FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(20)

『1★9★3★7』を読む(1)

 前回の「イクミナ」の角川文庫版の「序」は次のように終わっていた。
「わたしたちはますます多くの想像力の限界をこえる諸事実にとりかこまれている。いま、あらたな世界戦争の絵図もにじむ未来をイメージするとしたら、首をねじり、どうしても過去をふりかえらなくてはならない。なんどでも、なんどでも。」
ここで述べている通り、「イクミナ」は「なんども、なんども」過去を振り返っている著作である。『残日録』から取り出した事項に関連した辺見さんの論説を「なんどでも、なんどでも」読んでみることにする。

 まず第1章第2節「『時間』はなぜ消されたのか」が「『1★9★3★7』とはなにか。」と問い、堀田善衛の小説『時間』をもとに「南京大虐殺」という消された時間を凝視している。

2 『時間』はなぜ消されたのか

 ぜんたい、1★9★3★7とはなにか。それをこれから書こうとおもう。そうするにあたって、小説『時間』に、このはなしの経糸(たていと)のやくわりをつとめてもらう。小説は主人公である中国のある知識人(「わたし」=陳英諦)の手記というかたちではじまる。ここでまずもって注目しなければならないのは、堀田善衛がこの作品で、だいたんにも、「みる」ことと「みられる」ことの、いわば〈目玉のいれかえ〉のようなことをやったことだ。大ざっぱにいえば、加害と被害の立場の転換である。ニッポン(ジン)によってみられる中国(人)ではなく、37歳の中国人・陳英諦の目でみられ思弁された1937年の日本と日本人あるいは中国と中国人。かれらは南京でどうふるまったか。それについて、堀田善衛の目が、被害のがわの目玉にいれかわって情景をスケッチし、いためつけられたがわの内面の葛藤とさけびと、いためつけるがわをはるかに凌駕(りょうが)する大きな時間論と宇宙観をつづっている。その方法が成功しているかどうかを云々するのは本書の趣旨ではない。堀田は創作した主人公にことよせてみずからのおもいを述べているのだから、げんみつには中国人の目でみた日本人ではなく、作家が作中の「わたし」=陳英諦に仮託してかたらせたニッポンジンの姿なのである。「わたし」はしかも、南京に侵攻した「皇軍」の大虐殺で妻子を惨殺され、じぶんも殺されかけた人物という設定である。堀田善衛は無謀ともおもえるこの方法で当時のニッポンジン(兵)の身ぶりとそれらが幽鬼のように集団でうごめく様を、〈中国人はどうみたか〉という視点からえがき、大惨劇を織りこんだ滔々(とうとう)たる時間を対象化しようとしたのだった。

 『時間』は雑誌「世界」で、サンフランシスコ講和条約が発効した翌年にあたる1953(昭和28)年11月号から1955年1月号まで連載された(途中一部は「世界」だけでなく他誌にも分載された)。堀田が35歳から36歳にかけての執筆意欲をみなぎらせていた時期である。単行本は55年に新潮社から刊行されている。その帯に刷られた「著者のことば」で、作家はいくぶん興奮気味におもいをかたっている。
「思想に右も左もある筈がない。進歩も退歩もあるものか。今日に生きてゆくについて、我々を生かしてくれる、母なる思想――それを私は求めた。この作品は、根かぎりの力をそそいで書いた。良くも悪くも書き切った」。
 ここには「南京大虐殺」の五文字はない。やや唐突にもおもわれる「思想に右も左もある筈がない」という文言は、1950(昭和25)年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のさしがねにより政府や企業がおこなった共産党員とその同調者にたいする一方的解雇(レッドパージ)とその余波としての思想状況への反発だろうか。「根かぎりの力をそそいで書いた」とは、なにかの「覚悟」さえ感じさせる、堀田にしてはよほど気ばった口吻(こうふん)である。『時間』は、しかし、文庫化もされ少なからぬ読者に読まれたにもかかわらず、さして大きな話題になりはしなかった。その真価をみとめられることは、ごく一部の例外をのぞき、なかったのである。読者や評者の目にはとまりながらも、作家が投げかけた問題が、文壇や思想界ではげしく議論された形跡はない。『時間』がスケッチした大虐殺像に世評がつよく反応した痕跡もない。それはなぜだったのだろうか。「圧殺」といったあからさまなかたちではなく、無視ないし黙殺という、いかにも戦後日本的手口で、つきせぬナゾを秘めた『時間』のしじまとさけび、闇と血の海は、いずれにせよ野ざらしにされてかえりみられなかったのだった。

 物語『時間』の黙殺と忘却は、わたしにとって、南京の虐殺をながれた「時間」そのものの無視にもみえてならない。忘却と無視とは人間のまったく作為なき身ぶりではない。無意識的にせよ意識的にせよ、記憶と忘却は、憶えるべきものと忘れるべきものとに政治的に選択され、そうするようになにものかにうながされている。かつてたしかに在った時間を、じつはなかったというのが、いま流行(はや)っている。在ったことをなかったといい、無理やり消した時間の穴うめをするがごとく、なかったことを在ったという「芸」が、中世のあやしい魔術のように、人気をあつめているようだ。在ったことをなかったといいつのる集団は、在ったことを在ったと主張する者らを「敵」とみなし、「国賊」という下卑た古語でののしるまでに増長している。在ったことをなかったといいつのる奔流は、在ったことは在ったというながれを各所で呑みこむほどのいきおいになりつつある。ここにわたしは、よみがえり、そのつど姿を変え、しかし、執拗に反復しながら永続する「幽霊」をみる。またもあらわれた幽霊を、ファシズムと呼ぶか天皇制ファシズムと呼ぶか国家主義と呼ぶか全体主義と呼ぶべきかに、とくにかんしんはない。ただ、目鼻口のはっきりしない、どくじの顔とそれぞれの主体性を欠く幽霊たちがみな、示しあわせたように一様な動作をしていることには目をみはらざるをえない。ひたすら歴史をぬりかえようとしているのだ。

 続く3節では浜田知明(版画家・彫刻家)さんの文言を取り上げて、ニッポンに蔓延(はびこ)っている幽霊の根源を突き詰めている。


3 幽霊たちの「誇らかな顔」

 幽雲たちのさまようこの風景をみるにつけ、わたしはつくづく、くぐもった集団的エネルギーと集団的錯視というものの怖さを感じて戦慄する。「よみがえる亡霊」と題された不気味なエッチングが手もとにある。真っ暗な海に、潜水艦であろうか、奇怪な軍艦が浮かんでいる。背後にうっすら水平線がみえる。軍艦の船楼のてっぺんには、あろうことか、片目を見ひらいた巨きな死者の首がくくりつけられている。この作品(1956年)には作者の版画家・彫刻家浜田知明(はまだ ちめい)のつぎのようなことばがそえられている。

  最近、
  赦免されて刑務所の門を出る
  一部戦犯者たちの
  誇らかな顔と
  不謹慎な言葉には
  激しい憤りを覚えずにはいられません。
  再軍備の声は巷に高く
  その眼から怪しげな光芒を放つ亡霊は、
  今や
  暗く淀んだ海面から浮び上がりつつ
  あります
    (浜田知明作品集『取引・軍隊・戦場』現代美術社)

 幽霊たちはとうのむかしから「誇らかな顔」をして闊歩(かっぽ)していたのだ。浜田はおなじ年に、亡霊にからむ簡明なじじつを記している。
「日本に於いては/日本人による/戦争責任者の裁判は/行われませんでした」。
 あまりにも簡単明瞭な文言にわたしはたじろぐ。そして、いまさら、度肝をぬかれる。ニッポンにおけるニッポンジンによる戦争責任者の裁判は行われなかったもなにも、圧倒的多数の人びとがじつは戦犯受刑者の「即時釈放」を望んでいたのである。それは、権力やマスコミにしむけられたものとは言えない、民衆のあからさまな"本音"でもあった。1950年代の中ごろまでには、戦犯の即時釈放を請願する署名が、地方自治体と各種団体がそれぞれ実施したものを合わせ、約4千万人にたっしたという。そのころの総人口が9千万人に満たなかったことをおもえば、成人の大多数が戦犯放免を求めていたことになる。戦争犯罪者、戦争責任者を弾劾する声はきわめて弱かったのだ。いや、「戦争犯罪「戦争責任」というがいねんと自覚そのものが希薄であった。ニッポンはなぜそうだったのか。このクニにはなにがあり、なにがなかったのか。ニッポンがおこなったこととおこなわなかったこと。それらを念頭に稿をおこす。

 本書の緯糸(よこいと)としては、書き手であるわたしじしんのすごしてきた時間を、「私記」として、挿入する。「戦争」――「中国」――「父」が、得体のしれない凝(こご)りとなって内面で浮き沈みしているわたしじしんの私的時間(記憶)を、おりおりフラッシュバック のようにさしはさむ。そうすることでどんな絵模様が浮きでてくるか、いまはわからない。わたしじしんの時間はいま、ひとは、なにを、どのように、なぜ、したのか……または……ひとは、なにを、どのように、なぜ、しなかったのか……という疑問ではちきれんばかりにふくらんでいる。その「ひと」のなかには、亡き父がいて、わたしがいる。答えはわからない。けれども、どうしても問わずにはいられない。せめて問うことさえできれば、問いじしんのなかに、かすかなりとも答えの糸口がみえてくるはずである。問わないでいるのは、たぶん、罪以上の罪である。小説『時間』の末尾はつぎのような一行である。この最後の一行をあえて冒頭において、1★9★3★7(イクミナ)の旅をはじめることにする。

「救いがあるかないか、それは知らぬ。が、収穫のそれのように、人生は何度でも発見される」――。

 章末に堀田さんと浜田さんの履歴が掲載されているのでそれを転載しておこう。

堀田善衛 ほった・よしえ(1918~98年)
 作家。富山県生まれ。慶應義塾大学仏文科卒。上海で敗戦を迎えた後、中国国民党宣伝部に一時留用される。51年『広場の孤独』他で芥川賞。59年アジア・アフリカ作家会議日本協議会事務長。文明批評でも知られた。著書に『橋上幻像』『ゴヤ』『方丈記私記』『上海にて』など。

浜田知明 はまだ・ちめい(1917年~)
 版画家、彫刻家。熊本県生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)卒。40年中国へ出征。戦後、自由美術家協会会員に。戦争体験を描いた版画「初年兵哀歌」シリーズが国内外で注目される。83年ごろから彫刻を始める。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2340-e42b18ff
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック