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561 「創価学会」とは何か。(3)
牧口常三郎の「価値論」
2006年7月27日(木)


 左右田の価値論を要約すると
① 真、善、美という価値に「経済的価値=利の価値」を加えたうえ、さらに
② 全ての価値の間には「位階秩序」はないとした。
③ また価値には「文化価値として客観的に実現された側面」の他にもう一つ 「個人が積極的に新しい価値を作って行く」という「創造者価値」という側面 があるとし、「創造者価値」という概念を付け加えた。

 この左右田の価値論を牧口はどう変えていったか。
(1) 「真善美」という価値から「真」を除外し、「利」を付け加えて「善利美」 とした。
(2) 利を中心に価値の「位階秩序」を再構成した。
(3) 創立した団体の名称「創価教育学会」に見られるように、「創造者価値」を 「創価」という概念として継承した。

 (1)について梅原さんは次のように詳しく分析している。

 まず牧口が真を価値の表から落すのは次のような理由による。

 真は価値ではない。なぜなら価値は人間と物体との関係をあらわし、した がってそれは人間の側と、物体の側の二つの条件に相対的に左右される。しかし 真理は客観的な物の認識に属し、それは主体の意志によって左右されない。主体 と客体の関係をあらわす評価作用と、客体そのものの研究である認識作用は全く 異なった能力であり、したがって認識作用に属する真を評価作用に属する価値に 包摂するのは間違いだというのである。

「真理とは実在及び其の相互間の関係現象を客観した質的同等の概念で、価値 とは実在及び其の相互関係現象の影響性に動かされたる主体の反応量によって、 対象の関係力を測定した結果を云うのである。……故に真理は人にも時代にも 環境にも関係なく不変であるが、価値は人と対象との関係性であるから人によ り時代により環境によって変化することは当然である」(『価値論』 11頁)。

 この認識と評価、価値と真理の牧口の区別は、彼や創価学会の信者が思う程、 独創的なものではない。大正時代に日本で最も多く読まれた哲学概論であり、 牧口が愛読したであろうヴィンデルバントの『哲学概論』に次のような言葉があ る。

「かのアリストテレスは哲学を分けて理論的方面と実践的方面となしたが、之は 現今に至るまで広く用いられて来た。そこで今我等はここに論ぜんとする対象を ば知識の問題と生命の問題、即ち実在問題と価値問題或は理論と実践 ― 近 頃の言葉では価値 ― 問題とに分って論じた方が最も良いと思ふ」(ヴィンデ ルバント『哲学概論』松原完訳26頁)。

 この言葉のようにヴィンデルバントは『哲学概論』を第一篇、理論問題、第二篇、価値 問題に分けるが、彼が強調しようとしたのは、このように理論と価値、認識と評 価とは全くはなれた二つのジャンルではなく、互に密接に関係するものであると いうことであった。この存在と価値、認識と評価とを結びつけるものがむしろ真 なる実在という観念であった。真なる実在という観念は一面において存在の問 題、認識の問題であると同時に他面において「人間精神の価値規定」であり 「理想の実体化」であり、ようするに価値の価値たるものでもあった。

 牧口はヴィンデルバントとは逆にこうした二重の世界を峻別することに急であ り、異なるものの二重的性格を認めようとしないのである。
(中略)

 むしろ真なる価値への否定はもっと別な所に根拠があろう。

「重ねて例をいえば、お米はどのようにして作るかという方程式を知ることは、 真理の概念の問題であって、お米を売買する、お米を食べる問題とは別であり、 作り方をいくら知っていても、満腹にはならないのである」(『折伏教典』、 第4版、255頁)。

 この『折伏教典』の言葉は表面上の理由はともあれ、真を価値からはずした 牧口常三郎の隠れた動機を物語っているように思われる。学者は価値として真 を求める。しかし民衆の腹はそれだけではいっこうにふくれぬではないか。こ の真の価値の否定は、民衆の幸福と直接につながらない真理を追求している当 時の日本の学問にたいする牧口の批判から生れたものであろう。

 このように真を価値の座からはずす牧口は真のかわりに利を加え、利をむし ろ価値の中心におくのである。牧口が利を価値の中心においたのは理論的には 左右田喜一郎の経済哲学の影響であろう。


 いまだ宗教色のない段階での理論だが、昭和初期の日本の庶民特に農村の疲弊 が牧口に「利」を最重要視せしめたといえそうだ。後に宗教団体に変貌するとき、 この経済的貧困という物質的な「欠乏(感)」を取り込む性質の宗教となる必然 性が牧口の価値論の中にすでにあった。

 (2)についての梅原さんの詳論は次のようである。

 彼(牧口)によれば美という価値は結局快感価値であり、われわれは自分の肉 体の一部の快感にうったえてあるものを好き嫌いと言う。それは結局外界に対し て、われわれの一部が反応する価値である。外界に対してわれわれの全生命が 反応する価値は利の価値であり、利の価値こそわれわれと物との関係の基本であ り、その関係を増進されることこそわれわれと物との関係を緊密にすることであ る。善という価値も結局社会的利であり、社会的利をのぞいて善そのものがある わけではない。彼による新しい価値の表は次のようになる。

一、美的価値=部分的生命に関する感覚的価値
二、利的価値=全人的生命に関する個体的価値
三、善的価値=団体的生命に関する社会的価値(『価値論』125頁)

 牧口の価値論は、結局左右田によって権利回復させられた利の価値を中心とす る、左右田によって否定された価値の位階秩序の再編成であったであろうが、こ の辺に銀行家の立場から利を説く左右田の思想と、庶民の立場から利を説く牧口 の価値論との違いがあろう。

 昭和6年に書かれた牧口の実践的に切迫した調子の序文が示すように、庶民の一人であった牧口は民衆の求めているものを如実に 知っていたのである。腹のすいた民衆にはまず米が、メシが、パンが必要なの だ。そのためには利が価値の中心となり、すべての民衆が利を得る社会を作るこ とが善でなくてはならぬと言うのであろう。

 こうした現実主義の立場から彼はまた聖の価値を価値の概念からのぞくのであ る。彼は宗教は生活の基本原理を与えるものであり、生活の基本原理は美、利、 善の価値の追求に他ならず、このような価値をはなれて聖なる価値があるのでは ないと言う。この牧口の聖なる価値の否定は結局、彼の現世主義が、この世から 超越した、神の恐怖と恩寵を示す概念である「聖なるもの」、という概念を拒否 したからであろう。

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 コメント
この記事へのコメント
創価学会は真の宗教団体(3)
【私個人のコメント】
(1)や(2)でのコメントと重複しますが内容をはっきり提唱しない「真」という名前を「価値論」の中で他のはっきりしている善や美という生活上の真理と同列に混ぜて論じることは的外れで、「真」には「利」をあてはめるのが良いと思います。
また、生命論、つまり宗教上の「真」であれば、生活上の真理「美、善」と同列に論ずるべきだはないと思います。
ちなみに美、利、善や他の意見とか思想の中に常住の真理があります。(日蓮大聖人の仏法はもっと壮大ですがここでは割愛します)
一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」(日蓮大聖人御書全集・擅越某御返事・1295ページ8行目)とあるとおりです。
そして生命論上の真理は南無妙法蓮華経で、また一人一人が根本とする必要があるということです。
「利」を中心に価値の「位階秩序」を再構成したのではなく、「善」を生活上の基盤にすべきとした序列です。実行面でどれが目立つかは時代や環境によって違って見えます。
神の恐怖と恩寵を示す概念では神と信者の間にたつ仲介者に強大な権力や支配力が生まれ、信者は不幸を体験するでしょう。
人法一箇の日蓮大聖人の御本尊をたもつ必要があります。
2007/11/12(月) 10:57 | URL | すすき #-[ 編集]
創価学会はカルト指定された新興宗教団体
カルト団体創価学会の機関紙である聖教新聞の大本営発表だけを信じて盲信する創価学会員は、創価学会にとって都合の悪い事件やニュースは信者を洗脳する為に偏向報道され、聖教新聞では報道されないという事実を知るべきである。

一例を出すと、竹入義勝に対する訴訟で創価学会と公明党側が敗訴した事実も聖教新聞では報道されていない。
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/85505/%92%7C%93%FC%8B%60%8F%9F/2/

つまり聖教新聞を読んでいる創価学会員は、創価学会に洗脳され騙され続けているという訳です。
2009/05/03(日) 14:27 | URL | 池田犬作 #-[ 編集]
学会とコーポレートガバナンス
牧口常三郎は大善生活実験証明座談会を始めたのだから「善」を価値の中心に設けて考えを纏めあげたのでしょう。
2009/12/24(木) 04:52 | URL | 天蓋真鏡 #-[ 編集]
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