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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(13)

1935年(4)~(6)

日本ではなお軍人による独善的なテロが続いていた。

(4)8月12日
永田鉄山、斬殺さる


「天誅を加えてきました」

 陸軍軍務局長の永田鉄山少将は、午前9時半過ぎ、長身でやせ型のその将校が局長室に入ってくると、ギラリと軍刀を抜いたのを認めた。その将校はすばやく近づくと、振りかぶった刀を永田の肩にたたきつけるように斬りつけた。永田は驚いてドアの方へ逃れようとしたが、その将校は背後から軍刀を突き刺した。倒れた永田のコメカミを第三刀が襲った。それが陸軍の知能といわれた永田にとどめの一刀となった。1935年8月12日、陸軍省内で起こったテロ事件である。

 犯人の陸軍中佐相沢三郎は、驚くべきことに、永田を殺害したあと整備局長室にいき、「永田閣下に天誅(てんちゅう)を加えてきました」といい、これから台湾に赴任するつもりとあいさつしている。

 この年7月に皇道派の真崎甚三郎大将が教育総監を罷免された。それは統制派の中心人物の永田の策謀であり、永田殺害はその報復にすぎない、したがって正義の行動であると、相沢は確信したのである。

 統制派と皇道派とにわかれ、陸軍は長くごたごたし、その陸軍中央の退廃を如実に語り、そして後の2・26事件の導火線に火をつけた事件であった。

 その後、このテロの犯人・相沢は憲兵隊に逮捕される。そして翌年1936年5月7日第1師団軍法会議に於いて死刑判決が下された。相沢は上訴したが、6月30日に棄却され、7月3日に代々木衛戍(えいじゅ)刑務所内で銃殺刑に処された。
(注:衛戍→軍隊が一つの土地に長く駐屯して警備・防衛 の任に当たること)

 前々回に取り上げた1934年に始まった中国共産党の大長征の経緯は次のようにまとめることができる。
「1930年代のうちつづく中国内戦で、中国共産党軍(紅軍)は、国民党軍の猛攻に押しまくられて、根拠地の江西ソヴィエト地区を放棄、1934年10月、陜西省北部への転進を余儀なくされた。」
次の記事はこの大長征の続きである。

(5)10月20日
紅軍の「大長征」終わる


「18の山脈を越え、24の河を渡る」

 実に1年余、人間の極限を乗り越えて、1935年10月20日、紅軍はやっとの想いで目的地の陜西省に足を踏み入れた。所要日数371日。踏破した距離は実に12000キロ。その間、飢餓・疾病・寒気、そして執拗に追撃してくる敵と戦わねばならなかった。しかし、
「紅軍は合計して18の山脈を越え……24の河を渡った。12の異なった省を通過し、62の都市や町を占領し……」
という苦難をついに克服して集結したのである。出発のとき、毛沢東・朱徳・周恩来らの第一方面軍は約10万人いたが、大行進が終わったときには1万人にも足りなかったという。

 大長征終了後の中国共産党の動向を追ってみよう。『世界の歴史12』から転載する。


 紅軍が陜西省北部に到着したころ、満洲から華北にかけての日本の侵略は、日に日にはげしくなった。35年冬から36年春にかけて、日本は河北省東部に「冀東(きとう)防共自治政府」、チャハル・綏遠(スイユワン)両省に「内蒙自治軍政府」というカイライ政権をつくり、国民政府に対して、華北は日本の権益がある特殊な地帯だということを認めさせようとしていた。

 これは、もはや単なる圧迫などというものではなく、直接的な侵略にひとしい。こうした状況のなかで「12・9運動」(1935年)とよばれる学生の反日大デモが北京で勃発して、全国に大きい影響をあたえていた。そして中国共産党もまた、このころ政策の大転換をおこなうことになった。蒋介石と毛沢東は、根本的に立場のことなる政党をひきいて争ってきたわけだが、いまやそれ以上に重要な民族の危機が深まったからである。

 毛沢東は、35年12月、会議をひらいてつぎのように演説した。
「同志諸君、当面の政治情勢にはすでに大きな変化がおきている。」それは、「日本帝国主義が中国をその植民地に変えようとしている」ことである。「いまは大変動の前夜にある。党の任務は、紅軍の活動と全国の労働者、農民、学生、小ブルジョワジー、民族ブルジョワジーのすべての活動を合流させて、統一的な民族革命戦線を結成することである。」

 つまり、これまでの「内戦を停止し、一致して抗日す」ことが必要だという政策をうちだし、蒋介石に対して、ともに抗日のために立ちあがるよう訴えたのである。もちろん国共両党は、これまで宿敵の間柄だったから、容易ならぬ政策転換だった。しかし、これはまた日本の侵略をまえにして、当時の中国民衆が一致して望んでいたことでもあった。そして、それを具体的に実現させる事件が劇的なかたちでおこったのである。

 紅軍が陜西省に到着してからも、蒋介石はあい変わらず、その討伐に全力を集中し、とくに張学良(チャン・シュエリャン)の指揮する東北軍をこの方面に派遣した。ところが、この東北軍というのは、もともと東三省、つまり満洲地方の軍隊で、日本に追われてきた軍隊だった。だから彼らの最大の関心は、日本を追いはらい、一日も早く故郷の満洲に帰ることだった。彼らが蒋介石の命令に、はなはだ不満だったのは当然である。そのうえ、「内戦停止、一致抗日」の方針をうちだしていた中共軍は、「中国人は中国人と戦わない」「抗日して協力しよう」というスローガンを叫び、宣伝戦を展開したので、いつのまにか両者のあいだには暗黙の協定ができあがり、むしろ蒋介石の方針を変えさせようという方向にうごきはじめたのである。こうして36年12月世界をおどろかせた西安(シーアン)事件がおこった。

 中国への本格的な侵略を始めた日本では文化や教育への国家統制はますます陰湿になってくる。次の記事はその一例である。

(6)11月26日
戦前のペンクラブの結成


「政治活動を除く」

 戦前の日本では「官」と「軍」が、ときに味方になったりときに敵になったりして、いびつな国家にしていった。多くの人はその圧力に押されてはみだすか、あるいはべったりとくっついた。

 美神に奉仕する文学界もその例にもれなかった。次第に強まる言論の国家統制に息苦しさをおぼえ、早々と1935年には「官」の要望にこたえて、ひとつの言論団体をつくっている。ただし「政治活動を除く」、そして「親睦を計る」のを目的とした。11月26日に結成された日本ペンクラブがそれである。

 会長が島崎藤村、副会長は堀口大學と有島生馬。評議員には長谷川如是閑、鶴見祐輔、清沢冽、木村毅などが名を連ねた。

 が、せっかくの文学者の親睦も、憲兵や特高が「例会に出席させろ」ときびしくいってくるようになり、1942年には事務所も閉鎖となる。「官」も「軍」も、役者が「文」よりも一枚上であった。自由職業人の集りであるペンが、いかに剣に弱いかの好例を残すだけの話か。

 いまの日本も……。

 ウィキペディアの『日本ペンクラブ』を読んでみた。現在のペンクラブには今のところ権力の介入はないようだが、内部では進歩派と保守派の主導権争いが絶え間なく行なわれているようだ。
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