FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(19)

1937年(9)~(13)

(9)9月8日
警視庁でのアホな会議決定


「外国人と戯れる女性は国外追放」

 戦前の日本の、世にもばかばかしいお話をひとつ。
 1940年に東京オリンピック開催の予定であったが、世界大戦の勃発のために実際は準備も半ばにして中止となったのは、ご存じのとおり。が、それに先駆けて1937年9月8日、警視庁の特高・外事両課長会議でとんでもない事が決められていたことは、知る人ぞ知る。

 議題は、オリンピックには外国人選手が山ほども来日する。その外国人選手たちとわが国の女学生・令嬢・有閑マダムたちとの間に、ともすれば良からぬことがおこる可能性がある。これにいかに対処すべきか、というのである。
 で、たどりついた結論は――。 「もしかくの如き大和撫子の本分を忘却したる、いたずらなる外人崇拝に陥るようなことがあった場合は、よろしくこれらの女性を国外に追放すべし」

 歴史に「もしも」はないが、あのとき東京オリンピックが開かれていたら、どのくらいの女性が追放されたことか。いや、考えるのもアホくさいか。それにしても「大和撫子」は完全に死語となった。悲しむべきか。

 上の事例は近衛第1次内閣の悪政策とは無関係のようだが、次のような事例はその悪政策の施行が世相に与えた影響の現れではないだろうか。

(10)11月3日
「愛国行進曲」の発表


「見よ東海の空あけて」

「見よ東海の空あけて旭日(きょくじつ)高く輝けば/天地の正気(せいき)溌刺(はつらつ)と希望は躍る大八洲(おおやしま)/おお晴朗の朝雲に聳(そび)ゆる富士の姿こそ/金甌無欠(きんおうむけつ)揺(ゆる)ぎなきわが日本の誇りなれ」

 振リガナをつけなくても、すらすらと読める、または歌える方は、恐らく60歳以上に限られるであろう。戦争中に大いに歌われた「愛国行進曲」。

 この歌詞公募の締め切りがこの年の10月で、57,578のおびただしい応募の中から当選歌詞が選ばれた。発表は11月3日、鳥取県の森川幸雄という23歳の青年詩人である。さらに作曲が公募され11月末の締め切りまでに9,555曲が応募。当選したのは退役海軍軍楽長瀬戸口藤吉。

 こうして出来上がった国家公認の愛国歌がラジオから流れ出だのが、この年の12月末である。金甌無欠とは何ぞや、とボヤキつつ日本人は大いに歌った。

(注)
ちなみに「金甌無欠」の意味
 中国の南北朝時代の「南史」が出典で次のような意味である
「きず一つない金のかめのように、完全で欠点のないこと。特に、国家が独立強固で、外国の侵略を受けたことのないこと。」


 そして、のちにわれら悪童どもは替え歌を作って歌った。
「みよ、東条のはげ頭/ハエがとまればツルとすべる/すべってとまってまたすべる/とまってすべってまたとまる/おお晴朗のはげ頭……」
 もちろん、軍国オトナのいるところでは歌えなかった。

(11)11月
鎮魂歌「海行かば」初放送

 「海行かば水漬くかばね」  太平洋戦争下の日本人は戦況に一喜一憂した。戦果が上がったときは、きまって「軍艦マーチ」が鳴り響いた。そして不幸な知らせは、アナウンサーの荘重な声とともに「海行かば」がつらく奏でられた。
「海行かば水漬(みづ)くかばね/山行かば草むすかばね大君の辺にこそ死なめ/かへりみはせじ」

 『万葉集』にある大伴家持の長歌の一節である。もともとは聖武天皇の「宣命第一三詔」にあり、最終句は「のどには死なじ」であるが、家持が長歌に引くとき「かへりみはせじ」としたという。日本武人の死生観を率直に表現したのである。

 しかし、戦中にしきりに歌われ、玉砕の報とともに曲が流されたために、悲しい思い出と結びつき"戦犯の歌"となった。

 が、信時(のぶとき)潔が作曲し、1937年の11月に初めてNHK大阪中央放送局が流したこの曲は、美しい名曲なのではないか。これを書きつつハミングしていると、少し眼裏が熱くなってくる。過去の歌として葬ってしまうには惜しいように思う。

 半藤さんが少年時代に耳にしたメロディーを愛惜する気持ちは分かるが、歌は歌詞とメロディーが一体化して歌である。いつ覚えたのか、私は「海行かば」を何も見ずに歌うことができるが、「海行かば」の歌詞は全く許容できないので、メロディ-の衰亡を惜しいとは思わない。

(12)11月20日
宮中に大本営を設置


「大本営発表」

 日中戦争下の1937年11月20日、宮中に大本営が設置される。昭和史の年譜をみると、かならずこう書かれている。
「大本営とは何ぞや。要は、大元帥陛下のもと、戦時下の陸海軍の統一した統帥補佐機関、というわけ。同年の7月に勃発の日中戦争に対処するために設けられたもので『天皇ノ大纛(だいとう)下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営卜称ス』と軍令第一号にある。大纛とは天皇旗のことである。」

 戦争を体験した世代には、大本営と聞くと太平洋戦争中に全部で846回あった「大本営発表」が思い出されてくる。初期のころには、軍艦マーチと一緒に、ラジオから流れてきた"勝った、勝った"の「大本営発表」とともに国民は大そう熱狂した。おしまいころには海行かばの曲と一緒であった。撃滅したはずの機動部隊からの敵戦闘機がワンサワンサと本土空襲を始めるのであるから、国民は「大本営発表」をまったく信じなくなった。つまり「大本営発表」は大ウソの代名詞となる。

 今は「大本営」は永遠の死語。記憶する必要もない言葉といえようか。

(13)12月13日
中国の首都・南京占領

「戦局終結の動機を得る」

 1937年7月の"盧溝橋での一発"からはじまった日中戦争は拡大の一途をたどった。11月には大本営が設置され、幾度か和平の機があったがすべて見送られた。「敵の戦意を挫折し、戦局終結の動機を得る」目的で、中支方面軍が編制され、松井石根大将が軍司令官に任命される。

 目指すは中国の首都南京である。日本の軍部には、首都を陥とせば戦争は終る、という独特の戦争観があったからである。その攻略戦は12月1日から開始され、各部隊は南京一番乗りを期して先陣争いを展開した。そしてこの年の12月13日、大本営陸軍部は南京占領を大々的に発表した。

 戦後問題になった虐殺事件は、作戦が開始され上海から南京へ攻めのぼる過程ではじめられ、占領直後までつづいたといわれる。松井大将はその責任を問われ東京裁判で絞首刑。

 当時の日記に
「一時我将兵により小数の奪掠行為(主として家具等なり)、強姦等もありし如く、多少は已むなき実情なれば洵(まこと)に遺憾なり」
と大将は記す。

 松井が虐役事件のことを知ったのは、終戦後のことであったといわれているが……。

スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/2338-2f12a145
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック