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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(12)

1935年(1)~(3)

 『残日録』から取り上げたい項目は6件もあるので、1935年も2回に分けて掲載する。

 第1項目は天皇機関説問題だが、まず「天皇機関説」とはどんな学説なのか。『探索3』にその概略解説があるのでそれを転載する。
『 天皇機関説とは、G・イエリネックの国家法人説を日本の帝国憲法解釈に応用して、一木喜徳郎たちによって唱えられたもので、統治権は法人である国家に属し、天皇はその最高機関として統治権を行使するものと規定した。そして明治の末期に、天皇個人が国家の統治権を所有するという天皇主権説(上杉慎吉、穂積八束など)とはげしく対立した。これが大正時代になって、一木の弟子であった美濃部達吉によって継承され、いっそうきちんと理論化され、大正デモクラシー時代には政党内閣制に理論的根拠を与える学説として、むしろ憲法学の主流となったのである。昭和7年に美濃部が貴族院の勅選議員となったのもその学説が認められていたからにほかならない。いわばその安定した学説が槍玉にあがるなどと誰がそれ以前に予想したことであろう。』

 この学説が槍玉に挙がった経緯と顛末は次のようである。

(1)2月7日
天皇機関説問題のねらい


「私はとうてい忍従しえない」

 ことのはじまりは、この日、元陸軍少将江藤源九郎代議士が、衆議院の本会議場において、美濃部達吉博士の著書は国体を破壊するものである、と弾劾したことにあった。1935年2月7日のことである。これが昭和史を暗いものにした天皇機関説問題の発端である。

 ついで18日に貴族院において菊池武夫男爵(元陸軍中将)が、美濃部の学説を反逆者の学説(「学匪」)よばわりして排撃した。これで議員たちはいっそう勇み立ち、火の手は消すに消せないほどに大きくなった。というのも攻撃の対象は機関説そのものでなく、はっきりと政界上層部の穏健派を一挙に葬り去ろう、という陰謀に変わっていたからである。強引に推進したのは軍部中堅と、これと結んだ右翼であった。

 それとわかっていたが、まわりの止めるのもきかず美濃部は「私はとうてい忍従しない」と立ち上がり、一身上の弁明を行った。皮肉なことに、機関説排撃の声と圧力これよりいっそう強まっていった。

 昭和天皇は「機関説でいいではないか」といっていたが……。

 天皇が機関説を容認していたとは、私は全く知らなかった。この事についても『探索3』から転載しよう。当時の侍従武官長本庄繁の日記からの引用文であり、議会での機関説に関する速記録を読んで本庄に語った言葉だという。
『軍の配慮は自分にとって精神的にも肉体的にも迷惑至極である。機関説の排撃が却って自分を動きのとれないものにする結果を招くことを慎重に考えてもらいたい。自分は天皇主権説も天皇機関説も帰する所は同一であると思っているが、労働条約その他の国際関係については機関説に従う方が便利ではないかと思う。憲法第四条にある「天皇は国家の元首」という言葉はいうまでもなく機関説である。もし機関説を否定することになれば憲法を改正しなければならぬ。機関説は皇室の尊厳を汚すという意見は一応尤ものように聞えるが、事実はこのようなことを論議することこそ皇室の尊厳を冒涜するものである』

(2)4月10日
「国体明徴」の文部省訓令でる


「万世一系の天皇国を統治し……」

 戦時下の昭和日本は、天皇陛下を「現人神(あらひとがみ)」として仰いだ。つまり、神は隠身を常とするが、天皇は現身をもって世に出でたまう神である、人にして神である、という思想である。疑ってはならない思想である。

 このことが国民に強調されるようになった第一歩と考えられるのが、1935年3月の、岡田啓介内閣による「国体明徴声明」である。ちょうど美濃部達吉の説く「天皇機関説」問題で、日本中が大揺れに揺れている時である。
「……おもんみるに、我国体は天孫降臨の際下し賜へる御神勅により昭示せらるる所にして、万世一系の天皇国を統治し給ひ……」
 すなわち天皇機関説は、世界に二つとないわが国体の本義をあやまるもの。天皇の国家統治の大権は、神代の昔からきまっていることである。それが国体明徴ということである。

 そしてこの国体明徴の訓令が、文部省より全国の各学校へ達せられたのは、同じ年の4月10日。教育の根本において日本の国体の何たるかを叩きこむことになったわけである。さらには、言論・思想界においても、天皇制を論じることの自由は完全に奪わることとなった。

 「国体明徴」を思想と呼んでいるが、これは思想ではなく正しくは妄想である。「天皇機関説」を躍起になって否定しようとしていた支配階級は、1935年の第67議会貴族院本会議で「国体明徴声明」を発布した。『史料集』からその声明を転載しておく。
国体明徴声明

 恭(うやうや)しく惟(おもん)みるに、わが国体は、天孫降臨の際下し賜へる御神勅に依り明示せらるる所にして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚(ほうそ)の隆(さかえ)は天地と与(とも)に窮(きわまり)なし。されば憲法発布の御上諭に「国家統治ノ大権ハ之ヲ祖宗二承(う)ケテ之(これ)ヲ子孫二伝フル所ナリ」と宣(のたま)ひ、憲法第一条には「大日本帝国八万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と明示し給ふ。即ち大日本帝国統治の大権は儼(げん)として天皇に存すること明かなり。若(も)し夫(そ)れ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すが如きは、是れ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆(あやま)るものなり。近時憲法学説を繞(めぐ)り国体の本義に関連して兎角(とかく)の論議を見るに至れるは寔(まこと)に遺憾に堪へず。政府は愈々(いよいよ)国体の明徴に力を効(いた)し其の精華を発揚せんことを期す。

 さて、この年の3月、ヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄して、再軍備を宣言している。そして軍備増強とともに次のようなことも行なっている。

(3)5月19日
高速道路が完成した日


「ライヒスバーン」

 記録によれば、はじめは民間団体の構想のもとに、1928年に工事開始、34年に、ケルンとボンを結ぶ最初のアウトバーンが完工した、という。ところが、33年3月の総選挙でナチス党は多数党となり、全権付与法を成立させ、ヒトラーの第3帝国がスタートする。政権につくとヒトラーはただちに国家的な大事業としてこの雄大な構想を引き継ぎ、軍備増強と、高遠道路建設を国家興隆のための二本柱として、強引に推進していったのである。

 こうして1935年5月19日に、最初の「ライヒスバーン(帝国街道)」の、フランクフルト―ダルムシュタット間の高速道路が完成した。

 さらに軍事大国の基礎は道路にあると考えるヒトラーは、機甲軍団を運ぶための軍事的道路の完整を目指し、実にその独裁下の10年間に3000キロにおよぶ高速道路網を完成させた。

 知られているように、1950年代に、世界中でいっせいに高速道路の建設が開始される。ナチス・ドイツに遅れること10年余。歴史の皮肉で、ヒトラーが「高速道路の父」ということになるのであろうか。

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