2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(21)

『1★9★3★7』を読む(2)

 前回の辺見さんの論考の核心を抜粋すると次のくだりだろうか。
「無意識的にせよ意識的にせよ、記憶と忘却は、憶えるべきものと忘れるべきものとに政治的に選択され、そうするようになにものかにうながされている。……目鼻口のはっきりしない、どくじの顔とそれぞれの主体性を欠く幽霊たちがみな、示しあわせたように一様な動作をしていることには目をみはらざるをえない。ひたすら歴史をぬりかえようとしているのだ。」

 角川文庫版の「イクミナ 下」の巻末に徐京植(ソ・キヨンシク 作家・文学者・東京経済大学現代法学部教授)という方が「解説ひとつの応答 -魯迅を補助線として」と題した解説が掲載されている。とてもよい解説で全文を紹介したいのだが、かなり長いので、上の抜粋文と呼応している最後の10ページほどを転載しておくことにする。

血債

 私にとって、たとえたった一人でも、日本人作家の口から次の言葉を聴くことができたことは幸いであった。ああ、それにしても、なんという「幸い」なのか!

〈このひとはなにをしてきたのだ。なにをみてきたのか。それらの疑問はけっきょく問いたださなかったわたしにも、不問に付すことで受傷を避ける狡いおもわくがどこかにあったのであり、ついに語ることのなかった父と、ついにじかには質さなかったわたしとは、おそらくは同罪なのだ。訊かないこと――かたらないこと。多くの場合、そこに戦後精神の怪しげな均衡が保たれていた。〉

 しかり。「かたらないこと」「質さないこと」によって「戦後精神の怪しげな均衡」は保たれてきたのだ。あえて語ろうとするもの、質そうとするものは「スルー」され孤立させられる。それがニッポンを成り立たせてきた。そのことをニッポンジンたちは熟知している。辺見庸は戦後ニッポンジンの一典型である父の肖像を描くことによって、薄笑いの表皮に覆われた戦後ニッポンジンの素顔(その一端)を描いた。これくらい明瞭に、執拗に、自己とニッポンを「解剖」した日本人作家は数少ない。その数少ない先行者が『時間』の堀田善衛であり、『汝の母を!』の武田泰淳である。大虐殺の余燼がくすぶり、流れた血の匂いが消えやらぬ中で堀田や武田が切り開こうとしたのは、他者の目で自己を見つめ、自己欺瞞を排して、自律的な倫理的更生を目指す道であった。その道を歩もうと志した人々は、戦後の一時期、少数ながらたしかに存在していた。だが、おそらく1960年代中頃を境として、この細い道は忘れ去られていった。いまは雑草に覆われ地図からも消されようとしているこの道を、辺見庸という日本人作家が辿ろうとしている。

 ここで私は、この作家への「応答」として、言わずもがなの一言を付け加えたい。
 「耳をうたぐった。発狂したのかと思った」というのは、ほんとうだろうか? 私なら耳を疑わない。「やっぱりな……」と納得するだろう。私が幼い時、わか家は京都市の下町で小さな町工場を営んでいた。まだ40前だった母は、髪を振り乱して働き、工員たちのための賄いも受け持っていた。幼かった私は時々、仕事を終え銭湯から帰って一杯ひっかけた工員たちとともに食卓につくこともあった。そのような場で、しばしば、大陸帰りの工員が上機嫌で自慢話をした。「チャンコロ」を銃剣で突き刺した話(剣の尖端が相手の体内に入っていくときの感触の描写までも)、「朝鮮ピー」を買った話などだ。いま思えば、武田泰淳『汝の母を!』の「強姦好きの上等兵」のような人物だったのだろう。かれらは何のためらいもなく、朝鮮人である私や母の前で、そんな話題に興じた。朝鮮人をスリッパでぶん殴るなど、かれらにとってはあらためて話題にする価値もない日常の些事だっただろう。それが、幼い私の知った、戦後日本社会の実相である。

 辺見庸の父は例外ではない。「発狂したのか」というのなら、突然にではなく、初めからニッポンジンたちは発狂していたのだ。そうでなければ、近隣民族の資源を奪い、自らの半分以下の低賃金で酷使し、反抗すれば投獄し、拷問を加え、殺害し、言語も姓名も奪い、若い女性を「慰安婦」として戦場に送り込む、そうした行為ができただろうか? その植民地支配を「民度の低い連中を引き上げてやるためだった」などと言い繕って平然としていることができるだろうか? しかも、敗戦後の数年間、昭和天皇死去の際、あるいは90年代に「慰安婦」をはじめ被害者たちが次々に現れ出た際など、その歴史を骨身に沁みて省察し、「正気」に返る機会は何回かあったのに、ニッポンジンたちはことごとくその機会を「スルー」してきたのである。

〈墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を消すことはできない。/血債はかならず同一物で返済されねばならない。支払いがおそければおそいほど、利息は増さねばならない。〉(「花なきバラの二」)

 辺見庸の世代なら多くの人々が、60年代後半の大学闘争の渦中で学生闘士たちが好んで魯迅のこの言葉を口にしたことを記憶しているだろう。私自身は7歳年下だが、大学キャンパスの立て看板に独特な文字でこの文が大書されているのを何回も見た憶えがある。当時からの疑問だが、彼らは誰の誰に対する「血債」を想定していたのか? 彼ら自身を血債の返済を迫る側に擬していたのか、それとも迫られる側にか? その認識もあやふやなままに学生闘士たちの多くが会社人間となり、高度経済成長の推進者兼受益者となった。自国の侵略戦争の記憶はおろか、拙くはあれ真摯な部分もあったはずの自分自身の学生時代の記憶も消し去ったまま、「まあ、いろいろ……」と、薄笑いのうちに日々を生きている。小津安二郎の映画で笠智衆が演じる男のように。

 だが、血債はいまだ返済されていない、その間にも利息は増している――このことだけは確かだ。

 ニッポンジンは、「琉球処分」に始まり太平洋戦争敗戦にいたる植民地支配と侵略戦争の数十年を経て、いまにいたるも内なる奴隷主の心性、植民地主義の「狂気」から脱け出ることができないままだ。むしろ近年、「発狂」の度を増している。父の漏らした一言にいまさら耳を疑い、発狂でもしたのかと考える辺見少年もまた、戦後ニッポンという仮構の中で育ち、長年にわたって実相を見る眼を覆われてきたというべきであろう。辺見庸の手柄は、あえて「梟蛇鬼怪(注:きょうだきかい お化けや怪物という意)」となって、父やニッポンを解剖したことだけではなく、そういうニッポンを構成し延命させてきたものの一員として、自分自身の血肉をさらけ出して見せた点にある。

安倍首相「戦後70年談話」

 今日、「ニッポンという病」はいたるところで重篤な症状をみせている。その最たる例は2015年の安倍首の「戦後70年談話」であろう。世人は「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」という四つの「キーワード」がそこに含まれるかという点にのみ注目した。結果的にこれらの「キーワード」は取り込まれ、マスコミを含む世人の反応はおおむね好意的であった。安倍首相の支持率も上昇した。なんと耐えがたいまでの浅薄さ、愚かさであることか。

 これらの「キーワード」は、誰の誰に対する「反省」であり「謝罪」なのか。すべて文脈をずらして用いられたゴマカシたった。「安倍談話」はその冒頭で、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と述べている。この認識は安倍氏のみならず、長年にわたってニッポンジンたちが広く共有してきたものだ。だが事実としては、日露戦争は中国東北地方(満州)の覇権をめぐる戦争であった。仙台医学校留学生たった魯迅が教室で、中国人が日本軍人に斬首される場面のスライド写真を見せられたのは、この時のことだ。犠牲者たちは「露探」(ロシアのスパイ)として捕らえられ、国際法に反して裁判もなく殺害されたのだ。しかも、同じ教室の日本人学生たちはみなこの映像に「拍手喝采」したのである(「吶喊自序」 注:中国近代文学の父 と呼ばれる魯迅の作品集「吶喊」(とっかん)に著者自身がよせた序文)。ニッポンジンはなぜ自国が犯したこの罪を恥じることもないまま、魯迅文学に「感動」したり、それを楽しんだりすることができるのか? 虐殺は1937年に不意に起こったのではない。日清日露戦争など、日本近代の始発点から当然のことのように連続してきたのである。

 朝鮮は日露戦争の兵站基地として日本に軍事占領され、外交自主権を剥奪され「保護国」とされた。それがのちの「併合」へと直接につながっていった。抵抗した「抗日義兵」をはじめとする朝鮮民衆は無残に弾圧され殺戮された。つまり日露戦争は、日本による朝鮮植民地化戦争の一環なのであった。安倍首相は、その朝鮮民族に向かって、日露戦争を引き合いに自国を美化してみせたのだ。安倍談話は北海道、琉球(沖縄)、台湾に対する征服と支配についても、一言の「お詫び」も「反省」も述べていない。

 安倍首相はその談話において、西洋諸国から押し寄せた植民地支配の波への危機感が日本にとって「近代化の原動力」となったと述べた。彼が「反省」したのは、第一次世界大戦後、世界恐慌が発生し欧米諸国が経済のブロック化を進める中、孤立感を深めた日本が「新しい国際秩序」への「挑戦者」となって進むべき針路を誤った、という点である。これは欧米帝国主義列強に「挑戦」して申し訳なかったという挨拶にすぎず、植民地支配と侵略戦争の被害者に向けた「反省」や「謝罪」ではありえない。
「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」
というくだりもあるが、これは「慰安婦」(日本軍性奴隷)を指すことばだろうか。誰が傷つけたのかという主語をなぜ隠すのか。そもそも「忘れてはなりません」とは、誰が誰に向かって教え諭そうというのか。

 「安倍談話」は、その結語部分で、
「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」
と述べている。自己陶酔的な美辞麗句である。若い世代を国家の共犯に引き入れ、「謝罪を続ける宿命」を負わせているのは日本政府そのものではないか。

 だが、より深刻なことは、このようなゴマカシ、わざとらしい美辞麗句に、マスコミをはじめとする多数のニッポンジンが同調したことだ。実際に起こった出来事は一つの国と国民が他民族を侵略し、強姦し、虐殺したということである。その当事者である一国の政治指導者が、戦後70年を期して発した談話が、これであった。私は日本国民ではないが、「人間」として、この談話に激しい羞恥を禁じ得ない。このテクストは「歴史修正主義」という以前に、言葉に対するシニシズムそのものであり、人間に対する愚弄である。被害者に対してだけではない、自国民を含む人間たちの知性、理性、廉恥心に対する愚弄である。当然、愚弄された側から憤激の声が湧き起こってしかるべきであった。だが、もちろんニッポンではいつものとおり、そういうことは起きなかった。

私は人をだましたい

〈…この30年間、私が見せつけられたのは青年の血ばかりだった。その血は層々と積まれてゆき、息もできぬほどに私を埋めた。私はただ、このような筆墨を弄んで数句の文章を綴ることによって、わずかに泥の中に小さな穴を掘り、そこから喘ぎつづけるだけなのである。〉(「忘却のための記念」)

 密閉された鉄の部屋で眠りこけながら徐々に窒息していく同胞のなか、ひとり目覚めてある魯迅の「寂寞」(「吶喊自序」)は、辺見庸のものでもある。だがいうまでもなく、両者には大きな違いもある。時代も異なるが、中国と日本、その立ち位置が違う。魯迅は封建勢力や白色テロ勢力によって、さらに外来帝国主義勢力によって流された同胞青年の血を見つめた。これを逆にいうと彼には、血を流して抵抗する同胞青年たちがいたということでもある。一方、辺見庸が見つめているのは、同胞であるニッポンジンが流させた、中国人や朝鮮人など他者の血である。彼の同胞は(小林多喜二のような例外を除いて)血を流して抵抗するのではなく、他者の血を流しておきながら、すっとぼけているか、その記憶をきれいさっぱり消し去った。これが魯迅と辺見の違いである。どちらの「寂寞」がより深いか、などと問うまい。「寂寞」はいかに深かろうと、「血」には代えがたい。

〈終りに臨んで血で個人の予感を書添えて御礼とします。〉
 魯迅が日本語で書き、日本の雑誌「改造」1936年4月号に掲載させた文章「私は人をだましたい」の末尾の一行である。この年10月19日、魯迅は苦闘の人生を閉じた。盧溝橋事件を口実に日本が中国本土に本格的に軍事侵攻を開始したのが翌年7月、南京で大虐殺が繰り広げられたのは同12月のことであった。魯迅は「1★9★3★7」の前年に、日本人に向けて「血の予感」を書き残したのである。その予感は的中した。

 この「予感」を受けとめた日本人はどれくらいいたのだろうか? 堀田善衛に「魯迅の墓その他」という短いエッセーがある。終戦前の1945年6月、「武田泰淳といっしょであったか」どうかは「忘れてしまったが」、魯迅の墓を訪れたというのである。堀田はそれ以前から魯迅の作品に親しみ、その「真黒いみたいな絶望と、その底から、火をつければ白熱もするであろう「復讐」の、青い焔のような念々、これにも激烈なものを受け取らされた」とこのエッセーに記している。「復讐の青い焔のような念々」……日本に魯迅の読者・研究者は多いが、この堀田のように魯迅をとらえたものは多くないだろう。堀田や武田が辺見庸の先行者たり得たのは、彼らの視野に魯迅という強烈な他者の姿をとらえていたからではないだろうか。他者のまなざしがかろうじて「発狂」の淵を前に人を立ち止まらせる。自己しか見えないものは、その淵の底に沈むしかない。

 辺見庸が本書で試みたことを短く言うとすれば、それは「人倫」を救うことである、そう私は思う。汝殺すなかれ、犯すなかれ、奪うなかれ、……これらの倫理規範を、神や国家からの命令としてではなく、ひとりの人間が自己の内奥からこみ上げてくる自律的な倫理性として発揮することができるか。人間は自律的に倫理的であることができるのか。

 虐殺は人の命を奪うだけでなく、「人間性」や「倫理性」という理念の普遍性を大破壊しつくす。南京で虐殺されたのは中国の民衆だが、日本人は自己の倫理性の基般を自ら破壊したのである。いまや「人間性」や「倫理性」という言葉も、このクニではせいぜい冷笑の対象にされるか、国家権力による利用物にまで貶められてしまった。それでも人間たちは自らを問い、自らの内に自律的な倫理性を打ち立てなければならない。そうでなければ、虐殺は果てしもなく反復されていくほかないのだ。

 辺見庸が東日本大震災の後に出演した印象深いテレビ番組がある(「こころの時代 瓦礫の中から言葉を」2012年4月24日放映NHK Eテレ)。この番組中、辺見の詩「入江」の抜粋が朗読された。震災以前に書かれたその詩に表明されていたのは、来るべき破局の「予感」である。予感は的中した。この番組名を借りて言うとすれば、本書での辺見庸の試みは、大虐殺のあとの荒れ野で、死者の骨を拾うように「人倫」の破片を拾い、それを再構築しようとすることである。彼の絶望的反抗は、どんなに絶望的であろうと今後も続くであろう。「予感」が彼を突き動かしてやまないからである。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2341-164d4c30
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック