激動の朝鮮半島(2)
2005年10月24日(月)
前回「東アジアの激動を伝える記事が「記紀」には皆無なのだ。」と書いた。 ではその頃「ヤマト王権」は朝鮮半島とどのような関わりを持っていたのだろ うか。
「記紀」には「オキナガタラヒメ(神功皇后)の新羅征討」の記事がある。 これを取り上げることになる。この問題は「第358、359回(8月10日、11日)」 で取り上げた「仲衷・神功の熊襲遠征説話」の続編ということになる。また これは「第394回」に掲示した年表で、オキナガタラヒメの時代を4世紀中ごろ とした根拠を問うことでもある。
さて、熊襲征伐で敗退した夫・タラシナカツヒコ(仲哀)の死後にオキナガタラヒメ は新羅へ向かった。そのときのことを「古事記」は次のように描写している。
軍(いくさ)を整へ船雙(な)めて度り幸(い)でましし時、海原の魚、大き小 さきを問はず、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風(おいかぜ)大(いた)く 起こりて、御船浪の従(まにま)にゆきき。故、その御船の波瀾(なみ)、新羅の 国に押し騰(あが)りて、既に国半(なから)に到りき。
このような誇張・虚像による描写は、説話の語り口としての常套手段なのだか
ら、これ理由にこの説話全体を虚偽だと決め付けるのは妥当ではないと古田さん
は言う。オキナガタラヒメの新羅行き自体は否定できない。
しかし、この新羅征討記事でも「古事記」と「日本書紀」とでは全くそ
のスケールと内容が違っている。
『古事記』の場合、神功は新羅へ渡って新羅国王との間に平和的に国交関係を 樹立したことがのべられているだけであって、戦闘描写は全くない。
これに対して、『日本書紀』の場合、朝鮮半島南半部各地に転戦させ、新羅 側と戦い、百済に占領地を与えた(その領有を承認した)旨が記されている。 大きなちがいだ。いずれが真実か。いうまでもない。『古事記』の方だ。 九州において、熊曽国に勝てなかったのが実体だったことはすでにのべた。 その、仲哀亡きあとの神功が、朝鮮半島で威名をとどろかしたなどとは、おこ がましい。非現実的だ。では、なぜ神功は半島へと敗軍を導いたのか。否、仲哀の生前から、神がか りの中で彼女は、その願望を語っていたように思われる。それは、彼女の系譜 を見ると、判明する。応神記に「天之日矛」の系譜として描かれている。
1天之日矛―2多遅摩母呂須玖―3多遅摩斐泥―4多遅摩比郵良岐―5多遅麻毛理 ―5'多遅摩此多訶―6葛城の高額比売命-7息長帯比売命(神功)
(1あめのひぼこ―2たじまもろすく―3たじまひね―4たじまひならき―5たじまもり ―5'たじまひたか―6たかぬかひめのみこと―7おきながたらひめのみこと)つまり、神功は、新羅の王子だった天之日矛の子孫に当っている。新羅は彼女 にとって、(母系の)父祖の国だったのである。彼女が九州に行ってその地へ行 くことを望み、さらに夫(仲哀)の死後、一段と(自分の自由意思が主導できる 状態下で)その地に行くことを欲したのは偶然ではなかった。彼女はその故国へ、 征伐などに行ったのではない。提携と国交を求めに行き、新羅および百済との間 で、それに成功したものと思われる。
さきの渡航の描写に続いて「古事記」は、新羅王は神功に屈服し服従を 誓ったとし、
新羅国は御馬甘と定め、百済国は渡(わたり)の屯家(みやけ)と定めき
とのべている。
全く戦闘もせぬまま、一国の国王が屈従の誓いをするなどということは、あ
りえない。あの熊曽建や出雲建の暗殺譚と同じく、ここには、作られた成果の
誇示があろう。
「ヤマト王権」と新羅とのこの関わりはオキナガタラヒメの子ホムタ(応神)
の年代に外交成果をもたらしたようである。
「応神記」の中に新羅や百済との国交・往来を伝える記事がある。これに
ついて古田さんは「神功の平和的国交の樹立は、憎悪の連鎖の相乗効果を生
みやすい戦争や征服とは、別種の永続的な効果をもたらしたもののようであ
る」と述べている。
その百済との関わりの記事の中に次の一節がある。
亦、百済の国主(こにきし)照古王(せうこおう)、牡馬(おま)壱疋(ひと つ)、牝馬(めま)壱疋(ひとつ)を阿知吉師(あちきし)に付けて貢上 (たてまつ)りき。
この中の「照古王」は「肖古王」のことである。百済の歴代には二人の肖 古王がいて、初代の肖古王(古肖古王)は在位166年~222年、二代目の肖古 王(近肖古王)は在位346~374年。「応神記」の「照古王」はもちろん後者 である。これがオキナガタラヒメの年代を四世紀中ごろとした根拠の一つで ある。(ホンタは四世紀末ごろということになる)
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