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昭和の15戦争史(20)

1937年とはどんな時代だったのか

 前回で『残日録』の1937年に関する全項目の転載を終わったが、『残日録』を離れて、1937年について書き続けていきたい。その理由は次の通りである。

 1937年を特徴付ける重要な事項は二つある。一つは日中戦争の拡大の到達点である南京占領とその時起こった南京虐殺事件。もう一つはそこに至る背景にあった近衛内閣の「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」という掛声のもとに制定された「国民精神総動員法」である。この二つが1937年に日本を戦時国家へ大きく変貌させていったのだった。

 さて、カテゴリ「昭和の15戦争史」を始めたとき、教科書として半藤一利さんの『昭和史…』の他に辺見庸さん『1★9★3★7(以下、「イクミナ」と略称する)』を挙げておいたが、「イクミナ」をこれまで全く利用しなかったが、1937年を取り上げた今、「イクミナ」の出番が来た。1937年がどういう年だったのかを「イクミナ」を用いて詳しく補充したいと思った。

 まず、辺見さんが1937年をどう捉えているのか、「過去のなかの未来」と題する角川文庫版の「序」を読んでみよう。少し長いが、全文転載する。


過去のなかの未来
    -角川文庫の「序」にかえて

 かつて、1937年という夢のような「時」があった。信じがたいことに、そのとき、ニッポンという極東の弧状列島は、いまよりもよほど明るかった。げんざいより「希望」と「活気」と「勇気」にあふれていた。1937年という「時」には「吉兆」ばかりがかたられ、街や村はしばしば祝賀パレードでわきかえった。1937年には人びとの笑顔と歓呼の声がはじけ、「善意」と団結心と助けあいの、いわゆる公徳心というやつがたかまった。人びとはたかぶっていた。不思議なことに、1937年に「暗黒」を感じたひとは少数だった。まして、1937年に、1941年12月8日や1945年8月6日、同9日、同15日の光景をちょっとでも予感したものは、多くの記録からみて、皆無であり絶無であった。1937年は妙に明るかったのだ。そのことをおもうと、わたしの意識は朦朧(もうろう)としてしまう。

 2016年秋のいまは、なんだか明るくない。かりに「未来は希望にみちている」と、いま、目をかがやかせて叫ぶものがいるとしたら、よほどの鈍感か、精神の乱れをうたがわれてもしかたがない。あるいは趣味のよくないブラックジョークと失笑されるだろう。声をひそめて言うしかないのだが、これほど「凶兆」ばかりがまざまざと目につく時代は戦後としてはかつてないだろう。つまり、ごくおだやかな表現で、なるべく抑制的に言っても、「未来は不安にみちている」か「未来はかつてなく巨きな危機にひんしている」というのが、衆目のみとめるところでもあり、衆人のいつわらざる予感であり内心の声ではないのか。1944年生まれのわたしが、物心ついてからこれまで、ありていに申してして、これほど「希望絶無」の状況はなかった。

 ところが、不安や危機、絶望の中身がどんなものか描出するとなると、かならずしも容易ではない。それに、今世紀の動態の不可測性と、今後にありうべき大いなる崩壊と暴力のイメージをかたるのに、ニッポンのメディアや論者たちはおしなべて勇敢でも大胆でも正直でも勉強熱心でもない。むしろ姑息(こそく)で、あまりにもいじましく保守的である。ために、多少の異同と曲折はあれ、おおむね「いま」の時間がよもやUターンや断絶や爆発などはすまいと、だれもがおもうかおもったふりをし、大した根拠もない予断にもとづいて、順当に持続する現状の情景のせいぜい近似値をしか「未来像」として提示しえない。世界中であいつぐできごとはすでに人間の想像力の限界を遠く追いこしているにもかかわらず、である。わたしたちはできごとに置いてけぼりにされている。歴史はげんじつを飛びこしている。

 いかなる精緻(せいち)なITもビッグデータも、フクシマ原発の炉心溶融を事前に警告することはなかった。イスラム国(IS)の成立とその行動、シリアの奈落を予測することもできなかった。フランス革命を祝うパリ祭の日に、ニースで二百数十人が死傷するトラック・テロ事件がおきるなどとだれが直観しえただろうか。大型トラックが雑踏のなかをジグザグ走行し、子どもたちをふくむ多数の市民を轢(ひ)き殺してゆく風景の原因と背景にかんし、深々と腑におちる説明をするのは困難と言うほかない。原因と結果、因果関係、できごとの法則性……を明快にかたりえた時代は(それらが真相からほど遠かったにしても)まだしも幸せだったかもしれない。相模原の障がい者施設で、逃げることがかなわない重度障がい者たちが多数殺められ傷つけられた事件にしてもそうだ。事件は人の想像力をこえ、いまや現(うつつ)と悪夢、正気と狂気の境界もなくなってしまったかにみえる。

 世界が統合化され、グローバル化し、等質化すればするほど、まったく逆に、世界は細分化し、民族・宗教・共同体間の抗争があちこちで荒れくるっているのはなぜなのか。経済とテクノロジーが発展し、デモクラシーとコンプライアンス(法令遵守)がとなえられればとなえられるほど、他方で人間の原始的心性が妖しくかきたてられ、人間個体の無秩序化、自棄(じき)的な暴力化、発作と痙攣(けいれん)が連鎖しているようにみえるのはどうしてか。テクノロジーの飛躍的進展とどうじに、政治と思想、哲学がいちじるしく退行しつつあるのはなぜか。人間がすでに「歴史の主人公」ではなく、「資本の奴隷」に、かつてのどの時期よりも惨めになりさがってしまったわけはなにか。わたしたちは答えられない。

 ふたたび1937年にもどろう。いまにしてみれば、1937年に歴史は、そうとはあまり意識されずに、一気に飛んでいた。南京大虐殺だけではない。1937年の人びとは、その翌年になにがくるかさえ予期できていたかうたがわしい。38年に第一次近衛文麿内閣のもとで制定され(4月1日公布、5月5日施行)た「国家総動員法」!これは全面的な戦時統制法であり、第二次世界大戦期におけるニッポンの苛烈な「総力戦体制」の法的基盤となった。これこそ戦時におけるあらゆる資源、資本、労働力、そして貿易、運輸、通信、経済を国家の統制下におき、人びとの徴用、労働争議の禁止、言論の統制など、市民生活を全面的に国家の意思にしたがわせる権限を政府に付与した授権法であり、いわば人民の運命を政府に白紙委任する法律であった。問題は、わたしたちの父祖たちがこれについて大議論を交わし、なんらかの反対闘争をてんかいしたかどうかである。

 闘争なんてなかった。国会では法案に多少の批判的質疑はあったものの、なんのことはない、全会一致で採択したのだ。国家総動員法はかならずしも上から強圧的に押しつけられたものではない。戦争と侵略の遂行に不可欠なこの基本法には、もともと市民への強制や罰則条項を(治安維持法があったからとはいえ)ふくまなかったのである。それはなにを意味したか?

 戦争と侵略へのコクミンの自発的協力が前提され、期待され、非協力や反戦運動の可能性など、はなから想定もうたがわれもしなかったのだ。その時代に、わたしの祖父母が生き、両親たちもニッポン・コクミンとして生活し、父は、他の人びとと同様に、まったく無抵抗に応召し、中国に征った。そのなりゆきまかせと没主体性について、死ぬまでにいちどはほじくっておきたいとわたしはおもっていた。

 37年12月14日の南京陥落祝賀提灯(ちょうちん)行列には東京市で40万人、翌年10月の武漢攻略祝賀パレードには100万人ものコクミン=「群衆」が参加した。「群衆」というものは、なぜかいつもわたしをたかぶらせ、さいごはかならずといってよいほど、ひどく失望させる。だれもがじぶんのなかに「群衆」をもっている、という真理は、しかし、じぶんがいつまでも顔をかくした群衆のひとりでありつづけることを、とくに戦争の時代には、正当化しない。父は「皇軍」という武装した群衆のひとりでありつづけたのか。ただそれだけの人であったのか。かれは群衆であることからついに脱しえた男だったか――は、父が中国で無辜(むこ)の民を殺したか、という不問におわった問いにともなう重い疑問でありつづけた。

 この問いは、むろん、物故した父という他者へのそれですむわけがない質のものであった。けっきょくは、どうできたか、どうしのげたか、どうにもならなかったか……といった作業仮説を無限にじぶんに突きつけるほかはない。そして、そのような作業仮説をたてるには、歴史的過去と相談する以外に道はなかった。そうして書きつづけたのが本書『1★9★3★7』である。果たして、2016年げんざいのナゾをとくヒントは過去にこそあるとおもいいたった。すなわち、人間の想像力の限界をこえる、酸鼻(さんび)をきわめる風景の祖型は1937年に、つとにあったのである。未来は過去からやってくる……この逆説はこけおどしでもレトリックでもない。わたしたちは世界規模の戦争を現実化する諸条件を、げんざいだけではなく、過去にも探すべきなのであり、それはあらゆる兆候からして焦眉(しょうび)の課題である。過去は、げんざいと未来に、遠音(とおね)のようによびかけている。1937年10月と11月にしたためられた巴金(パーチン 文末に履歴が掲載されている)のつぎの言葉(「日本の友人へ」)を、過去から未来への遺言としてふたたび噛みしめようと思う。

……私は、あなたたち普通の人の欠点を見逃すことができません。あなたたちは自分の本分を守り、それゆえいつも目を閉じて、統治者があなたたちの名で勝手なふるまいをするに任せます。あなたたちは忠義に厚く、それゆえ容易に騙されます。あなたたちは、上で統治する権力を崇拝します。上司の言葉を信じ、学校の教師の話を絶対の真理と受け取ります。そして社会に出たら新聞を生活の指針とします。あなたたちの頭には、誤った観念とウソのニュースが詰まっているのです。そのためあなたたちは世界が分からなくなり、この世界で自分たちのいる場所および自分たちの責任を理解できなくなっています。その結果、あなたたちは完全にカイライになり、野心家に利用されて甘んじているのです。
(「日本の友人へ」『日中の120年』岩波書店刊第三巻「侮中と抗日1937―1944」所収 鈴木将久訳)

 巴金はまた
「あなたは立ちあがって動くべきなのです。私は損害を被った無数の中国人民を代表してあなたたちにわずかの同情を求めるつもりもありません。そのようなことは決してありません。私か求めるのは、あなたとあなたの同胞の反省だけです」
と、日本人の友人にあてて書きしるしている。それからほどなくしてひきおこされたのが、南京の大虐殺であった。そのできごとは人間の想像力の限界をこえていた。人間の想像力の限界をこえたからといって、非・事実とは言えない。わたしたちはますます多くの想像力の限界をこえる諸事実にとりかこまれている。いま、あらたな世界戦争の絵図もにじむ未来をイメージするとしたら、首をねじり、どうしても過去をふりかえらなくてはならない。なんどでも、なんどでも。
          2016年秋   辺見 庸

巴金 パーチン(1904~2005年) 
 中国の作家。反帝・反封建の五・四運動影響下でアナーキストとなる。29年フランス留学中に『滅亡』を発表し、小説家として注目され、長編小説『家』などで30年代文学の旗手と目される。文革終結後、『随想録』を発表し、知識人の責任問題を提起した。著書に『寒夜』『火』など。


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