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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
昭和の15戦争史(10)

1934年(1)~(4)

 『残日録』から取り上げる事件は3項目だけだが、他の史料から国際的な政治の動向の一つとしてナチスの記事を一つ追加することする。

(1)3月1日
溥儀が満洲帝国の皇帝となる


「やむを得ず屈服した」

 満洲国の首都新京郊外の杏花村で、清朝独特のシャーマンの儀式による神事にのっとり、竜袍に身を包んだ溥儀執政は天壇に登り、王位についたことを報告した。

 しかもこの儀式を終えて溥儀は大いに満足し、執政府に戻ると大元帥服を着て、改めて皇帝の即位式に臨んだ。溥儀は新国家の皇帝たるよりも、滅びた清王朝の正統の後継者たらんとしたのである。

 この日、1934年3月1日、満洲国は帝政を実施し、満洲帝国となり、康徳と年号を改元した。執政府は宮内府となった。溥儀は皇帝となった喜びで、夢のなかにいるように一日中はしゃいでいたという。

 しかし、戦後の東京裁判の証人となった溥儀は、皇帝となることを承諾したか、という検事の質問に、「拒絶した」と答え、さらに、
「武力的圧迫と、生命に危険があるから承諾せよとの顧問たちの勧めで、やむを得ず屈伏した」
と、自発的意思は一片だになかったとぬけぬけといい放ったのである。聞いていた日本人は、脅迫的洗脳の恐ろしさを痛感せざるを得なかった。

 私は1990年頃、『世界の歴史』(現代教養文庫版)を購入した。随分古い本だが、その第12巻の「二十世紀の世界」を参考書の一つとして加える。次の記事はその本を利用している。

 1933年1月、突然の国会解散・総選挙で圧倒的処理を得たヒトラーのその後の権力固に向かう暴走を追ってみよう。

(2)8月
ヒトラー、総統に就任


 3月21日、新国会の開会式がベルリン近郊ポツダムの守備隊付属教会堂でひらかれた。ここはホーエンツォレルン家にゆかりがふかく、フリードリヒ大王の墓所でもある。しかも3月21日は、ビスマルクが1871年ドイツ帝国議会をはじめてひらいた日であった。

 この日、ポツダムは明るい春の日にめぐまれ、家なみには「黒白赤」の旧帝政旗と、「鉤(かぎ)十字」のナチ党旗とがならんで掲げられていた。教会には旧帝政軍服に身をかためた将軍たちがいならび、玉座が設けられ、そのすぐうしろには前皇太子が坐っていた。そして、広間には褐色シャツのナチ党議員、その横に国家人民党と中央党の議員がならんでいた。

 ドアが開くと、モーニング姿のヒトラーと軍服姿のヒンデンブルク大統領が、閣僚をしたがえてはいってきた。大統領は、玉座と前皇太子に元帥杖で敬礼した。大統領の短い挨拶にこたえてヒトラーはいった。
「……ここ数週間のうちに、われわれの国民的名誉は回復され、元帥閣下のおかげで、昔ながらの偉大さと新しい力の結合がここに祝福されました……。」
 そして大統領に進みより、低く頭をたれて彼の手をにぎった。つづいて大統領はフリードリヒ大王の墓にもうでるが、外では礼砲がとどろき、国防軍、突撃隊、鉄兜団の行進がはなばなしくりひろげられていた。夜になると親衛隊の炬火(たいまつ)行列がつづき、オペラ座ではフルトヴェッグラーがワーグナーの「マイスター・ジンガー」を指揮していた。

 そして二日後(3月23日)、クロル・オペラハウスで国会がひらかれた。議場の外では黒シャツの親衛隊員が、スクラムをがっちりと組み、内には褐色シャツの突撃隊員がかためていた。そして鉤十字の大きな旗を背景にヒトラーは「全権委任法」を提案した。これはナチ党に独裁権をあたえることになら法律であった(民主的なワイマール憲法はそのままとして)

 この提案にたいして、社会民主党オットー・ヴェルスは敢然と反対した。突撃隊の連中は「われわれはその法案をもとめる――さもないと放火と殺人だ」とどなった。ヒトラーは演壇にかけ上がって悪態をついた。投票の結果、賛成441票、反対94票で可決された。ナチ党員はとび上がり、腕をあげて党歌「ホルスト・ヴェッセル」をうたった。

 こうしてヒトラーの独裁権力はエセ「合法的」に成立したのだ。というのは、このとき不当に逮捕されていた一部の社共両党の議員は出席できず、しかも共産党議員団には登院停止の措置がとられていたからである。

 ヒトラーはやがて諸政党を解散して、ナチー党独裁をうちたて、1934年8月、ヒンデンブルク大統領が世を去ると、この地位を兼ねて総統(フューラー)とよばれた。そして全体主義的な統制と再軍備政策をもって、また対外的にはヴェルサイユ体制の打破によって、政権をかためてゆくのである。

「ナチスの手口」に学んでいるアベコベ政権が成立を企んでいる「緊急事態法」はまさに「全権委任法」に匹敵するのではないか。

(3)8月29日
松田文相のとっぴな発言


「パパ・ママを使うのはいかん」

 皇国日本が叫ばれている時代を象徴するような一席を――。

 われら東京の下町の悪ガキどもは昭和10年代には、トオチャン・カアチャンであった。少しく長じると、オヤジ・オフクロ。山の手のお坊っちゃま君たちが「パパ・ママ」なんてほざくのを聞くと、ヘドが出そうになったものである。

 それより少し前にこんな愉快な出来事があったのである。1934年8月29日、当時の文部大臣松田源治が、家庭でパパ・ママという言葉がはやっていることについて、新聞記者に語ったというのである。
「日本人はちゃんと日本語を使って、お父さん・お母さんといわねばいかん。またはお父さま・お母さまだ。舌たらずのパパ・ママを使うのは、そもそも日本古代よりの孝行の道の廃れるもととなる」
 これが新聞に出て、近くパパ・ママ呼称禁止令が発表されるといううわさが広まった。がぜん論争が巻き起こった。家庭内の呼称にまで文相の権限は及ばぬ、いや、文相には日本の孝道発展の責任がある、と喧々囂々(けんけんごうごう)。なんとも平和にして程度の低い時代でありましたな。

 いや、今も程度の低い時代ではないだろうか。つい最近、道徳教科書検定で「パン屋」を「お菓子屋」に替えた問題があったではないか。毎日新聞のデジタル記事を紹介しておこう。
『道徳教科書検定 「パン屋」怒り収まらず』

(4)10月1日
軍事国家へのスタート

「戦いは創造の父、文化のは母」  昭和日本が軍国主義化していく背景に、第一次世界大戦後に形成された新しい戦争観がある。これからの戦争は、戦場に動員された兵数や大砲の大きさではなく、政治・経済・外交・文化・思想など民族の総力をあげた戦争になるという認識である。世界大戦でドイツ帝国は武力においては敗れなかったが、経済戦および民衆の厭戦思想によって敗れた。日本の軍部はこの新しい戦略思想を信じこんだ。

 これからの戦争は国民をまきこんでの国家総力戦になると。それゆえに、明日の国防を考えるとき、あらゆる物的資源、国力、そして機能を戦争に奉仕させねばならぬ、とした。その軍の意志を強く表明したのが、1934年10月1日に陸軍省新聞班から発表された「国防の本義とその強化の提唱」、いわゆる陸軍パンフレッドである。

 「戦いは創造の父、文化の母である」という有名な文句で始まるこの文書のもと、さまざまな批判と異議を浴びつつ、ここから軍事国家的な統制体制がつくられていった。子供たちの間で戦争ごっこがはやりだしたのも、このあとからである。

 ウイキペディアによると、「陸軍パンフレッド」の内容は北一輝の『日本改造法案大綱』をより具体化したようなものだという。『史料集』の「ファシズムの進展と思想統制」という節に『日本改造法案大綱』からの抜粋文(出典は「現代史資料)と解説があるので、それを転載しておこう。

 まず日本改造法案大綱」は1919(大正8)年、北一輝が上海で執筆したもので、緒言と巻8及び結言からなる。ファシズムの聖典とされてきた。


日本改造法案大綱

 今ヤ大日本帝国ハ内憂外患竝ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難ニ臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安ニ襲ハレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権軍権財権ヲ私セル者ハ只竜袖(りゅうしょう, 天皇の袖。天皇の権威をかりること)ニ陰レテ惶々其不義ヲ維持セントス。……全日本国民ハ心ヲ冷カニシテ天ノ賞罰斯クノ如ク(この前の省略部分で「日本ハ彼ニ於テ充実ノ五ヶ年トシテ恵マレタリ」とし、第1大戦中国力が充実したことを述べている。)異ナル所以ノ根本ヨリ考察シテ、如何ニ大日本帝国ヲ改造スベキカノ大本ヲ確立シ、挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終ニ天皇大権(明治憲法に認められた天皇天皇特有大権)ノ発動ヲ奏請シ、天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完(まっと)ウセザルベカラズ。

憲法停止
 天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国ニ戒厳令ヲ布ク。……
華族制廃止
 華族制ヲ廃止シ、天皇ト国民トヲ阻隔(そかく)シ来レル藩屏(はんぺい)ヲ撤去シテ明治維新ノ精神ヲ明ニス。……
普通選挙
 二十五歳以上ノ男子ハ大日本国民タル権利ニ於テ、平等普通ニ衆議院議員ノ被選挙権及ビ選挙権ヲ有ス。……
私有財産限度
 日本国民一家ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ壱百万円トス。……

 1934年の事件でもう二つ「中国共産党の長征開始」と「ワシントン軍縮条約の廃棄」を取り上げる予定だった。この二つの事件も『残日録』では取り上げていないので前者は『世界の歴史12』を、後者は『昭和史探索3』を利用することにしていたが、かなり長くなるので、次回に掲載することにした。


 『残日録』から取り上げる事件は3項目だけだが、他の史料から国際的な政治の動向の一つとしてナチスの記事を一つ追加することする。

(1)3月1日
溥儀が満洲帝国の皇帝となる


「やむを得ず屈服した」

 満洲国の首都新京郊外の杏花村で、清朝独特のシャーマンの儀式による神事にのっとり、竜袍に身を包んだ溥儀執政は天壇に登り、王位についたことを報告した。

 しかもこの儀式を終えて溥儀は大いに満足し、執政府に戻ると大元帥服を着て、改めて皇帝の即位式に臨んだ。溥儀は新国家の皇帝たるよりも、滅びた清王朝の正統の後継者たらんとしたのである。

 この日、1934年3月1日、満洲国は帝政を実施し、満洲帝国となり、康徳と年号を改元した。執政府は宮内府となった。溥儀は皇帝となった喜びで、夢のなかにいるように一日中はしゃいでいたという。

 しかし、戦後の東京裁判の証人となった溥儀は、皇帝となることを承諾したか、という検事の質問に、「拒絶した」と答え、さらに、
「武力的圧迫と、生命に危険があるから承諾せよとの顧問たちの勧めで、やむを得ず屈伏した」
と、自発的意思は一片だになかったとぬけぬけといい放ったのである。聞いていた日本人は、脅迫的洗脳の恐ろしさを痛感せざるを得なかった。

 私は1990年頃、『世界の歴史』(現代教養文庫版)を購入した。随分古い本だが、その第12巻の「二十世紀の世界」を参考書の一つとして加える。次の記事はその本を利用している。

 1933年1月、突然の国会解散・総選挙で圧倒的処理を得たヒトラーのその後の権力固に向かう暴走を追ってみよう。

(2)8月
ヒトラー、総統に就任


 3月21日、新国会の開会式がベルリン近郊ポツダムの守備隊付属教会堂でひらかれた。ここはホーエンツォレルン家にゆかりがふかく、フリードリヒ大王の墓所でもある。しかも3月21日は、ビスマルクが1871年ドイツ帝国議会をはじめてひらいた日であった。

 この日、ポツダムは明るい春の日にめぐまれ、家なみには「黒白赤」の旧帝政旗と、「鉤(かぎ)十字」のナチ党旗とがならんで掲げられていた。教会には旧帝政軍服に身をかためた将軍たちがいならび、玉座が設けられ、そのすぐうしろには前皇太子が坐っていた。そして、広間には褐色シャツのナチ党議員、その横に国家人民党と中央党の議員がならんでいた。

 ドアが開くと、モーニング姿のヒトラーと軍服姿のヒンデンブルク大統領が、閣僚をしたがえてはいってきた。大統領は、玉座と前皇太子に元帥杖で敬礼した。大統領の短い挨拶にこたえてヒトラーはいった。
「……ここ数週間のうちに、われわれの国民的名誉は回復され、元帥閣下のおかげで、昔ながらの偉大さと新しい力の結合がここに祝福されました……。」
 そして大統領に進みより、低く頭をたれて彼の手をにぎった。つづいて大統領はフリードリヒ大王の墓にもうでるが、外では礼砲がとどろき、国防軍、突撃隊、鉄兜団の行進がはなばなしくりひろげられていた。夜になると親衛隊の炬火(たいまつ)行列がつづき、オペラ座ではフルトヴェッグラーがワーグナーの「マイスター・ジンガー」を指揮していた。

 そして二日後(3月23日)、クロル・オペラハウスで国会がひらかれた。議場の外では黒シャツの親衛隊員が、スクラムをがっちりと組み、内には褐色シャツの突撃隊員がかためていた。そして鉤十字の大きな旗を背景にヒトラーは「全権委任法」を提案した。これはナチ党に独裁権をあたえることになら法律であった(民主的なワイマール憲法はそのままとして)

 この提案にたいして、社会民主党オットー・ヴェルスは敢然と反対した。突撃隊の連中は「われわれはその法案をもとめる――さもないと放火と殺人だ」とどなった。ヒトラーは演壇にかけ上がって悪態をついた。投票の結果、賛成441票、反対94票で可決された。ナチ党員はとび上がり、腕をあげて党歌「ホルスト・ヴェッセル」をうたった。

 こうしてヒトラーの独裁権力はエセ「合法的」に成立したのだ。というのは、このとき不当に逮捕されていた一部の社共両党の議員は出席できず、しかも共産党議員団には登院停止の措置がとられていたからである。

 ヒトラーはやがて諸政党を解散して、ナチー党独裁をうちたて、1934年8月、ヒンデンブルク大統領が世を去ると、この地位を兼ねて総統(フューラー)とよばれた。そして全体主義的な統制と再軍備政策をもって、また対外的にはヴェルサイユ体制の打破によって、政権をかためてゆくのである。

「ナチスの手口」に学んでいるアベコベ政権が成立を企んでいる「緊急事態法」はまさに「全権委任法」に匹敵するのではないか。

(3)8月29日
松田文相のとっぴな発言


「パパ・ママを使うのはいかん」

 皇国日本が叫ばれている時代を象徴するような一席を――。

 われら東京の下町の悪ガキどもは昭和10年代には、トオチャン・カアチャンであった。少しく長じると、オヤジ・オフクロ。山の手のお坊っちゃま君たちが「パパ・ママ」なんてほざくのを聞くと、ヘドが出そうになったものである。

 それより少し前にこんな愉快な出来事があったのである。1934年8月29日、当時の文部大臣松田源治が、家庭でパパ・ママという言葉がはやっていることについて、新聞記者に語ったというのである。
「日本人はちゃんと日本語を使って、お父さん・お母さんといわねばいかん。またはお父さま・お母さまだ。舌たらずのパパ・ママを使うのは、そもそも日本古代よりの孝行の道の廃れるもととなる」
 これが新聞に出て、近くパパ・ママ呼称禁止令が発表されるといううわさが広まった。がぜん論争が巻き起こった。家庭内の呼称にまで文相の権限は及ばぬ、いや、文相には日本の孝道発展の責任がある、と喧々囂々(けんけんごうごう)。なんとも平和にして程度の低い時代でありましたな。

 いや、今も程度の低い時代ではないだろうか。つい最近、道徳教科書検定で「パン屋」を「お菓子屋」に替えた問題があったではないか。毎日新聞のデジタル記事を紹介しておこう。
『道徳教科書検定 「パン屋」怒り収まらず』

(4)10月1日
軍事国家へのスタート

「戦いは創造の父、文化のは母」  昭和日本が軍国主義化していく背景に、第一次世界大戦後に形成された新しい戦争観がある。これからの戦争は、戦場に動員された兵数や大砲の大きさではなく、政治・経済・外交・文化・思想など民族の総力をあげた戦争になるという認識である。世界大戦でドイツ帝国は武力においては敗れなかったが、経済戦および民衆の厭戦思想によって敗れた。日本の軍部はこの新しい戦略思想を信じこんだ。

 これからの戦争は国民をまきこんでの国家総力戦になると。それゆえに、明日の国防を考えるとき、あらゆる物的資源、国力、そして機能を戦争に奉仕させねばならぬ、とした。その軍の意志を強く表明したのが、1934年10月1日に陸軍省新聞班から発表された「国防の本義とその強化の提唱」、いわゆる陸軍パンフレッドである。

 「戦いは創造の父、文化の母である」という有名な文句で始まるこの文書のもと、さまざまな批判と異議を浴びつつ、ここから軍事国家的な統制体制がつくられていった。子供たちの間で戦争ごっこがはやりだしたのも、このあとからである。

 ウイキペディアによると、「陸軍パンフレッド」の内容は北一輝の『日本改造法案大綱』をより具体化したようなものだという。『史料集』の「ファシズムの進展と思想統制」という節に『日本改造法案大綱』からの抜粋文(出典は「現代史資料)と解説があるので、それを転載しておこう。

 まず日本改造法案大綱」は1919(大正8)年、北一輝が上海で執筆したもので、緒言と巻8及び結言からなる。ファシズムの聖典とされてきた。


日本改造法案大綱

 今ヤ大日本帝国ハ内憂外患竝ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難ニ臨メリ。国民ノ大多数ハ生活ノ不安ニ襲ハレテ一ニ欧州諸国破壊ノ跡ヲ学バントシ、政権軍権財権ヲ私セル者ハ只竜袖(りゅうしょう, 天皇の袖。天皇の権威をかりること)ニ陰レテ惶々其不義ヲ維持セントス。……全日本国民ハ心ヲ冷カニシテ天ノ賞罰斯クノ如ク(この前の省略部分で「日本ハ彼ニ於テ充実ノ五ヶ年トシテ恵マレタリ」とし、第1大戦中国力が充実したことを述べている。)異ナル所以ノ根本ヨリ考察シテ、如何ニ大日本帝国ヲ改造スベキカノ大本ヲ確立シ、挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終ニ天皇大権(明治憲法に認められた天皇天皇特有大権)ノ発動ヲ奏請シ、天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完(まっと)ウセザルベカラズ。

憲法停止
 天皇ハ全日本国民ト共ニ国家改造ノ根基ヲ定メンガ為ニ、天皇大権ノ発動ニヨリテ三年間憲法ヲ停止シ両院ヲ解散シ全国ニ戒厳令ヲ布ク。……
華族制廃止
 華族制ヲ廃止シ、天皇ト国民トヲ阻隔(そかく)シ来レル藩屏(はんぺい)ヲ撤去シテ明治維新ノ精神ヲ明ニス。……
普通選挙
 二十五歳以上ノ男子ハ大日本国民タル権利ニ於テ、平等普通ニ衆議院議員ノ被選挙権及ビ選挙権ヲ有ス。……
私有財産限度
 日本国民一家ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ壱百万円トス。……

 1934年の事件でもう二つ「中国共産党の長征開始」と「ワシントン軍縮条約の廃棄」を取り上げる予定だった。この二つの事件も『残日録』であ取り上げていないので前者は『世界の歴史12』を、後者は『昭和史探索3』を利用することにしていたが、かなり長くなるので、次回に掲載することにした。
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