録』によると「黙れ、長吉」といおうとしたが、さすがに「長吉」はのみこんだとある。

 説明員が代議士に対し「黙れ」とは国会を冒涜したことになって大騒ぎ。翌日陸相は陳謝した。
「長吉とは私の父の名前である。父は声が大きくて気が短く、軍部の政治介入に批判的であった」
とは、いまは亡き作家宮脇俊三の回想。

(3)3月16日
「国家総動員法」成立


「スターリンのごとく」

 前項につづいてこの年の3月、国会は近衛文麿内閣が提出した「国家総動員法」をめぐって政友会も民政党も反対、紛糾しつづけた。勅令(天皇命令)で何でもやれる、そんな法案は認められないと、各党がはげしく抵抗したのである。

 このとき唯一の革新政党といえる社会大衆党は、政府提案にくみし、さかんな賛成論をぶってまわった。

 3月16日、西尾末広が最終審議の本会議場で、賛成演説をぶちあげた。それが歴史に残る名(迷)言となったのである。3月14日は「五箇条の御誓文」70年目にあたる。この御誓文の精神をしっかりと胸にして、近衛首相よ、と呼びかけて、
「もっと大胆率直に、日本の進むべき道はこれであると、ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、大胆に日本の進む……」
と叫ぶ西尾の声は、「近衛首相に共産主義をやれというのか」などと、もう怒号と机をたたく音で聞こえなくなった。しかし、国家総動員法は、こうした大混乱の後に、この日衆議院を通過した。

 反対意見に「勅令(天皇命令)で何でもやれる」という指摘があるが、『史料集』では第1条の他に第4条・第6条・第7条・第8条・第20条を掲載しているが、全てに「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ……」という文言で始まっている。念のためネット検索してみたら、中野文庫さんの記事『国家総動員法』で、全文読むことができる。それを見るとほとんどの条文が上記の文言で始まっている。

 さて、『史料集』の「支那事変根本処理方針」・「近衛声明」・「国家総動員法」の3記事の後にその3記事についての解説文がある。これが今回の主題のまとめとして、とても適切な解説文なので、全文転載しよう。


 1937年7月7日の盧溝橋事件を契機に日中戦争が始まるが、戦争の長期化に対応する内外の状況を右の史料から見てみよう。戦火は華北から上海に飛火し、中国軍の激しい抵抗にあうが、12月13日には首都南京を占領し、南京大虐殺をおこす。この間中国駐在ドイツ公使トラウトマンを通じて和平工作が行われたが、南京占領によって近衛首相をはじめ政府側から強硬意見が出され、対ソ戦準備を前提とし和平交渉継続を主張する参謀本部を押さえて、1938年1月11日御前会議で史料の「処理方針」が決定されたのである。

 「処理方針」は、文字通り事変に対する根本方針になるもので、第一条で中国国民政府との講和交渉をよびかけているが、第二段階として第二条を構えており、5日後の近衛声明を予期していることがわかる。

 「別紙」の交渉条件細目をみれば、3・4項は華北の植民地化と中国の半植民地化、5・6項は対ソ体制の強化などをねらっていることが明確になる。また先述のように、第二条により、全面屈服しなければ、「国民政府ヲ対手ニセズ」、傀儡政権を樹立するという強硬方針が1月16日の声明となった。日本はこうして国民政府を否認し、自ら和平の道をとざし、長期戦の泥沼へと落ちてゆくことになった。

 日中戦争の長期化は国家の経済力をすべて戦争に動員することを要求し、国家総動員法が財界や既成政党の反対を押し切って制定される。史料から経済・労働や社会生活のどのような分野に統制運用が及ぼされているかを具体的に確認しよう。これにより政府は戦争遂行のために必要と認める命令を議会の議決を必要としない勅令によって発令できることになり、「人的及物的資源」をすべて統制・動員することが可能となった。首相は日中戦争中には同法を適用しないと言明したが、1939年から同法による各種の統制法の勅令が出された。こうして議会の機能はいちじるしく弱体化し、日本におけるファシズム体制は確立されたといえよう。

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